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私は「私は」と言えばいいという、あたりまえだけどあたりまえにできない話

「私は」、フリーライターのaoikaraです。

英語は「I」から始まる。「私は」。日本語も「私は」で始まることもあるけれど、主語が省略されることもある。「私はこう思う」を「こうなんだよね」と言ったり、「私は嫌だ」を「なんかちょっとね」と言ったり。

主張するのは、意見を言うのは、はっきり誰とは言わないあやふやな感じは、自分を相手に押しつけない意識の表れなんじゃないかと思う。

“日本語は”と主語が大きくなってしまったけれど、英語や別の言語でも主語が省略されることはあるのかもしれない。知識がないから知らず、言葉足らずだったら申し訳ない。私は日本語を話すから、日本語的な感覚があるのだと思う。


常に「私は」と自分のことを考えているはずなのに、口に出して「私はこうだ」とはっきりと伝えるのは難しかったりする。「私は」押しつけがましくないだろうか、「私は」嫌われてしまわないだろうか。

でも私は私なのだから、「私は」と言うしかない。とてもあたりまえのこと。全然押しつけがましくない。「私は」と言えば、相手も「私は」と返すだけ。それがコミュニケーション。

「私は」と言ってもしも嫌われたなら、それまでで。嫌わないために嘘の「私は」を言ったところで、結局自分が苦しくなるだけ。本当の「私は」を言い続けるしかない。

あたりまえなんだけど、「私は」で勝負するのがこわいときもある。


「私は」と言いにくいなぁ、どうしようかなぁ、どうやって伝えたらいいんだろうなぁ…と考えていた相手から、また別の誰かにどうやって「私は」と言ったらいいんだろうと相談された。

「わかるよ」と言った。私も、あなたに思ってた。あなたが言いにくくさせているわけじゃないよ。私が、私の中で考えて、私が勝手にこじらせているだけ。それで私があなたを嫌いになるわけじゃないし、あなたといる。

私は、あなたに、「私は」と言うしかないと言った。伝え方はいろいろあるけれど、本当の「私は」もきちんと伝えないと。相手が違う意見だったとしても、「それがあなたなんだね」と違うまま理解してくれればそれでいい。受け止めてもらえなかったら、そのときまた考えればいい、と。

相手は納得したようで、自分の言葉で「私は」と伝えていた。あなたに言った言葉は、そのままそっくり私に言えばいい言葉だった。

「違ったらどうしよう」「間違えたらどうしよう」「嫌われたらどうしよう」それは、そのとき考えればいい。本当の自分の「私は」を伝えて、そこから始まるんだと。そのとき、ようやく「私は」と言えたのだろうと思う。


とはいえ、この先も「私は」というハードルを越えられなくて、うーんと思い悩むときは何度だってくる。そのとき「大丈夫だよ」と思い出せるように、ここに書き記しておく。

2021年8月27日(金)

No.977

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