【短編小説】高級時計

男は有名になりたかった。
男は、自称、物書きのはしくれであった。
テレビの中では、若いイケメン脚本家が悠々と仕事について語っている。
しかし男は、見た目にはこだわらなかった。
風呂は3日に1回しか入らず、無精髭の冴えない顔に毎日同じ服を着て歩いた。
きれいな容姿などなくとも、自分の実力だけで有名になれるはずだと、信じて疑わなかった。

男が、いつものようにビニール袋をぶら下げ、商店街を歩いていると、新しい時計屋ができているのを見つけた。
男は引き寄せられるようにふらっとその店に入った。
すると、光沢のあるスーツを着た若い男が、早歩きで男に近づいてきた。

「お客様。大変申し訳ございませんが、お引き取り願います」

「突然なんなんだ。この店は客を選ぶのか」

「こちらは、何百万という腕時計が並ぶ、高級店でございます。ご来店されるお客様には、一定のドレスコードをお願いしております」

「時計屋でドレスコードなんて聞いたことがないぞ」

「大変申し訳ございません」

その後も、男が何を言っても若い男は「申し訳ございません」と繰り返すだけだった。

「こんな店、2度とくるか」

男は言葉を吐き捨て、イライラとタバコをぶら下げて帰宅した。
時間が経っても怒りがおさまらなかった男は、その夜、1人の友人を夜の街へと誘い出した。

「聞いてくれよ。商店街の時計屋に門前払い食らったんだ。お高い商売しやがる」

「あそこの時計屋は、この辺では1番高い時計屋だろ。そりゃあ、その格好では入れないさ」

「時計を買いに行くのに、きれいなスーツが必要だっていうのか」

「ないよりは、あった方がいいかもしれないな」

「お前も売れて、そっち側の人間になっちまったか」

「まぁ、信じるかはお前次第だが、きれいな服を着ているということは、ひとつの説得力になる。あと、その無精髭も剃ったらどうだ。なかなかいい顔してるんだから」

「けっ、冗談じゃない」

その夜はそう言ったものの、自分を店から追い出した若い男を、どうにか見返してやりたかった。

男は翌日、意を決して美容室へ向かった。
髭が無くなり、ジェルの香りがプンッと漂う自分は、意外と嫌いではなかった。

次に男は、近所のスーツ屋へ向かった。
2年前からやっている閉店セールのおかげで、比較的安く手に入れることができた。
スーツの良し悪しは分からないので、無難なダークグレーのスーツを選んだ。

男は、人生で初めてスーツを着た。
何か不思議な魔法にでもかかったように、背筋は伸び、口調は丁寧になり、心臓は引き締まった。
男はその気持ちのまま、例の時計屋へ向かった。

扉を開けると、あの若い男が立っていた。
私を見るなり深々と頭を下げた。

「いらっしゃいませ」

あの日門前払いをした人間だと、気づいていないようだった。
ガラスケースの中で輝く時計は、それぞれ別々の輝きを放っていた。
金額を尋ねると、到底、男の手に届く代物ではなかった。
しかし男は、若い男が丁寧に接してくれたことだけで、大変満足だった。
店内を一周し、外へ出ると、いつもの喫茶店へ向かった。

L字型のカウンターと、ソファ席が2つだけの小さな店である。
入り口から1番遠い、カウンターの端っこが男のいつもの席である。
しかし今日は、その席に1人の女性が座っていたので、男は椅子2つ空けて、マスターの目の前に座った。
マスターは、小皿に盛られたピーナッツを出した。
その様子を見ていた女性が声をかけてきた。

「常連さんですか?」

「あぁ、はい」

「きれいなスーツですね。今はランチタイムですか」

「あ、いえ。私は会社員ではないので」

「そうなんですね。普段はどんなお仕事を」

「しがない物書きをしております」

「あら、素敵ですね。普段はどのような作品を」

「詩や短編作品ですね」

「私の以前交際していた男性も、物書きをしておりました。言い寄る女性が後を立たないんじゃないですか」

「それが、そのような浮いた話はここ数年なくてですね。どうすれば、素敵な女性と巡りあえますかね」

「女性とは往々にして、富を持つ男が好きですからね。腕時計でもひとつキラッと輝かせていれば、簡単に手に入ると思いますよ」

「そうですか。しかし、そのためにはお金が必要ですね」

「過去に出版されたことは」

「ないですが」

「実は、私、近くの出版社で編集をしておりまして、あなたの作品を拝見することは可能でしょうか」

「それは!なんとも光栄なことですが。でもなぜ、私なんかに」

「なんと言いますか。言葉では表せないのですが、喫茶店に入ってきた姿を見た瞬間、あなたのことを知りたいと思ったのです。ぜひ、読ませていただけますか」

男は喫茶店を飛び出し、書き続けていた作品の数々を集め、袋に詰めた。
気づけばそれは、自分でも驚くほどの量になっていた。

それから数週間後、男の作品を集めて短編集を出版することが決まった。

作品は、皮肉めいた視点が面白いと、若者たちの間で話題になり、男は新進気鋭の作家として世に知れ渡った。

その才能に魅了された人々は、男に意見を求めるようになった。
男は親身になって人々の問いに答えた。
人々は、男がどんな服装をしようと、無精髭面だろうと、男のことを信頼するようになった。
そして、男の考えをもっと知りたいという人がどんどんと増えていった。

男の元には、高級時計や高いスーツがいくつも買える富が集まった。
しかし、その頃には、男には高級時計もスーツも必要なくなっていた。

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