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自分の色を殺すことの無意味さ


総文字数3632

決して楽しい話ではないので、何も求めません。
ただ、わたしの心の声を吐露しただけ。


わたしは以前から言っているように、かなりの変わり者だ。
万人に好かれたいと最初っから思っていないので、わたしの書きたいものを書くことをやめない。

「誰の為に書いているのか」?

最近、とあるコンテストにより周囲がザワついております。わたしも最初応募しようかと思い幾つか小説を書くに至るまでの話を下書きしていたが、その後の発案者の出すコメントコメントが勘に触って速攻で辞めた。

編集者、と名乗るのであれば、そもそも自分の主観的な想いをつらつらと、この誰が見ているか分からない場所にあのような文を出すのはいかがなものだろうか?

わたしには某ネット出版関連の編集者の友人がいる。編集者が求めるものはお金になるもの「ビジネス」なので、彼らがいくらこれはいい作品、いい作者だ!と思った所で、それが世に出るには難しい線引きがある。
彼は自分が担当していた好きな作家さんを推していたそうだが、それが世に出るまでになかなか上層部からのGOが出なくて、かなり底辺を彷徨っていたらしい。
つまりどこの業界も上層部のご機嫌ひとつでこちらのような一般読者がいかに「いい!」と思っても世の中には出回らない作品が数多くある。それが残念で堪らない。忖度ですよねえ、結局。

うまく言えませんが、ざわついてもしょうがないんです。だって、最初っからあなたの作品の良さを知らない「他人」が、個人立ち上げ企画のコンテストで、表面のさらっとしたところしか見ていないわけです。あなたのことを何も知らない人間にこういう気持ちで綴ったのに、と書いたところでそれが重いと思われたら見る気もなく見られてもいないかもしれない。
根底にある楽しいものだけ求めるんだったら、そういう作品だけ募集するとか、もう少し制約をつけるべきだったはず。

声をあげて怒った人達の気持ち、発案者を忖度して何も見ずにただ黙った人の気持ち、見たけれども敵を作りたくないが故に敢えて語らずな人の気持ち、言ったところで平行線なので静観する人の気持ち。どれも間違いではありません。

某芸能人が誤爆して炎上した話がありますよね。それと同じで怒っているところに便乗してそーだ!そーだ!と声をあげても当の本人はもう気にしていません。周りだけが勝手に盛り上がっても結論は出ません。
それに、わたしはこのひとの為に書いたわけではない、と自分の作品を誇りに思い次のステップに繋げる方が成長になると思います。たった1人に伝えたいのか、あなたの作品をしっかりみて、読んで、聞いてくれる人に伝えたいのか。
わたしは断然、自分と、わたしの作品をきちんと見てくれる人にしか発信しない。

以前、自分の魂込めた唯一の長編を『読んでしまった』と罵られて頭に来たのが考え方を変えた理由だ。読んでしまった、と時間を無駄にしたことをぼやくような人間に、わたしの作品読んでくれなんてミリも頼んでねぇよ。嫌だったら帰れ。

今のわたしは自分を振り返る為、記憶を残す為にnoteを書いている。noteを続けて、日記を残しているのは自分がボケて何も分からなくなった時の道標だ。

noteは誰の為に書いている?

繰り返すが、わたしは自分の為だ。今までのように小説を書きたいなら小説専門のサイトで割烹もやらずに黙々とオフラインとオンラインを繰り返して綴ればいい。実際に世に出ていった仲間たちはそうやって余計な交流を断ち、仕事と書きたいものを書き続けて成功を収めている。特に、さっさとデビューした人達は割烹を使った交流はしていない。
わたしがそのやり方を選ばなかったのは、ただ孤独な作業に耐えられなかったから。

noteで不器用な交流を続けているのは、遠く離れている小説の相棒辻村と、またしっかり小説に向き合えるように自分の中で自分の出せる色を未だに探している。全ての原点回帰とするため。

自分の出せる色が見つからないから、今も、何を書いてもふわふわする。
周りに流されるな、自分の色で勝負しろ、と言われた時に自分の色はなんだろうと模索した時、やっぱり見つからなかった。
ただ、短歌、俳句、詩はわたしに書けない。向いていないとnoteに来て学んだ。あとは何が出せるのか消去法だ。
エッセイとはなんぞや、の部分に触れ、わたしは小説を出したいという道からかなりの回り道をしたけど、自分を見つめ直して、偶然にも素晴らしいとあるエッセイストと、素晴らしいnoterに巡り会えた。

