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私はただの人で、特別な人

子どもの頃は神経衰弱が得意だった、フリーライターのaoikaraです。

幼いときは記憶力がよかった。それはきっと、記憶の容量に、まだそんなにたくさんの記憶が入っていなかったから。年齢を重ねて、いろんな記憶がメモリに増えてきたら、容量の残りは減るし、記憶力も人並みになった。

今は、たいして神経衰弱が強くはない。

人生のある地点までは、「自分は特別な人間かもしれない」という淡い期待を持っていた。「特別ではない」と気づいてもショックではなく、“ただの人”を大いに受け入れて、“ただの人”として生きている。

“特別”とは相対的だ。たくさんの人の中で、何かが秀でているから“特別”になれる。

とある人が私に言った。人生に意味はない。自分が生まれてきた理由なんてない。ただ偶然が重なっただけ。誰も特別なんかじゃない。みんながただの人。

だからといってその人が誰しもを“ただの人”として平等に接していたわけではなく、“特別視”もしていた。絶対的には誰も特別ではなく、相対的に自分の中で“特別”の見極めはしていたのだろう。


でも、私はそうは思わない。個々人の意見だから、その人はその人の意見のままでいい。否定するわけではなく、私は違う意見だというだけ。どちらが正しいとか、どちらが間違いとかではなく、単なる私の主張。

私は誰もが特別なのだと思う。生まれてきた、今いるというだけで、何もしなくても誰しもが特別。生まれてきた理由はわからないし、ただの偶然かもしれないけど、でも今いる事実は変わらない。

それは相対的ではなく、絶対的な特別だ。誰しも、その存在だけで特別。


これは人の受け売り。アイドルのNiziUが誕生する前のオーディションで、事務所であるJYPの社長、J・Y・パーク氏が言っていたこと。

NiziUの歌や、同じJYPの先輩アイドルITZYの歌にも、絶対的に特別なんだという歌詞がよく出てくる。

「誰かになる必要ないよ ありのままでいい」
「すでに特別な君を誇るべきだから」
「私は私」

とか。なかでも

「I wanna be me」

という歌詞が大好き。「私は私になりたい」。


社会なんて相対的に生きていくものだから、“誰か”と比べて、“私”が揺らぐなんてことは日常茶飯事。誰かと比べたら、自分が特別ではないと気づく瞬間なんて無数にある。

だけど、本当は特別。絶対的に。

自分がただの人だってわかってる。平凡だなんて知ってる。言われなくたって。相対的にね、社会で生きていくときに、平々凡々を受け止めている。

だけどね、絶対的に特別なんだって思いが、生きていくエネルギーをくれていると思う。だから社会のいろんなことに立ち向かっていける。

だから、私はただの人で、特別な人。

2021年11月25日(木)


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