青井翠
短編小説、創作集
見た映画とりあえずほめる日記
アカデミーでの諸々の幼稚な振る舞いに、この国のエンタメ産業が散々描いてきた「ポリティカル」な「コレクトネス」とは一体なんだったのかという思いでいっぱいであったし、結局、それぞれの国にはそれぞれの倫理規範とれに付随する諸問題がありそれは宗教的価値観をも孕んでいるのでどの国にも当てはめることは難しいですよね、という気持ちの吐露をする。 仕事とプライベートで行き詰まっていたので同じような境遇の人に相談をしてみると、なんだか途中から説教自慰行為をされてしまって、あぁ今この人画面
電車のホームから見えるビルの切れ端、切れ端と言って良いのかわからないけれど、ビル群を見るのが好きだ。駅前のビルはなんだか化粧をしているみたいで、ビジネスマンや観光客が電車からホームに降り立つ瞬間の「よそいき」の街の姿を、「ここはこういう街ですよ」と言っているようだ。 あんな建物あったっけ。 こんな人、いたっけ。 ぼんやりとスマホを眺める。 同年代の可愛い女の子が手をひらひらさせている動画。肉のうえにのったウニ。絶対別に食べたほうが美味しいのに。そんなことはないのに
最近立て続けに映画を見て、感想をカタカタ、ターーーンと勢いよく打とうとしたものの、どんどん映画の感想が溜まっていき、溢れるSNSの感想や考察まがいのもの合戦に辟易し、しんどさも蓄積していた過日、リトルリチャードのドキュメンタリーに感動して泣いてしまった。信仰と自己表現、クィアであることの複雑さと溢れるほどの才能と生活の不器用さ。私がロックが好きな理由の源泉を見た気がする。 大衆は言動に責任を持たない。だから他人に期待しない。 自分を褒める。今日も生きている。 とりあえず実生
知人が〇〇という音楽がなかったら今ごろレジの前で不機嫌な顔をして並んでいただろうという旨のことを言っていて、とてもいい表現だと感心していた。 レジの会計中に、よく後ろの人間が品物を置いて横に並んでくる。待てないのかなんなのかわからないが、パーソナルスペースを広く取っている自分はとても驚いてしまう。 以前はそういう人たちや自分勝手だなぁと思う人たちに対して絶望していたけれど、いまは何かちょっとした事故だと思うようにしたら気が楽になった。 自分勝手な人や自分の意見ばかりいう
歩いていたら、道端にススワタリのぬいぐるみが落ちていて、それを見てなぜだか私はまだ大丈夫だ、と思った。本当になぜ大丈夫なのかわからないのだけれど、大丈夫だと思う。全然大丈夫じゃないけれど。 謙虚かつ誠実に。 傲慢さはあらゆるものを曇らせる。 ラテンミュージックを聴く。 今日は素敵な一日になると思う。
連絡用のXすらしんどすぎるのでやめました。
文学フリマって一人でも出せるのかな。
セーフスペースがほしい。セーフスペース読書会みたいな。
書いたり消したり、もやもや
アンナカレーニナの時代にSNSがあったら、農村からクレームついたりするのかなあという妄想をした。
過日、「哀れなるものたち」を見た。見た後からテンションが最高にぶち上がり、もう一度見ようと画策している。私はハマった作品は何回も見るタイプである。初見だとどうしてもドパミンがどばどば出て、「最高」という言葉しか出てこないからである。原作も購入してしまった。 ヨルゴスランティモス監督の作品は「聖なる鹿殺し」と「籠の中の乙女」が好きで、その不穏さ、寓話性を出しつつも物語に引き込まれる魔力というかそのバランスが大変自分の癖に刺さるし、ユーモアのセンスが私のツボをついてくるのである。
勝手なチバ像に、辟易する。
もっともらしさが必要、オトナ。
今年初映画はコンクリート・ユートピアで、時期が時期だけに、有事の際のリーダーシップとは何だろうなどと色々考え、後日ミツバチと私を見てまた色々考えているうちに体調を崩してしまった。 熱にうなされ、書類選考でばったばったとお祈りされ、もうここまできたらあとは宝くじに当たるか、助けた老婆が大富豪とか、玉の輿に乗るとか、そういう感じのことが起きないのかしらむと妄想している。 褒められ飢餓感が強い。 一方で人間関係の煩わしさに辟易している部分もある。 生きることのハードルをさげる
喉、節々の痛み。生まれ変わる前の夜。
自分で自分にかけた呪いをとく。 書けば書くほど、いいことかおきる。