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【創作大賞2024応募作・恋愛小説部門】砂の城 第11話 奇妙な部屋人


 あの日、忍は私の前から何も言わずに消えた。でもこの結末は最初から分かり切っていたもの。全ては、忍の記憶が元に戻らなければいいなんて願った私の所為だと思う。
 私が大学へ行っていい仕事に就けるようお金を貯めると言って忍は笑顔のまま家を出た。
 でも私は別に大学へ行きたかったわけでは無い。家にお金が無いのであれば、すぐに仕事をするつもりだった。
 ただ、あの時は母さんの過剰な期待に答える事に必死で、出ていく忍を止める事ができなかった。
 あの時の私に、ほんの少しでも母さんと将来の話をしていたら、忍は家に留まってくれたかも知れない。でも無理だ。父さんが事故で亡くなってから田畑家は壊れてしまったのだから……。

 涙は枯れるまで泣いた。もう忍の事で悩まない。



 ──私達は、別々の道を歩むしか無いのだから。



 入院した影響もあり、私の業績はかなり落ちていた。とは言えこれ以上弘樹さんを頼るわけにはいかない。
 何故かお目当ての弘樹さんが来なくなった事で、それは私の所為だと彼女は手のひらを返して私への風当たりを強くしてきた。

 ミカについている下層の連中までそれに便乗してくるので、かなり鬱陶しい。何度も仕事の邪魔をされ、フロア掃除した後にわざと酒をこぼしたりして汚すのだ。
 一応、彼女らの陰湿なイジメは監視カメラに全て収められている筈なのだが、店長もミカ率いる軍団に文句を言う事は出来ないようだった。

 結局、この世界では権力と業績が全てだ。私もここで働くには稼ぐか、違う仕事を探すかの二択しか無い。

 今日も朝方まで嫌がらせを受けたせいで、掃除にやたらと時間がかかってしまった。こうなると西東京市まで行くのが億劫になる。もう忍に会う事は無いのだから、あちらの家に戻った所で何も得る物は無い。
 と言っても人間ルーティン行動は無意識に取ってしまうらしい。気が付いた時にはマンションの前に立っていた。

「ヤダ……鍵、全然回らない」

 見覚えのない上客からの指名が入ったので、断りきれずに深酒をしてしまった。それが残っているのか、私の手は全くおぼつかない。
 こちらに帰宅しても、誰かに会うメリットはもう無いのだが、ごちゃごちゃしているあの環境から少しだけでも離れたいという気持ちはある。だからこの家を出る気持ちにならないのだ。ここは麻倉マキではなく、田畑麻衣で居られる。そんな気がした。

「開けましょうか?」

 ぼーっとした顔のまま声をかけてきた主を見上げると、鮮やかな金髪の青年が心配そうにこちらを見つめていた。
 基本、ここのマンションの住人との交流は無い。ここにこんな綺麗な人が住んでいたんだ……と朧げなまま私は小さく頷いた。
 青年は私から鍵を取るとエレベーターホールのロックを外し、また鍵を返してくれた。

「ありがとうございます……」

「お姉さん、深酒はダメだよ。そんな綺麗な顔して家に帰れなくなったら危ないよ」

 青年に酒の事を指摘されて恥ずかしくなった。いつもなら新宿の家でシャワーを浴びてから戻るのに、どうしても早く戻りたくてその工程をすっ飛ばしたのだ。もうここを何度彷徨った所で、忍には会えないと言うのに。

「……はいはい、これからは気をつけます」

「お部屋まで送りましょうか?」

「いいえ、ご冗談を。一人で帰れます」

 と言いつつもちゃっかり金髪の青年は笑いながら私の後ろをついてエレベーターまで乗ってきた。別に同じマンションの住人なら不審な事は無い。

「……あなたは、何階?」

 私は彼の部屋のボタンも押そうとエレベーターガールのようにキーの所に立っていたが、彼は唇に手を当てたまま小首を傾げた。

「うん、麻衣さんがお部屋に帰ったのを確認してから、僕も自分の部屋に戻ります」

「!?」

 この部屋に私が田畑麻衣という痕跡は一切残していない。私が田畑麻衣だと知っているのは、マンション契約の際に携わった物件のオーナーと、そこに偶然いた男の子くらい。でもその子の年齢は今目の前にいる金髪の青年とは違う。

「あなたオーナーのお子さん?」

「それは関係ないよ、田畑麻衣さん。いや、麻倉マキさんって言った方がいいのかな?」

「誰……あなた」

 私の使うキャバ嬢の名前も知っている。こんな綺麗な人が客で来ただろうか? この見た目はもしかしたら、誰かにいれあげているホストなのかも知れない。

「ん〜、もっと僕の事を知りたいならば、ひとつだけ約束して。田畑忍にはもう会わないって」

 こいつ──忍の事も知っている。
 もしかしたら、彼は忍のやっている仕事の関係者なのか、それとも弘樹さんの知り合いなのか。
 どちらにせよ、もうあの2人に迷惑をかけるつもりは無かったので、青年の約束を承諾するしか無かった。下手に何か知っているこの青年を敵に回すのは怖い。

「そんなの……忍にはもう縁を切られてるようなもんよ。会いたくても、あっちがもう会ってくれないわ」

 青年に背中を向けて私は自分の部屋で止まった箱から降りる。すると彼は背後からそっと手を回し、甘い声で囁いてきた。密着する肌に体温が上がる。

「じゃあ、僕が麻衣さんを狙っても問題ないよね?」

 驚く私に、彼は首筋に当てていた綺麗な顔をさらに近づけてきた。甘いコロンの香りが鼻腔を擽る。どこかで嗅いだ事があるような……。
 香りを追いかけていると彼の唇が近づき、自然と重なった。触れた彼の甘い舌先は、一切タバコの味がしない。
 漠然と忍の事を考えていた私は彼に舌を吸いあげられ、口の中を蹂躙されていた。
 違う。これは──忍じゃない……!

「おっ、と」

 私は無言で青年を突き飛ばし、部屋の鍵を震える手で開けて中へと入った。笑いながらドアを叩く青年の声が暫く聞こえていたのだが、私が部屋から一向に出て来ない事で諦めたのか、そのまま青年の気配も自然と消えた。

 ずるずると玄関に座り込み、私は唇を乱暴に拭う。

「……何よ、あいつ。あんなの、知らない」

 コロンもそうだし、ちょっと弱っていたからって、知らない男に流されそうになった自分が嫌いだ。 
 金髪で、可愛らしい笑顔が少しだけ忍に似てた。それだけでこんなにも警戒を許してしまうなんて。

「何なのよ……あいつは。結局名乗らないで消えたじゃない……!」

 いきなり出てきて油断していたとは言え、キスまでされ……謎を含んだまま消えた青年の事が気になったが、手がかりなんてない。
 今までの疲労も抜けていない私はそれ以上考えるのをやめ、酒の匂いが残る身体をそのままに眠りに落ちた。


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#創作大賞2024 #恋愛小説部門

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