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好意を持ち合っているからって、分かり合えるとは限らない@志賀直哉『沓掛にて——芥川君のこと』①

前、noteは読書感想に向かないと書いたけれど、こういうのはnoteかな、と思ったのでメモをしていきます。

『十二国記』シリーズの登場人物、采麟が、「同じ国(蓬莱)の生まれだからといって、わかりあえるとはかぎらない」という趣旨の発言をしていたことを突然思い出しました。

彼女は自分の夢を叶えてくれると期待した王、……生真面目で理想主義者すぎるゆえに、国を滅ぼしてしまった王に仕えた末で当該の発言をしたのですが、そこで連想したのが志賀直哉の『沓掛にて』です。

『沓掛にて』は、芥川龍之介の死を悼んで、追悼随筆のようなかたちで、志賀直哉が書いたものになります。
芥川は志賀に生涯にわたって敬愛の念を持っていたようで、『文芸的な、余りに文芸的な』という彼の評論では、読んでいて楽しくなってしまうレベルに絶賛の嵐です。(とはいえ芥川は『文芸的な、余りに文芸的な』でペン先を突きつけている谷崎潤一郎その人でさえ明確に批判することはないのですが……。人ではなく事象を批判するその精神、見習いたい。

志賀直哉氏は僕等のうちでも最も純粋な作家——でなければ最も純粋な作家たちの一人である。(略)
志賀直哉氏の作品は何よりも先にこの人生を立派に生きている作家の作品である。立派に? ——この人生を立派に生きることは第一には神のように生きることであろう。志賀直哉氏も亦(また)地上にいる神のようには生きていないかも知れない。が、少くとも清潔に、(これは第二の美徳である)生きていることは確かである。

……とまあ、日本史上最高の文学者の一人・芥川龍之介が語彙の限りを尽くして褒めてくれます。ずーっと褒めています。志賀から金色のおまんじゅうでももらったのかというレベルに褒めています。
では、志賀直哉は、芥川龍之介の死に際し、「芥川くんどうして死んでしまったんだ!もっと僕を褒めてくれても良かったのに!なぜ!!!」と書いているのか思いきや、彼の作品、『沓掛にて』で感じるのは、哀しいまでに苦しい、壮絶なディスコミュニケーションの物語です。

飲まれなかったビール

芥川君とは七年間に七度しか会った事がなく、手紙の往復も三四度あったか、なかったか、未だ友とは云えない関係だったが、互(たがい)に好意は持ち合って居た。

『文芸的な、余りに文芸的な』であれほど褒められたというのに、このあっさり感。「平均して一年に一回くらい」、と書けばいいものを、七年に七度という字面に、七月七日……七夕を想起します。
「だいたい一年に一回会う、まだ友達といえない関係」ではあるならば、素直にそう書けばいいのであって、七年間に七度、というまるで織姫彦星伝説を連想させる字面は、自分と芥川の間には天の川のごとく大きな川(隔たり)があるのだ、という微妙な感情をうかがわせます。
そのうえで、「互(たがい)に好意は持ち合って居た」と断定口調でいうあたり、川がお互いの間を流れていたとしても、彼は自分に好感を持っていたし、自分は彼に好感を持っていたのは疑いない、ということでしょう。

そこから、芥川との出会い、交流、その別れ、と時系列順に話が進んでいきます。表面上は穏やかで好ましい関係、文人の優雅な暮らしぶりが書かれています。
ところが、目につくのが、芥川の「近づこうとするのに志賀が近づくと引いてしまう」という奇妙な言動です。

