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私はもう一人の私と一緒に生きていきたいの?

誰かと人生を共に歩めたらいいと思う、フリーライターのaoikaraです。

ひとりは好きだし、ひとりでいる時間も必要だけど、ときどき襲ってくるとてつもなく大きな孤独感は、ひとりで耐えられそうにない。心のそばに誰かがいてほしくて、きっと物理的にもそばにいてほしい。

ひとり分でも“生活する”のはとても大変で、自分のことでいっぱいいっぱいになる。ふたり分となると相手のことでさらにいっぱいになる。でも、分かち合うこともできる。そんな、誰かと生きていきたい。


誰かと一緒にいようと決断すると、この先ずっと一緒に生きていくことまで想像してしまう。

今、ただ一緒にいるだけなら、ときどきの小さな違和感は、気にしないフリをしてやり過ごしてしまう。だけど、この先ずっと、と考えるなら、向き合い、伝える。そうやって一緒に歩んでいこうとする。

でも、点在していた小さな違和感が、線として結びついていたとき、その線が私に絡まりほどけなさそうだと思うと、「この先、一生一緒に生きていこうとは思えないかも」と感じてしまう。最悪、その人とは離れる決断をする。


相手からは、小さな違和感は“点”でしかなくて、私に絡まっている線は見えなくて、「離れたい」という私は重大すぎると捉えられることもある。

たしかに、重く受け止めすぎだとか、考えすぎだとか、私自身も思う。小さな違和感から「さようなら」にたどり着いてしまうなら、誰にだって最終的に「さようなら」と言って、結局ひとりになるんじゃないかと。言われたこともある。自分でも思う。

とはいえ、すぐに何でも嫌になるわけではなく、考えて考えて考えて考え抜いて、の最終的な決断で。離れて心が開放的になると、自分にとってよかったんだと実感できるからいいのだけれど。


小さな違和感が「この先、一生一緒に生きていこうとは思えないかも」になってしまうのがこわくて、深掘りしないこともある。“逃げ”だね。

小さな違和感の正体は、理解したいと思うのに理解できないもどかしさから来ているような気がする。でも、そんなのあたりまえ。だって自分と他人は違う。どんなに共感できる人だって、どんなに大切な人だって、どんなに好きな人だって、他人なんだから100%は理解できない。

でも、私はその“違い”を忘れている。いや、頭ではわかっている。人はそれぞれみんな違っていて、違いを受け止めて、受け入れて、違うままに生きていくんだと。

だけど、私は「こうしてほしかったのに」「私だったらこうする」なんて思っている。じゃあ、私が人生を歩むのに必要としているのは、もう一人の私なの?私は私と一緒に生きていきたいの?

相手を私にそっくりそのままコピーしたら、たしかに私の気持ちが手に取るようにわかって、私が必要としているものをちょうどいいタイミングで用意してくれるだろう。でも、それは相手に求めるのではなく、自分自身でやればいいだけなのでは?


誰かと人生を歩もうとするのは、すなわち自分ではない誰かと、違いを知りながら違うまま生きていくこと。違うからこそ、自分自身ではできないこともできる。違うからこそ、ぶつかる。違うからこそ、自分だけでは行けない場所に行ける。

そんな前提を忘れて、ずいぶん欲張りになっていたなと思う。相手が「あなたは私のように生きなさい」と言われたら、速攻で拒絶反応を示す私だろうに、相手に求めるなんてひどい話だ。

私は私ではない人と生きていきたい。違いを知って、ときに失望して、それでも希望を持って、自分だけでは見つけられないものを見つけて、違うままに生きていきたい。

2021年8月29日(日)

No.979

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