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【短編】あさっての海

あさっての海

若津仰音・作


洋介はその日も眠れずにいた。
彼は、眠ることすら誰かに替わってもらいたいと思った。
眠ることすら――

生きることさえも、未だに覚束ない工員三十二歳、明日にはまた一つ歳をとる。

「六時半に起床すること。七時五分には家を出ること。絶対に遅刻しないこと」

洋介は床の中でそう何度も繰り返し唱えた。
オレンジ色に灯る天井の常夜灯を見詰めながら、彼は少し泣いた。


ワンルームに暮らす洋介の部屋のあらゆる壁やドアには、注意書きをした紙が貼り付けられていた。
「燃えるゴミ月木、プラ水、空缶第二金曜日」
「財布、鍵、定期、作業着、帽子」
「サイレンの音は恐くない、だいじょうぶだ」
「叫ばないこと(対策:1、2、3の我慢秒読みの実行)」
「相手の話には相槌を打つ」
「話すときは、雑談を挟む(天気・時事ニュース・ご飯の話題など。定型文要作成)」
「風呂の追い炊きが終わるまで他のことはしないこと!」・・・・・・

ここに住み始めて一年半、注意書きは増え続けていた。


洋介の部屋には家具が無い。もちろん冷蔵庫すらない。
それらを置くと、この部屋もまた、たちまち物に溢れはじめ、整頓できなくなってしまうと思っているからだ。
彼は昔、家具付の寮に住んでいた頃、部屋の散らかりが気になり始めて、掃除をやめられなくなり、仕事場に出勤することが出来なかったという苦い経験を何度もしていた。もちろんそこもクビになった。

洋介はむくっと床から起き上がると、正座をして両手を顔の前で合わせた。
「どうかお願いです、寝かせてください。寝ないと、明日の仕事が上手くはかどりません。またミスをして上長に呆れられてしまいます、班員にもますます嫌われてしまいます。どうかお願いです、眠らせてください。どうかお願いします、明日の仕事をうまく熟したいだけなんです…普通に生きたいだけなんです…どうか、お願いです…」
洋介は両目を瞑って一心に願った。
酔っ払いがゲラゲラと会話する声が遠くで聞こえる。

洋介は立ち上がると、乱れたパジャマを整え始めた。
まずは下着から。臍の上三センチあたりまでパンツをきちんとあげたあと、肌着の裾をその上にきれいに重ねる。それからパジャマのズボンを胸の下までぐいと上げて、パジャマの上着の裾を皺なく真直ぐ伸ばす。
そのまま服が乱れないようにゆっくりとまた床の中に入った。

洋介のこのルーティンは幼少期からのものだった。パジャマの少しのズレが体に不愉快に触れるたびに、彼は自分の母親を泣きながら揺すり起こしてこう言うのだった。
「裸で寝たいの!寝るときになると、服が僕のことを邪魔するの!」
洋介の母親は洋介が保育園に上がる頃には父親と離婚し、その後ひとりで彼を育てあげた。

洋介の母親は何があっても彼を叱らなかった。
「服はなにも洋ちゃんを傷つけたいためにあるんじゃないのよ、ただ洋ちゃんを包んで温めてあげたいだけ」
彼女はそう言って洋介の腹を片手でとんとん叩いてあやしながら、「だいじょうぶよ」と言って慰めた。
洋介はそれをしてもらうと、すぐに眠ることが出来た。

洋介はそのことを思い出して、また少し泣いた。
その思い出に引き摺られるように、洋介は、当時母親によく連れて行ってもらっていた海での出来事を思い出した。

海に着くなり彼は待ちきれず、そのまま波に向って走り出したのだった。
「待ちなさい」という母親の声を後ろに追いやりながら。
びしょ濡れになった衣類は、あとで海の家で、母親と一緒に笑いながら乾かした。


洋介は、急に床から這い出て立ち上がるなり服を着替えた。
マンションを出るとタクシーを掴まえた。
「ここから一番近い、砂浜のある海へ行ってください」
洋介を襲った一種の衝動は止(とど)まることなく、彼を海へと導いた。


海に着いたのは、もう夜も明けそうなほど水平線の向こうが白み出したころだった。

「洋ちゃん、もう仕送りなんていらないから。自分のために使いなさい。洋ちゃんあさって誕生日でしょうが。ちゃんと私は私で、パートして年金も貰いながら、楽しんで生活してるんだから」
洋介は砂の上で靴を脱ぐと裸足で海に向って歩き始めた。
母親から掛かって来た昨日の電話を反芻しながら。
「そうだけど、俺ももう一人前に仕事してんだから、そっちこそ心配せずに有り難く受け取っとけって」

洋介は、母の前で、強くありたかった。
彼はちゃんと普通に生活できている証を、母親に見せ続けることが、務めだとすら思っていた。

「これは、本当の僕じゃないんだ」

洋介はそうつぶやくと、穏やかに寄せては返す波の向こうを一直線に見詰めた。
波が彼の足を撫でた。
洋介以外誰もいない海の上で、だだっぴろい空が無表情に明けていく。
洋介はざぶりと海へ突き進んでいった。


「母ちゃん、ごめん」

洋介はそう呟くと、胸まで押し寄せた波の狭間で、また少し泣いた。




【YouTubeで朗読してます (ここクリックすると動画に飛べます)】



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あとがき


初めての三人称です。



今更ですが私は自閉症スペクトラム(且つADHD)です。
HSPについては
診断を受けたことはありませんが
多分そうでしょう。


ほんとうは
発達障害は
障害ではありません。
ただ得意不得意の差が激しい
性質凹凸なだけです。
(世の中の"障害"と呼ばれているもののほとんどがそうだと思います)
(少数派のものを指して定型の人達が"障害"と名付けるのが現状です)


みんなちがってみんないいが
本当の意味で
容易く実行できている世界にしていくために
私は、まずはありのままに
生き続けていきます。


まだまだ
少数派が弱い世の中ですし
何故か
色んなモノゴトは
未だに多数決で決まっていく
世の中ですし
心無い無意識な言動や
振舞いに
傷付いたり
落ち込んだり
することもありますが


それでも
私は
私と同じようなことで悩み、苦しんでいる人がいることを知っています。


知っているので
知っているわたしみたいなやつが
世の中にはちゃんといるので
どうかそれを
知っていていください。


知っていますんで。
どうかもうすこし
生きてみてほしいとおもう。


又吉の『劇場』の中に出て来る
沙希のこの言葉が好きです


"今までよく生きてこれたね"


自分に対して
言ってあげたい言葉のひとつです


よくここまで生きてきました
こんな私でも





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