芥川は、志賀と初めて会ったとき(正確には初対面ではないのだけれど)からその傾向がありました。

 芥川君は三年間程私が全く小説を書かなかった時代の事を切(しき)りに聞きたがった。そして自身そういう時機に来ているらしい口吻で自分は小説など書ける人間ではないのだ、というような事を云っていた。
 私はそれは誰にでも来る事ゆえ、一々真に受けなくてもいいだろう、冬眠しているような気持で一年でも二年でも書かずにいたらどうです、と云った。私の経験からいえば、それで再び書くようになったと云うと、芥川君は、「そういう結構な御身分ではないから」と云った。
 芥川君は私に会ったら初めから此事を訊いて見る気らしかった。然し私の答えは芥川君を満足させたかどうか分らない。

これを書いたのが芥川の側だったら、「志賀って呑気なブルジョワの坊ちゃん系文学者だぜ」と言えるのだけれど、書いたのは志賀です。志賀自身が、芥川が彼のことを「結構な御身分」と言った、と書いています。

人間は、他人に「結構な御身分」といわれて傷つかない人は少ないでしょう。人間は誰しも、もちろん志賀も、芥川も、背中に自分では処理しきれない問題を背負って生きています。志賀も、三年間オサボリこいても大丈夫なほどには金銭面では恵まれていたかもしれませんが、貴顕の出ゆえの複雑な家庭環境、父との険悪な関係、子供の死と、家族関係で相当辛い目にあっています。あと、山手線にはねとばされたり(それで『城の崎にて』を書くんだから、本人と周りはそうとう大変だったと思う!)。

なんとか頑張って生きている志賀が、もうしんどくて立っていられない芥川に、経験に基づくアドバイスをしたのに、「そういう結構な御身分ではないから」ときっぱり拒絶されてしまいました。芥川は志賀に悩みを相談しにいったのに、志賀が手を差し伸べようと近づくと、逆に彼はその手を振り払ってしまったのです。

初対面なのに。のちに「僕等のうちでも最も純粋な作家」と書くまで敬愛する人の、要約すれば「思い詰めなくてもいい」、「誰にでもあることだから」「思い切って気分転換でもしてみたら」という温かい言葉が降り注いだ瞬間、芥川はその温かみを拒否してしまいました。
「然し私の答えは芥川君を満足させたかどうか分らない。」というのは、初対面の、これから仲良くなろうという人に、手を振り払われたときの寂しさや哀しみの浮かんでくる一文です。

ところが、「そういう結構な御身分ではないから」という発言をしても、なぜか、芥川は志賀その人を拒絶したわけではありませんでした。一日中志賀の家で彼と過ごし、骨董の話をしています。ところが。

私は私の持っている印を出して見せたが、芥川君等の眼からは一顧の値もない物を芥川君は小穴君と一緒に、「中ではこれが嫌味がない」とか「この方が面白い」とか叮嚀に見てくれた。私は気の毒な気がした。

さっきの「そういう結構な御身分ではないから」という前提があってこの文を読むと、心がひんやりとします。まるで、芥川がさきほど手を振り払ってしまったことを、志賀に謝っているかのような。気を遣っているかのような。その必死の様子に、志賀が気まずい気分を抱いているような。そんなシーンです。

その後、芥川は志賀と、志賀の作品のいくつかが井原西鶴やモーパッサン、ビアズレーの詩に類似していることを話し、志賀にそのことを「後人の為」どこかで書くべきだと指摘しています。これは、やはり古典から自作の題材を引き出していた芥川の、志賀に対する「文学」におけるの気遣いの細かさを感じます。
が、芥川はお腹を壊していて、志賀の出した冷たいビールを飲めず、食事も満足に取れません。体調不良なので無理をさせられません。ですが、意地の悪い見方をすれば、ここでも、芥川は志賀の差し出した手(飲食)を振り払っています。
むしろ、体調不良というどうにも動かしようのないことこそが、志賀は芥川に好感を持ってはいるものの、お互いのコミュニケーションのキャッチボールがうまく行かないことを際立たせています。

