私は年を取っていくのだと、あたりまえなのに忘れていた
ふとした瞬間、自分の年齢に自分で驚く、フリーライターのaoikaraです。
「あー私、もうこんな年なんだな」と思いながら。実年齢に対して、精神的に、社会的にも、自分のイメージする“その年齢”には到達していないからだと思う。
未熟だと、自分では思う。成熟はできなくても、近づきたいとは思う。
自分の行動や発言に、「大人として」という枕詞もついてくる。だけどなんとなく思っているだけで、具体的じゃない。言葉の輪郭として発してみるし、思ってみるけど、中身はすかすかしている。
でも、もうすっかり“大人”なんだな、と思う瞬間もある。疲れは体や顔に残るし、ケガをするし治りにくいし、肌のハリだとかね。マイナスな加齢だけでなく、思春期に悩まされていた自意識から離れられたとか、忘れやすくなったから流せることも増えたとか、プラスの加齢もある。
社会的に考えれば、人とのつながりとか、自分が情報として取り入れるものには、家族を作るとか、家庭を築くといったものが増えたなと感じる。
それでも、ただ一日、一日を生きていると、年を取っていると忘れる。今日何をする、明日はどうする、ただ一日を生きる、を繰り返しているから。もちろん将来も考える。
でも、まず今どうするかの課題と毎日向き合っていると、将来も“今”の積み重ねでしかなくて、重みのある年齢としての自覚がなく、いつの間にか年を取っているという感覚がある。いつまでも若者気分ってわけじゃない。
そうじゃなくて、年を取ったという、自覚や実感がなく、でも体や心は大人だなと思う瞬間もあって、なんだか不思議な感覚だ。
最近、とある物をいただいた。すごく上質な物で、とてもありがたい。おそらく自分では選ばないし、目が行かないし、あったと知っていても「自分に」とは思わないだろう、すごく良い物。自分にはない物を取り入れるという意味でも、いただき物として本当にありがたいし、うれしい。
いただいた瞬間、ドキッとした。「私がもらっていいのかな」と。自分よりも大人が持つ物じゃないかと、瞬間は感じた。でも、私の“年齢”だけを考えてみれば、持っていても不思議ではない、むしろしっくり来るものだった。
「私の年齢って、もうこういう物がふさわしい歳なんだ」と気づいたら、年齢の自覚と実感がぶわっと襲ってきた。
今まで、自分が生きてきたあらゆる物事の積み重ねが年齢となり、年を取ったからこその良い変化も悪い変化も感じている。そして、年齢を重ねれば、自分に何を取り入れるのかも変わってきている。
“これまで”が私を作ってきた。でも、“これから”を自覚的に作っていくことも大事なんじゃないか。年を取っていくのだと意識すれば、自分に対して選ぶものや取り入れるものが変わるんじゃないだろうか。
「年齢を重ねて選択を狭めてしまうの?」と言われそうだけど、むしろ逆で。
私は、とても上質なものを「自分にはふさわしくない」と感じて、避けてきたように思う。それは自己肯定感の低さも関係しているけど、年齢も言い訳にしていた。「まだ早い」とか「もっと大人になってから、年を取ってから」とか。
でも、自分の年齢を改めて見れば、全くそんなことはない。もう、上質なものを自分に取り入れていい歳だ。もちろん、年齢だけで全ての判断をするのは違うけど、都合のいい年齢の言い訳はできないし、だったらちゃんと年を取ろうと、考えていきたいなと思った次第で。
年齢と共に選択の幅を広げて、今まで避けてきたものを取り入れる勇気を出そうかな。いただいた物にふさわしくなれるよう、自分も磨きながらね。いい年の取り方をしたい。
2021年3月18日(木)
No.816
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