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No.550 何色だって美しい

書くのを迷うこともある、フリーライターのaoikaraです。

私が今日書くことは、たぶんきれいごとだと思う。知識があるわけでもない、信念があるわけでもない、ただ私が思ったこと。誰かを責める意図ではなく、みんなで理解し合えたら、という思いで書きます。

「この色は美しい」
「この色になりたい」

と思うことは、個人の感性だと思う。何色が美しいのか、だから自分は何色になりたいのか、思うのは自由。別の人は別の色を美しいと思い、別の色になりたいと思うかもしれない。それぞれの美しさ、それぞれの感性がある。それは自由。

それは決して「この色以外は美しくない」「この色以外は認めない」ということではない。各々が考える美しさが違うだけで、その美しさ以外に価値がないと言っているわけじゃない。

でも、ある色だというだけで、蔑まれてきた人がいる。差別されてきた人がいる。生まれながらに変えられないものが、生まれてきた姿が、蔑まれたり差別されたりする理由なんてない。だから、差別する社会ならば、変わった方がいい、と私も思う。

蔑まれてきた、差別されてきた人からすると、自分たちではない色を「美しい」「なりたい」と言う人たちが、時として自分たちの色への侮蔑的な意味を込めていたこともあったのかもしれない。だから、別の色への感性も“差別”に感じられてしまうのも、仕方ないのかもしれない。

でも、そうではないよ。「この色を美しい」と言う人もいれば、「あの色を美しい」という人もいて、「その色になりたい」という人もいる。「この色は美しくない」「あの色にはなりたくない」と指をさせば、公に言えば、それは差別になるかもしれない。

そうではなくて、何かを踏み台にしたわけではない純粋な「美しい」という感性まで止めるのは、自分たちの尊厳を奪ってきた誰かと同じように、また別の誰かの尊厳を奪うことにはならないか。

蔑まれてきた人が別の色を蔑んだり、差別されてきた人が別の色を差別したり、自分たちがされてきたことをやり返すのは、そうでもしなければわからないだろうという激しい気持ちになるのは理解はできるけど、でも違う方法を選んでほしいと思ってしまう。

生きづらい立場の人でも生きやすくなっていく社会が良いと、私も思う。でも、「あなたたちも生きづらさを味わいなさい」と別の人たちに不自由を与えるのは違うと思う。差別していた人たちを差別していい理由はない。自分が差別を始めたら、永遠に終わらない。自分の苦しみを別の人に与えるだけ。

自分に向けられたその指を、別の誰かに向けないで、みんなで手を取り合ってはいけないのだろうか。


私は運が良いことに、自分自身ではどうしようもできないことで、差別をされたことはない。私が何色かということで差別されたことはない。同じ色の中だけにいたからだと思う。別の色の人の中にいたら、差別されたのかもしれないけど、なかった。

ほかの“色”に関することで、ひやりとさせられたことはある。あ、私がこの色だからこんな自尊心をギリギリ踏みにじりそうなことを言えるんだな、というとき。私がこの色だから、前と全く態度が変わってしまったんだな、というとき。でも、それは個人の「いけすかない」感情の範囲を出ず、私の立場が危ぶまれることもなかった。差別の一歩、二歩手前だった。

だから、そんな自分が何色かで差別されたことがない私が言うのはきれいごとだ。でも、それでも、何色だって美しいと思う。

日本語には「色々」という言葉があって、色と同じように、人間も「色々」いる。「色々」な美しさを、「色々」な人を、認め合っていける社会になろうよと、どの色であっても思えたらいいのになと、そんなきれいごとを思う。

それは本当の色の話だけでなくて、人間社会のさまざまな“色”の話でもあって、それぞれの色の尊厳を踏みにじることなく、それぞれの色を尊重していければ、それはカラフルで色々なそれぞれにとって住みよい社会になるんじゃないかと、やっぱりそんなきれいごとを思う。。

混ざり合うと美しい色にならないと言う人もいるけれど、それぞれの色として存在していることを残せば良くて、「色を消してしまえ」なんていうのは何もない世界を作ることと同じだと、そういろいろ思う。

2020年6月22日(月)

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