ここにおいて、志賀は結論を出します。

子供に病気をされると、仕事が出来ない話をすると、芥川君は自分にはそういう事はないと云っていた。

自分と芥川は、決定的に価値観もスタンスも違う人間なのだと。
芥川も志賀も子供がおり、子供に愛情を注いだ父親であった事は確かですが、家庭と仕事、どちらを優先させるかにおいて、スタンスが違いました。確かに、志賀の作品は自分の実生活や日常のことを題材にしたものが多く、まるで子沢山の忙しい主婦(主夫か?)が書いているように家庭や家族の様子をわいわいがやがやと活写していますが、芥川は自分の作品に、自分そのものを書くことはあるけれども、自分の家庭を反映させる事はめったにありません。
そこを、この些細な違いにより、志賀はみてしまったのでしょう。

私はその後一度芥川君の家を訪ねたいと心掛けていたが、その機会がなく、京都の方へ引き移って了(しま)った。

志賀は芥川と初めて会ったとき、千葉の我孫子にいました。東京(田端など)に住んでいる芥川とはやはり地理的な距離もありました。
「訪ねたいと心掛けて」の「心掛ける」とは、「常に気に留め、忘れることのないようにする」ということですから、「芥川君の家に是非とも行ってみたい」ではなく、「一度行かねばなるまい」という微妙な心理が働いているように見えます。むこうから訪ねて来られて、志賀自身、妙な差異は感じたけれど、芥川に悪感情は抱いていないのですから、家を訪ねるのが義理です。
心理的な距離と地理的な距離の双方に隔絶された関係を思わせる一文です。

彼には似合わなかった祖父の羽織

その後、数年間会う事なく、また芥川の方から志賀を訪ねてきました。

子供に三輪車を買い、重いのをかついで帰って来ると芥川君と瀧井君とが自家で待っていた。まもなく里見と直木君とが来て、賑かに話したが、此日どういう事を話し合ったか、全(まる)で憶い出せない。

ただただ覚えているのは、芥川が鼠の結城紬を着ていたということのみ。
芥川と言葉を交わした中身が不思議なことにまったく思い出せないということは、志賀にとって興味のない話題だったか、理解できない話題だったか、到底口にしたくもない話題を「忘れた」と婉曲に言っているのか。それは定かではありませんが、やはり不思議な距離を感じます。

……芥川君は風邪の引きかけで元気がなかった。夕方から千本のすっぽん屋へ出かける事にしたが、見るから寒そうなので、私は祖父譲りの毛羽織を芥川君に着せた。厚ぼったいその羽織が細々した芥川君には勝ち過ぎて見えた。
 芥川君は木屋町の宿の前で自動車を下り直ぐ後から行くといったが、吾々がすっぽん屋に着くと間もなく直木君を電話へ呼び出し、寒気がするからと断って来た。

やっぱり「志賀が近づくと芥川が引く」公式が発動。志賀は、祖父の遺品である暖かい羽織を芥川に着せたにもかかわらず、芥川は志賀の誘いを最後には断ってしまいます。直木三十五や里見弴、瀧井孝作たちと宿で遊び明かした翌日、志賀が芥川の様子を確認するために電話をすると、もう彼は東京に帰っていました。
体調が悪い、というやはり動かしようのないことで、志賀と芥川の距離は、再び遠ざかります。

その後、芥川は瀧井孝作とともに、志賀夫婦が桂離宮に観光に来ているのに遭遇し、桂離宮の拝観許可証が余っている(?)ので譲られても(=つまり一緒に桂離宮を見ようと志賀が誘っても)芥川に用事があって行けず、その晩、芥川を志賀が訪ねても、珍しくも志賀のほうが疲れ切っていて芥川と話すことができません。

松江の同じ家に暮らしていたことがあったと知ったり、古美術の写真帖を作るために志賀が活動しているときに芥川が協力してくれたり、縁はかんじるものの、いまひとつ、寄っていけません。
まるで、二人の間に大きな川があるようです。

てなわけで続く!!

NHKで『流行感冒』という志賀直哉の小説を原作にしたモッくんのドラマをやっていたので見ました。モッくん……良すぎる!!!


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