わたしの文章は所詮趣味の領域を出ない。ただ、言葉では上手く表現できなくとも、わたしに出せる唯一の色は、普通とは変わった経験から発する斜めの意見と、それに準ずる作品。
わたしはインフルエンサーではないし、閲覧数も少ないのでエゴサーチなんてやらない。無駄だから笑。趣味で勝手にいいと感じたものを推すだけ。
ただ、わたしの追体験で涙してくれた人がいるように、これからも生きていく上でほんの少しでも、自分の振り返りに対して何かを発信できたらな、とある方の記事からあちこち巡り夜中の3時までこれを下書きして思った。

他の人の作品は、いくらでもよく見える。本当に良いものが多すぎて何回もやめようとした。悪いところを探すのは人間の悪い癖であり、そういう性なのかもしれない。上げて落とす?下げて上げる?そういうの、わたしにはよく分からないけど、周りと比較してもしょうがない。
だって、わたしはわたしであり、その人にはなり得ない。その人にしか出せない256bitで表現する色にはなれないんだ。おまけに色弱のわたしに見える色は限りなく少ないし間違いも多い。

文を書くことは誰でも出来る。ただし、そこから先に進むかやめるかは自分次第。自分が求めるものがあれば、他人の目を気にしてまで質を、色を落とす必要は全くない。自分が最高の作品!これが好き!と自分が納得した作品は、他の誰の作品よりも輝いている。
人の捉え方なんてみんな違う。Aさんは○にみえても、Bさんにはそれが△に見える。そんな感じだ。だから、自分が良いと思ったものを勝手に適当な扱いをされるのは無性に腹が立つ。それは当たり前だろう。我が子(作品)を適当に扱われて怒らない人間がいるだろうか。

ここまで書いておきつつ、わたしが唯一この創作大賞のメディア向けの為に勝負した作品が、果たしてどう転がるのか。これの結果だけは少しだけ楽しみだ。どのみち、わたしのレベルでは文章力においては土俵に上がることすら出来ないから落ちるのは確実なのだが、あれはわたし以外の他人には絶対に出せない色で勝負した。
グレーゾーンどころか、完全にアウトなレベルだけど、そこが見える人に見えたら、世の中の性に対する何かが変わる気がした。

今まで完結まで書ききれなかったものを最後まで書ききった自分を褒めたいし、やっと完結した作品を作れたことで、辻村との色探しの旅の開始点になったんじゃないか、と思っている。

自分の作品を捻じ曲げたとき、それは本当に書きたいものではなくなってしまい、多人数向けのものへと変わる。
読者の為に書くのではない、結論自分の為に書くのだ。読者の為にやることは、「よみやすく」するだけでいいとわたしは解釈している。

だって、その作品の色が気に入らなかったらそもそも最初から読まないし、読む時間がもったいないでしょう。なのに、そのわけのわからない他人に対して、自分の書きたいものをわざわざ捻じ曲げる必要性なんてない。

忘れてはいけない。noteで収益化を狙う人間でなければ、自分の色を他人の為に変える必要はないんだ。

あなたは何の為にnoteを続けていますか?

楽しい発信、自分の振り返り、今日の出来事、メンタルの浮き沈み、誰かに聞いて欲しい、ただの殴り書き、ネタ帳、読んで欲しい、承認欲求。

色々あると思います。わたしはどれもその時に感じたわたしが発信したものなので、その時の気持ちを大切に。
わたしは、わたしがその時の気持ちに戻り毎度涙する記事があるように、わたしが原点に戻る為に残している。他人に全く需要がなかろうと、わたしはわたしの為に発信する。
これだけで、わたしに対して需要のある記事なので、書いてて良かったと後から振り返る。




恩返しは困っている誰かに。そうやって人は繋がっていくの。


これは、私の相棒が恩師から受けた大切な言葉であり、わたしの振り返りにもなるのでまた記しておく。

わたしは誰かから色々なものを与えられるばかりで、何も恩返しは出来ていないが、少なくともこのわたしへ向けたこの全ての言葉が、誰かわたし以外の人にも何かひとつでも伝わるものがあれば、それだけで、繋がったのかと思えるのかな。

毎度のことながら取り留めない文章ですけど、これが、わたしに出来る唯一の色だ。自分の書きたいものを残す。(それが結果的に問答無用で全てR指定にされていくという)

ここまで長いものを、読んでくださった方がいましたら感謝です。大切な時間を奪ってしまいごめんなさい。

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