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失敗と向き合う、新しいやり方

新しいやり方を試してみている、フリーライターのaoikaraです。

自分の問題と向き合うべく、専門家が一般的にも読めるようにと書いた本を読む。ひとつの方法にだけ頼っていたけど、どうにもこうにもならなくて、別の方法を探そうと思って、新しい本を読み始めた。

まったく違うアプローチで、今日から試してみることにした。

まったく内容が違う本だけど、共通しているのは「この方法を信じてください」ということ。直接的に書かれているわけではないけど、暗にそう言っている。この方法が正しいのだ、という自信に満ちあふれている。

そんなことを言われているわけではないけど、それでもうまくいかなかった私は「ちゃんと信じていないし、ちゃんと頑張っていないからですよ」と言われているみたいな気持ちになる。同意したい気持ちと、反論したい気持ちがある。


信頼というのは、時間と相互の思いが必要だと個人的には思っていて、本を読むだけで信じるというのは、時間も少ないし、一方的な情報に過ぎない。「信じてください」と言われれば言われるほど、「大丈夫かな」と不安になる。信頼なのか、盲信なのかわからなくなると怖いから、俯瞰したい自分もいる。

それに、本に書かれている内容は100%やれているとは思えない。自分が求めているハードルが高いのかもしれないけれど、「頑張っている」と自信を持って言い切れない自分がいるのもたしか。

だけど反論したいのは、それでも自分ができることをやっているという事実。「頑張れない」のも現状の自分として仕方がなくて、後ろ向きな気持ちになることもあって、そういう自分だから迷っているし、悩んでいるし、苦しんでいる。最初からうまくいくなら、本を読んでやってみようなんて思わない。


だけど、だから、新しい方法を試す。もう、何度もいろんな方法を試した。誰かに話せば、軽い気持ちで「こうしてみたら」と言う。軽い気持ちだ。

重篤な体の病気について「この薬を使ってみたら」「この手術をしてみたら」と軽い気持ちで言う人はいない。でも、心は違う。心のことは、ずいぶんと軽い気持ちで“アドバイス”してくれる人がいる。それだけでもう、無意識に軽んじている、と私は感じてしまう。

そして、その人が伝えてくれることは、何度となく考えてきた私がもう何度だってやってきていることで、何度だって考えたことだ。だから、だんだんと自分から明かしたくなくなるし、明かしていない。明かしたくない。


ここで起きたことではないと弁明はさせてほしい。ここではなく、ここまで目が届かないような、もっと私の狭い社会の中での話であるので、ここでのやりとりが私にとって苦しくなっているということではないので、それだけは伝えておきたい。


新しいやり方は失敗を向き合わなければならず、それが苦しい。耐えられなかったらきっとまたやり方を変える。この文章を書く前は、苦しいことに向き合うことを乗り越えたけど、今書いていたらまた苦しくなってきた。嫌だね。

そして、やっぱりこの方法で大丈夫だとか、信じられない気持ちがある。信じたいけど信じられない?いいや、信じられないのは方法ではなくて、自分なの。自分が自分との約束を破るのが一番苦しい。

2023年1月30日(月)

No.1487

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