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【短編】カワセミと僕

カワセミと僕

若津仰音・作



夏に沈む太陽のように僕はなりたかった。


「よく分かるぜ」

一昨日から部屋に居ついているカワセミがホバリングしながらそう答える。答えてなど欲しくはない僕は、彼の声など聞こえていなかった振りをして窓の外へ視線を投じた。

西の空を茜色に染め上げる太陽が、もっとも太陽らしいと僕は思う。

「よーく分かるぜ」

その中でも、夏の夕暮れを演出する太陽は、一年の中(うち)で最も僕の胸に確信を持って迫ってくる。

「何の確信をだい?」

僕の視界の中に移動してきたカワセミが、こちらに嘴(くちばし)を向けて甚(はなは)だ問いかけて来る。西日に射し込まれたカワセミの身体は鬱陶(うっとう)しいほど鮮やかな虹色に透けて見えた。

僕は答えた。

「生きているということをだよ」

カワセミは笑った。

「つまんねえなあ」

小ばかにしたような口調でそう吐き捨てると、クルっと後ろを振り返って、沈みかけた太陽を嘴(くちばし)で突(つつ)き始めた。

「何してんだよ、やめろよ!」

カワセミの謀反(むほん)を制止しようと、僕は彼に飛びついた。彼の身体は僕の腕を捉(とら)えることなくすり抜けていく。何度も何度も虹色のカワセミを手で掴もうと試みたが、透明な彼の身体は一寸たりとも掴まえることができなかった。

カワセミは相変わらずホバリングを続けながら、茜色に膨らむ太陽を嘴(くちばし)でぶるぶるっと振るっていた。まるで卵の黄身でも食べるかのように、太陽の左端からちゅるちゅるっと嘴(くちばし)で啜(すす)り上げると、あっという間に飲み込んでしまった。僕は呆気(あっけ)に取られながらも、彼に訊(たず)ねてみた。

僕「ど、どんな味がした?」
カワセミ「よく分からんね」
僕「熱くなかったのかい?」
カワセミ「熱いわけないだろうが」
僕「君は、今どこに居るんだい?」
カワセミ「見たらわかるだろうが」
僕「真っ暗で見えないから訊(き)いてるんだよ」
カワセミ「お前は、如何(いか)にもつまらんことばかりを気にしたがるんだな」
僕「じゃあ何を気にすればいいんだよ」
カワセミ「生きているということをだよ」
僕「つまらないって言ったのは君じゃないか」
カワセミ「お前は、本当につまらない嘘をつくんだなあ」
僕「何が言いたいのさ」
カワセミ「お前が生きていたことなんて、一度でもあったのかい?」
僕「——何が言いたいのさ」

暗闇から聞こえていたカワセミの声は唐突(とうとつ)に途絶えた。僕の呼吸する音だけが、暗闇を微動させていた。



どれぐらいの時間が経っただろうか。
僕の薄っぺらい横隔膜の上で、虹色のカワセミがホバリングしているのを感じた。
僕の身体は、太陽を食べたカワセミが体の中に居るせいで、明るく発光し始めた。
暗かった世界は、あっという間に光を取り戻していった。


それからまたどれぐらいの月日が流れたのだろうか。僕は真っ赤な太陽になって、とある夏の日の上空を謳歌(おうか)していた。
もうそろそろ寝に入ろうと西の空へと移動していた時、ふと小さなアパートの一室が僕の目に留まった。窓辺から青年がこちらをみてうっとりしている。その横で宙に留まったまま青年に話しかけているカワセミの姿が見えた。


太陽となった僕は、カワセミの心に向ってこう伝えた。

「カワセミ、僕をその青年の糧に使ってやってくれ」



【YouTubeでは朗読もやっています (ここクリックすると動画に飛べます)】


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この作品についてetc


生きていると思っているけれど
本当は生きてすらいないのではないか。

観光やレジャーに出かけたり
何かの趣味に興じたり。
だれかれの噂をしてみたり
だれかれにああだこうだ言ってみたり。
ほっといても
日々は飽くことなく
楽しく過ぎて行くように見えますが
どれもこれも
ひとつとして
能動的体験ではないのではないかと
ふと思う時があります。

梶井基次郎の名文に

「課せられているのは永遠の退屈だ。
 生の幻影は絶望と重なっている」

というものがあります。
『筧の話』という短編の
ラストに出て来ます。

生きるということは、
幻想の一種でしかないことを
明治・大正時代を生きていた彼は
既に気付いていたのかもしれない――
そう気付いたときの
絶望せずにいられなかった気持ちを
この名文に託したのではと
私は勘繰ってしまいます。

幻影に揺らぐ「生」の中であっても
私たちはその幻想を
体験し
感じ
それらを精神の糧にしていく――

こうなってくると
「幻影」と「それ以外」という具合に
区別することすら
無意味な気もしてきます。

同じ幻想の世界に生きるにしても
周囲ばかりに目を遣って
自身を活性させないまま
死を迎えるよりは、
自分自身が作り出した幻影を生きた方が
味わい深いものになるでしょう。

そして
「自分のまんま生きている自分」の姿が
誰かの「こころ」を活性させるきっかけになったなら
これほど素敵なことはないだろうなと
想ったりしています。

ひとの幻想的「生」はほっておいて
自身を生きるとはどういうことか
短い「人生」のなかで突き詰めたなら
人は人に
もっと優しくなれるのかもしれないと
想ったりもしています。




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