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「私だけが困る」を一つでも減らせたら

こんななぞなぞを聞いたことがある。

マンションに住んでいる太郎さんは、エレベーターを使う。出かけるときは1階までエレベーターに乗ったままだけど、部屋に帰るときは途中でエレベーターを降りて、そこから階段を使う。さて、どうして?

答えは、「太郎さんは子どもで、自分が住んでいる部屋のボタンが高い位置で押せなかったから」というもの。


なぞなぞを知ったときは「なるほど!」と思ったけれど、実際にエレベーターに乗って、ボタンを押して、そんなことを考えたことはなかった。

車いすの人でも押せるようにと、低い位置に横向きのボタンがあるのは知っている。あれなら子どもでもボタンを押せるなと思う。

エレベーターのボタンについて調べてみると、車いす用のボタンの場合はエレベーターの扉が開いている時間が長く設定されているのだと知った。

さらに、エレベーターに鏡があるのは、車いすの人が乗っているときに、なかで回転ができず、後ろ向きで出るときに後方を確認するためというのも初めて知った。

▼参考元

https://www.n-elekyo.or.jp/contact/index.html

エレベーターの鏡を見て身だしなみをチェックすることはあったけど、困り事を解決するための実用的なものだとは知らなかった。


多くの人は困らないかもしれないけど、「私だけが困る」ことはある。自分にもあるように、私ではない誰かにとって困っていることが、気づいていないだけで世の中にはたくさんあるのだろう。

決して「私だけ」でなくても、少数派だと、もどかしさや困り感を理解してもらうのは難しくなる。

「困っています。なんとかしてください」と言っても、声が少なければ届かない。ときに大きな声を上げるために、大きなことをしようとすると、「困っている」気持ちよりも、パフォーマンス的だと賛否が起きる。

パフォーマンス的にする必要はないと、言う人の気持ちもわかる。でも大きなことをしないと議論にもならない。果たして自分は今まで生きてきて考えたことがあっただろうか、そんな自戒さえある。


自分以外の「私だけが困る」になかなか気がつかない。気づけない。なぜなら自分は困っていないから。知らない、気づけない、それ自体は仕方がないとも思う。

でも、だからこそ「困っている」と知ったとき、どうしたらいいか。社会のシステムだから「仕方ない」と言う人もいる。少数派だから「我慢すればいい」と言う人もいる。全てが間違いだとは言わない。どうしようもできないこともある。

だけど、そこで終わらせたくはない。困っている人の目線に立って、「それは困るよね」「しんどいよね」と思いたい。

子どもの目線でかがんだときに、初めてエレベーターのボタンに手が届かないと気づくように、誰かの目線になってみるだけでも見え方が違ってくるんじゃないだろうか。

「何かできることはないか」考えたい。私が「私だけが困っている。私だけが我慢すればいいかもしれない。だけど、本当に困っていて、どうしたらいいか」と言ったとき、「それじゃあ一緒に考えようよ」と言ってくれる人がいたらうれしいから。

でも、自分の中で考えるだけだと、煮詰まってしまう。現状の困り事はどうしたらいいんだろう。たしかに改善したい。でも、いろんな議論の結果が今。つまり今が最善で、これ以上を求めるのは難しいのかも。

自分だけだと答えが出ない。特に今まで気づかなかったなら、きっと知識も少ないだろうから。

だから、たくさんの人と困り事を共有する。専門的な知識を持っている人がアドバイスをしてくれるかもしれない。全く関係のない人だからこそ、新しい発想を出してくれるかもしれない。批判的な意見は、客観的に考えたときの懸念として、考えなければならない課題でもある。

こうやって「私だけが困る」をみんなで考えられたら、一人一人の生きづらさは少しずつでも減らせるんじゃないだろうか。

理想論かもしれないけど、人が人を思いやれば、お互いに思い合う気持ちで人がつながってまちは作られていく。そんなまちが増えていけば、違う人と人でも暮らしやすい、生きやすい社会になるんじゃないだろうか。


私の目線と、あなたの目線、どちらにも立って考える。賛否でも思いを共有する。そんな人で、そんなマチで、そんな社会で生きていけたらいいな。

まずは“人”である私から、あなたの「私だけが困る」について考えてみることから、始めてみよう。

2021年10月3日(日)

No.1014

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