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おっぱいとアイデンティティ

割と真面目な棚卸し。

一般的に見て、私は胸が大きい方だ。

下着を買う時に『こちらのデザインだとお客様のサイズが…』と店員さんを困らせてしまうことが、多々あるくらいには。

遡って小学生。赤or黒、Yes or Yesくらいのカラバリしかなかった時代のランドセル。私は赤を背負って登下校していた。

赤いランドセル、水戸黄門の印籠くらいにわかりやすくカテゴライズされていた私は、だけど男の子に間違われていた。

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中学になっても変わらなかった。
印象に残っているエピソードがある。

中学校の制服をお店にピックアップに行き名前を伝えたところ、店員さんが首を傾げながら必死に名簿をめくり始めた。あれ?あれ?というように。

少し覗き込んでピンときた母は、店員さんに助け舟を出した。

『この子、女の子です』 

果たして店員さんは男子の学ラン名簿を必死にめくって私の名前を探していたのだった。

店員さんは平身低頭で申し訳なくなるほど平謝りだったが、無理もない。服装も圧倒的にボーイッシュ、声も低くてハキハキ喋る子どもだった。

これは今でも実家の笑い話の一つになっているが、『私は男の子である方が、もしかしたら生きていきやすいのかも知れないな』と、ぼんやり考えるきっかけになった。

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幼い頃は子供用のお化粧セットを買ってもらったり、母のジュエリーボックスをこっそり開けて指輪やネックレスを眺めたり、セーラームーンに憧れてステッキを買ってもらったり、それなりに『女の子』だったと思う。

時間が経つにつれ、私の心情は少しずつ変化していった。思春期女子特有の『トイレ一緒に行こう』が心底面倒でどこの島(グループ)にも属さなかったり(これは昔からだったが)、化粧やおしゃれに特段興味も無くなり、絵に描いたような、部活命の真面目な中学生になっていった。

それでも身体は女性の機能を実装しているわけで、どんどん丸みを帯びていく。パーカーとジーパンスタイルなのに、胸が張って少し触れるだけで叫ぶほど痛い。生理は毎月気持ち悪くて面倒くさい。

『どんなに男の子に見間違えられても、自分は関係ないと思っていても、自分は女性という性であり、子どもを生むことがミッションのひとつになっている』

そう意識した途端に、なんと表現したら良いか分からない寒々しい気持ちになったことだけはよく覚えている。完全にメンタル置いてけぼりの瞬間だった。

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『身体だけ女になっていくのが気持ち悪い』と中学時代の女性の先生に言ったところ、一笑に付された記憶がある。私は快活で元気いっぱい、という印象だったろうから、戸惑いもあったのだろう。

大きな胸は体育の授業で男子のニヤニヤした視線を集める。走る度揺れて痛いったらありゃしない。肩は凝る。太って見える。Tシャツが伸びる。言葉遣いで注意される、男子はされないのに。良いことなんか、ひとつもない。中身は『日髙葵』のままであるのに、『女子』カテゴライズされていく。

そんな思春期を経たからなのか、私は『カッコよくあること』で自分のポジションを確立させるようになっていた。

性別の区切りで見られることが何よりも嫌で、『一個人として向き合ってくれ』と、『男の子に見えるがカッコいい女の子』であることでメッセージを発そうとしていた。

今思えば、自我の目覚めと葛藤だった。

そこから時は経ち、私は30歳で初めて『装うことの楽しさ』をライターの友人に教わることになる。
彼女が施してくれたお化粧は、私自身を違う世界に連れていってくれた。

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友人(左)が全部やってくれた。宮崎の老舗洋食屋・らんぷ亭にて

化粧などほぼしたことも無かった大学時代、毎日面倒だなと適当にやり過ごしていた東京社会人時代、『装うこと』は『自分を表現すること』でもあるのだと、30歳になって初めて感じることが出来た。

『自分が美しいと思う自分こそ美しく、愛すべき存在である』と、自己認識することで更に自信に繋がっていく。

「可愛い女の子」ではなく、「カッコいい存在」でありたい。

性別云々以前に、「自分という1個人としてどう在りたいか」を探り続けてきた私にとって、武器が1つ増えた気がした。

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今、会社を興して4期目を迎えようとしている。新規事業として旅行会社の顔も持つ事になる。

高千穂に拠点を移し、パートナーである夫は東京で働いている。夫の事が大好きだ。それ以上に尊敬している、大事なパートナーである。

私たちに子どもは居ない。
カウンセラーで、脳科学に精通している大事な友人から、

「生まない脳は、持つ母性や愛が社会に向けて発される、素晴らしい脳なんだ」

と教えてもらった。そうか、そういう捉え方があるのかと、目からウロコが落ちた。

自分と全く同じ人生を歩んでいる人は、地球上のどこにもいない。

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カテゴライズされて、『女性であること』の枠に閉じ込められて息苦しく感じている人も多いだろう。少し馬鹿なフリをした方が、男性が喜ぶという歪んだ現実があることも知っている。

『在るだけで自分は既に美しい。自分が愛する自分に、どうなったらなれるだろうか』

誰に正解を尋ねるでもなく、今日も自分は自分を生きる。
そんな生き方がスタンダードになったら、性別を超えて、もっとハッピーに、生きやすい社会になるんじゃないだろうか。

『私』で生まれて良かった、AWESOME!と、そう思える人が1人でも増えたら良い。

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