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みんな、限られた世界で生きている

知らないことが山ほどある、フリーライターのaoikaraです。

知らないことに出会うと、自分が見えている世界がとても狭くて、そして世界がとても広いことを思い知る。

たとえば、Twitterのトレンドワード、YouTubeの急上昇動画、全然知らない世界の知らない出来事がものすごく大きな話題になっていることがある。その世界を私から除外しているわけじゃなくて、「知らないなぁ」という肯定でも否定でもない感想として、ある。

それは私が世間知らずなのかもしれないし、物を知らないのかもしれないし、流行に疎いのかもしれないし、情報・コンテンツ強者じゃないのかもしれないし。だからって自分を卑下する意図も、相手を見下ろす意図もない。

インターネットができて、なんとなく世界中とつながっている、自分のコンテンツが世界中に発信されているような気がするから、すごく広い世界を見ているような錯覚があるんだけど、実はそうじゃないのかなって思う。

まず、言語が変わってしまうだけでも、理解することさえ難しくなる。母国語以外が200カ国近くあって、日本人1億2千万人以外の人75億8千万人もいて、それだけ理解できないモノがある。モノというのは、人とか文化とかたくさんのこと。

だから、知っている世界より知らない世界の方がずっとずっと広いだろうと私は思う。

たぶん、私が生きていける世界、生きていく世界、見えている世界はとっても限られている。


それは広い世界と比較して、小さな世界や個人の価値を矮小化するのとは違う。要するに、良いことも悪いことも「世界から見たらたいしたことない」と言ってしまうのは違う。たぶん、それはそう言いたいだけの人だ。その人も限られた世界しか知らない、お互いに。

この限られた世界と、見たことのない、見ることがないかもしれない広い世界を、ポジティブに受け止められたらいいなと思う。

自分の世界に閉じこもって悩みに悩んでしまうとき、それも大切なことだけど、自分自身の心を広くさせる手立てとして、自分だけの限られた世界じゃなくて、別の世界を見てみる。もっと広い世界があると知ってみる。もっと行きやすい場所があるかもしれない。逃げる居場所があるかもしれない。

たとえば炎上したら、間違いがあれば正すことも大切だけど、だからといって人が傷つく言葉を投げかけていい理由にはならないし、世界中から攻撃されているように憎まれているように感じるけど、それは世界中の中の限られた国の限られた人の出来事なんだよと受け止めたら、少し心が楽になるかもしれない。

逆に広い世界で傷ついたら、自分の限られた世界にこもってもいい。鳥かごの鳥はかわいそうだという人がいるけど、それはわからない。自分の世界からするとかわいそうに見えるだけで、鳥の世界では幸せかもしれない。何が幸せかなんて、誰にもわからない。

「こんな世界の人とは相容れない」と排除するのではなくて、誰かの居場所を奪うことなく、それぞれの世界で生きていって、「違う世界もあるんだな」と思うにとどめておけばいいのかなって。


たとえばマスコミや、今でならネットで大きく取り上げられると、世界中で関心があるような気がしてしまうけど、決してそんなことはなくて、たぶん何でもどこでも誰でもいつでも限られた世界なんだろうなと思う。

「世界の常識でしょ?」って態度は、その人の世界だけの話で、個々人にそれぞれの世界があるという前提じゃないと、それは誰かを傷つける態度かもしれない。

主語が大きくなるとか、攻撃性が強くなるとか、そういうのも何か世界中が全て自分の味方になったかのような、全能感がさせることなのかなって。限られた世界だって忘れて。傷つけることをいとわない、恐れない、それってこわい。

だから、限られた世界だと知っていたら、そこから逃げることも考えられるし、視野も広がるし、誰かを傷つけることの恐ろしさも知れるし。

限られた世界を、世界の全てだという気持ちは大いに理解できるし、それは「わかるよ」と寄り添いながらも、狭い所でいっぱいいっぱいになってしまっているものを、広い世界に解き放てたらいい。

と、限られた世界の一住人として考えている。

2020年9月20日(日)

No.639


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