1/14 パタゴニアに行きたい電車の中で

ここ数日『パタゴニア』を読んでいるが、しかしなかなか読み終わらない。この間なぜか生徒に『二十歳の原点』を薦めてしまったのだが、その生徒は昨日の今日で読み終えたと報告しに来た。それで憧憬とともに思い出したのだが、小説などというものは、高校生や大学生だった頃は、文庫一冊ならおおよそ一日か二日で読み終えていた。もっと集中して、それなりの時間の没頭があれば、例えば「パタゴニアに行く」というような感覚に、きっと優れた小説だからなのだろう、もう少しで至れそうなのだが、惜しいところで中断を余儀なくされ、それが少し惜しい。

最近は電車の中だけが、ものを考えたり、読まなくてもよいものを読んだり書いたり、あるいは生きる場所になっている。職場でも家でも、常に動いて、あるいは眠っているような気がする。

職業柄学生の行動に敏感なのだが、電車に乗りながらふと顔を上げると、「単語帳」を開く高校生たちが大勢いる。考査の時期には教科書やノートを見る者が増える気がするが、普段は「単語帳」ばかりである気がする。きっといろいろと脅されて、あるいは順応して学生生活を送っているのだろうと思うが、しかし、日々の小テストの勉強をして三年間(あるいは六年、もっとの可能性もある)を過ごさせられる子供たちは、小テストのない年齢になったとき、電車の中で何をするのだろうか。例えば、小説を読むことはあるのだろうか。窓の外を眺めたり、他の乗客を観察したり……その時がくれば、その時に為すことが見つかるものなのかもしれない。しかし、毎朝毎晩通学電車で小テストのために単語帳を開かせるような教育は、貧しいものかもしれない。とはいえ、違ったことをするような度胸も実力も気力も余裕もなく……言い訳はいくらでも浮かぶ。

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