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小学校一年生の私は、私だった

小学生の頃は今では信じられないくらい積極的だった、フリーライターのaoikaraでした。

人生の積極性を全部使い果たしたんだ、と思うくらいに。でも同じ人間だから、同じだけの積極性があるはずだ、とどこかで信じているところもあったりして。


昨日、部屋の片付けをしていたら、ずいぶんと古い物が出てきた。ジャポニカ学習帳に、大きなマス目に、つたない文字。私が小学校一年生の、6月のときに書いた日記だ。

まだつたない、汚い字。だから自分で書いたのに、読めない。解読に時間がかかる。「や」が「か」に見えたり、「を」が「お」になっていたり、カタカナの「ト」が逆向きになっていたり、カタカナがひらがなだったり、字が多かったり少なかったり。

こういうの読み解いてる親や先生は本当に大変だなぁと、変な角度から感心した。

解読に時間がかかる理由はもう一つ。内容をまるで覚えていない。

15歳くらいに大人になった自分への手紙を書いて、それは「大人になっても覚えていそうだな」と内容を何度も思い返したせいで、未だに覚えてる。当時の手紙は届いてないけど、なんとなく覚えてる。でも、小学一年生の頃の日記は昔過ぎて、全く覚えていない。

「みずあげした。あさがおが3んこさいてました」とか、「きょうは〇〇ちゃんとがっこうにいきました」とか細かく出来事が書かれていて、なんとなくこんな風景かなと想像はできる。でも、その想像に私もいる。

つまりどういうことかというと、私の主観的な目線ではなく、第三者的目線から私を見ている、つまりは想像だ。写真を見てるみたいな、そんな感覚。

断片的な記憶のパーツはあるけど、本当にそんなことがあったかどうか、具体的な記憶はまるでない。だから、ときどき本当に何が何だかよくわからないことも出てくる。「たしざんかってもらってうれしかったです」って何だ。ドリルか。ドリル買ってもらってうれしい子どもだったかなぁ?

でも、本当に全然覚えていないのが、なんだか面白かった。


SNSとかnoteとかでも、お子さんのかわいらしいエピソードを見たり聞いたりして、すごくほほえましく思っていたんだけど、自分もそういう時代があったってことは忘れてる。

そんな幼さを思い出させてくれて、というよりは「あったんだなぁ」と認識させられて、それで小さい頃の自分を妙に愛おしく、愛らしく思ってしまった。やだ、私、かわいいじゃん!って。


あと子どもが書くことって、どうしてこんなに脈絡がないんだろうってのも面白い。

「きょうにっきいっぱいかけたらいいなとおもいました。あとなにをかこうとおもいました。」で字数を埋めようとしているのがおかしくて、そのあと「むぎちゃがなくなっていました。」で終わってて、無理矢理終わらせた感が面白い。突如「おやつたべました」とかさ。


子どもの頃はよかったよなぁ、と思うこともあって。自分が素直に感じたこと、素直に書いてる。いや、どうだろ。隠していることもあったのかな。自分に向けて書いていたわけじゃなくて、親に「見てね!」って渡していた気がするし。ちょっとは嘘も書いていたかも。

でもさ、やっぱり素直だよ。休み時間に友達と遊んで、「けんかですぐなかなおりをしました。」って書いてあった。子どもの人間関係のスピード感もいいよなぁって思っちゃった。大人ってややこしくしちゃうよね。複雑にしちゃうよね。長い時間がかかるよね。「ごめんね」「いいよ」でなんでも終わったらいいのにね。

ほかには、きょうだいは全然ちゃんとしていない。私はちゃんとやってる、みたいな愚痴みたいな告げ口みたいな悪口みたいなことも書いてる。なんか素直だよね。不満を「不満です!」ってアピールしてさ。

当時はケンカできたんだなぁ、と思うよね。大人になっちゃうと、ケンカにまで行き着かないというか、違う人間だからねって割り切ってる。それが悪いとかではないけど、大人になるってこういうことも含むのかなぁ、とは思うよね。


