自由でいいよ

タイトルは最近言われてうれしかった言葉、フリーライターのaoikaraです。

「自由でいいよ」

ってね、言われてうれしかった。

近い言葉として、「自分らしくいてくれればいいよ」って言われたこともある。それもうれしかったけど、その人が抱く私へのイメージが、私自身が抱いているイメージと違っていると感じて、その人の言う“自分らしい私”でいなければならないような気がしてた。

でも、相手が私にイメージを押しつけてきたわけじゃない。私が勝手に言葉から受け取ったプレッシャー。どんな私であっても大丈夫、自分らしくあればね、というやさしさだったと思う。

でも、相手が抱いているイメージが伝えられれば伝えられるほど、それは本当は私じゃなくて、自分が望んでいるものに私を重ねているんじゃないかなと感じてしまって、私はやさしさをやさしさとして受け取れなかった。

私も、悪いと思う。相手に合わせよう、相手が望むものを与えようとしていたから。相手のことを思うからこそ、と言いながら、本当は自分がなかっただけかもしれない。そして、どんどん自分は何者なのか、自分は何が好きで何が嫌いなのか、わからなくなってしまった。


きっと相手の問題じゃなくて、私の問題なのだと思う。別の誰かといても、結局合わせよう、相手が望むものはなんだろう、正解はなんだろうって感覚がある。だから、「あ、間違えちゃった」と心許した相手につい言ってしまった。

そしたら、「自由でいいよ」と言ってくれた。「いいよ」が口癖の人で、不思議と許されているような、認められているような、安心感があって、それでも私は勝手にテストを受けるように会話をしていたけど、ときどき自分が自由になってしまうときに慌てていたら、言ってくれた言葉。

それはきっと「自分らしくいてくれればいいよ」と同じ意味なのに、まるで違う聞こえ方をして、自由にしちゃったと思ったから、「自由でいいよ」が自分の中に響いたのかもしれない。

でも、「自由でいいよ」だって、「自由って何?何を自由だと思ってるの?やりすぎたらやっぱり“やりすぎ”ってなっちゃうのかな?」とか思おうと思えばいくらでも思える。けど、そうはしなかった。

何を言われたか、だけじゃなくて、いつとか、誰にとか、いろんな要素が合わさって言葉は形をなして言われた側に浸透していく。そのときの私には、とっても浸透する言葉と、やさしさだった。


その人と話していると、「あ、私自由にしすぎちゃった」と思うことがある。でも、私は楽しくて、それ以上に相手はもっと楽しそうで、「自由でいいよ」が効いてる感じがして、なんだか居心地がいい。

そのときの私だからこそ届いたやさしさを届けてくれてありがとう。なんて、ここに書かれたものは、なんて自由で、なんてやさしくないんだろう。でも、自由でいいかな。自由でいいよって、思えたらいいな。

やさしさを受け止められなかったやさしくない私だけど、届いたやさしさを大事にしたい。そしたら、自由に、それでもやさしくなれるかな。

No.704

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