今の私と変わってないなぁ、と思うところもあって。日記を書くのが義務だったわけではないけど、幼い頃は親が厳しくて、約束事を守らなかったら叱られると思っていたのかな、日記を書けないよって言い訳してるんだよね。

「にっきたくさんかけるとおもいました。」と書きながら、同じ日に「きょうはにっきすくなくかくとおもいます。」と書いてる。この流れが何度も出てくる。自分のことなのに笑っちゃう。

あらかじめ叱られないように、やろうと思ってたんだけどできないんだよね、ああ私も残念だな、みたいな気持ちを演出している感じがするんだよね。ちょっとずるいというか。

今の私も、責められないように怒られないように、私はやろうと思ってたんだけどできないんだよね、ああ私も残念だな、みたいなの演出してるところあるよなぁと思って。ずるいね、いや誠実さもあるんだよ。自分で言うかって話なのは置いておいて。三つ子の魂百まで、だよね、本当。


あと、「なきそうでした」って言葉もよく出てくる。けど、絶対「なきました」とは書かれてないの。泣きそうになってるけど、泣いたとしても、泣いたとは絶対書かないのね。

昔から私は変なところ負けず嫌いだった。もちろん泣かない子ってわけじゃなかった。悲しかったり、怒られたりしたら、びゃーびゃー声を上げて泣いてたと思う。

でも見栄っ張りだったから、家の外では泣かないと決心していて、小学生の頃は学校で泣いてないんじゃないかなと思う。

泣いている子を見て、「みっともない」くらい思っていたかもしれない、ひどい。今では、泣いている子だって好きで泣いているわけじゃないことはわかる。それに素直に泣ける方がいいって、むしろうらやましくも思う。

今でも、泣きたいときにびゃーびゃーと泣けなくて、泣きたくなくて、ぐっと強がってるところがあって、今の私と同じだなって思っちゃった。この頃から、負けず嫌いで強がりで見栄っ張りなんだな、私。


あまりにも懐かしすぎて、母にも見せて、一緒に読んだ。当時は母親に提出していたようで、ときどきは赤ペンでコメントを返してくれている。子ども相手にしては手厳しくない!?みたいなコメントを指摘したら「たしかに」と笑いながら頷いていた。

一緒に読んでいたら面白すぎて、自分のことなのに自分じゃ理解不能だから、楽しくなってなんかちょっぴり涙流しながら笑えてきちゃった。今までに味わったことのない、なんだろうね、この感情は。

自分で自分に「愛おしい」だなんて、めちゃくちゃおめでたいというか、ハッピー人間だなと思うのだけど、なんというか幸せなのよ。わかんないけど、言葉で形容できないけど。


今、いろんなものをぽいぽい簡単に捨ててるんだけど、“当時の私が思っていたこと”みたいなものは捨てないで置いてるんだよね。人生にどうしようもなく絶望してるときとか、もう全部嫌になってるとか、恋しちゃってるんるんしてるとか、まあ人には見せらんない「黒歴史」ってやつかもしれない。

でも、なんか全部あって今の自分になってるんだなぁと、強く思うから、私はなんだか全部愛おしい。今の自分に大満足ってわけじゃないよ。むしろしんどいことの方が多い、近々ではね。それでも、なんだか昔の自分が愛おしいの。

覚えてなくても確実に自分を形成してきた思いがあるんだなぁと認識できるのはすごく面白い。思いの残し方ってのは人それぞれあるんだろうけど、私にとってはたぶん昔から「書く」なんだろうね。

そして今の気持ちはnoteに書いてる。ノートからnoteへ。あ、ちょっとおしゃれ?そんなことないか。ずっとnoteで書くかはわからないけど、それでもこの先に書いたものを見返して、こっぱずかしくなりながら、ものすごく後悔しながらも、ほんのちょっぴりでも愛おしさを感じて思い返せたらなと思ってる。

2020年9月4日(金)

No.623


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