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ハンドシグナル

小春の澄んだ暖かい空気の中、群青に染まった空を見上げる。

拳を握り、その状態から親指、人差し指、小指を立てる。

そのハンドシグナルを僕は毎日続けている。

耳の聞こえない彼女に向けて。



僕と彼女も最初は至って普通のカップルだった。

休日は2人で海にも行ったし、遊園地でも遊んだ。

終電を逃して、2人で笑いながら長い距離を歩いて帰ったこともあった。

僕らはまだ大学4年生だった。

バイトで貯めたお金をタクシーに使ってしまうのは勿体無い。

それが彼女の見解だった。

正直僕も、もっと彼女と居たかった。

だから、長い距離を歩いた。


家に帰ると、一件の新着メッセージがあった。 


「今日は楽しかったね!おやすみ〜」

LINEを見て少しニヤつく。

「喜んでくれて良かった!笑 おやすみ〜」

僕らはそれで事足りた。

何気ない会話が楽しかった。


しかし、そんな何気ない会話も思いがけない形で終わることとなる。



「突発性難聴」


それが彼女の診断結果だった。

彼女によると、時々耳鳴りすることがあったものの、あまり気にしていなかったそうだ。

今思えば、それがサインだったのかもしれない。


彼女は話すことはできても、僕の話したことを聞くことはできなかった。


時には筆談も試した。

でも、外にいる時筆談をするのは時間もかかり、不便だった。


だから僕達は必死に手話を勉強した。

最初に覚えた手話、「愛してる」

拳を握り、その状態から親指、人差し指、小指を立てる。

僕は彼女にやってみせた。

彼女は両手を体の前で合わせ、お辞儀をする。

「ありがとう」のシグナルだ。


少しずつ手話を覚えては、お互いにそれで話す。


形は違くとも、彼女とまだ話せること。

それだけで僕は嬉しかった。

気づけば半年が経ち、卒業を間近にして忙しくなった。



木枯らしが体に纏わり付き、体から体温を奪っていく。

力尽きて落ちていった葉も弧を描いて宙を舞う。

卒業文集やらで、彼女とは最近会っていなかった。

LINEを送っても、既読がつくのはいつも次の日だった。


卒業すればまた会えるだろう。

そう考えていた。


甘かった。

幸せというものはいつまでも続くものではない。

自分達で続きを紡いでいくものだ。

2人で紡いで行った糸が、少しずつ解れていった。



3月7日、僕と彼女はそれぞれ違う学科で卒業式を終え、次の日に2人で会う約束をした。

彼女から、話があるとのことだった。

大方想像がつく。

この半年間、僕は彼女に何も施してやれなかった。

無論、彼女に対する気持ちは最初と全く違っていない。

それでも、ただただ忙しかった。

理由はそれだけだ。

言い訳に聞こえるのも無理もないだろう。

今日は考えることをやめて、眠ることを選んだ。



翌日、14時の約束よりも少し早くカフェに入り、彼女を待つ。

約束の数分前に彼女が入ってきた。

手を振って場所を合図する。

その合図に気づいたが、なんとも言えぬ顔を見せて、僕の前に座った。

ここからはハンドシグナルで会話する。


(コーヒーでいい?)

彼女に尋ねる。

(うん)

(アイスにする?ホットにする?)

(アイスで)

「すみませーん、アイス2つで」

店員には言葉で伝える。

暫くして、少々背の高い男がコーヒーを2つ運んできた。

「では、ごゆっくり」


僕たちは軽く会釈して、一口だけコーヒーを啜る。

あまり高くないものだからだろうか、少し酸味が強かった。

そんなことを考え、少し躊躇ってから、彼女にハンドシグナルを送る。


(…話って、何?)

(正直に聞いていい?)

彼女も少し躊躇ったように訊いてくる。

(うん、いいよ?)

(…正直、私のことどう思ってるの?)

(勿論、好きだよ)

(本当に?)

(うん)

彼女が手を動かしかけてやめた。

手を膝の上に置き、強く握っているのがわかった。

カランカランという音と共に客がまた1人と入ってくる。

(最近、あんまり会えてないじゃん?)

(だから、私のこと嫌いになっちゃったのかなって思っちゃって…)

(…そうだよね、ごめん)

両手を組み、お辞儀をする。

(今度、時間があればどっか行かない?)

僕が誘う。

(んー、そうだね… じゃあ、行こうか)

彼女があまり乗り気でないことはわかった。

きっと、遊びに行くのも最後なのだろうか。



その後の成り行きで、遊園地に行くことになった。

その日は僕がさっと会計を済まして帰った。



約束の日。

濃い灰色の雲が空を覆い、不穏な空気が漂っていた。

彼女は時間通りにやってきた。

自分の彼女なのだが、改めて可愛いと思った。

でも、それを口にすることはできない。

(似合ってるね)

(えっ?ほんと? ありがとう)

会話が途切れた。

(どこ行きたい?)

遠慮しがちに僕が聞く。

(…どこでもいいよ?)

彼女も僕に尋ねた。


あぁ、そうか。 きっと彼女は……。

その後、空いてる乗り物に何度か乗っていると、いつの間に夕方になっていた。


突然、雨が降ってきた。


(そろそろ、帰る?)

僕が彼女にハンドシグナルで訊ねる。

(…そうだね)

(家まで送ってくよ)

(…いや…いいよ…そんな遠くないし)

(…そっか、じゃあね)

(うん、バイバイ)


「またね」とは言わなかった。

僕は確信した。

あぁ、今日、僕は彼女と別れるのだと。

この半年間何もしてやれなかった。

忙しいなんて言い訳だ。

もう夕方だからだろうか、遊園地に客の姿はほとんどなかった。

雨が地面を打つ音だけが反射するこの場所に、彼女の帰っていく足音は聞こえなかった。


彼女にはこの雨は聞こえるのだろうか。


僕は、僕の中の哀しみの音を聞いた。


ハンドシグナルもこちらを見ていなければ意味がない。

肩を叩いて呼びかけるわけにもいかない。

数メートル先に彼女はいる。

でも、どうせ別れるのなら、最後くらいは謝りたかった。

伝えたかった。


雨が打つ中、ありったけの声で叫んだ。

多分彼女には聞こえない。


「柚葉ー!、今まで本当にゴメン!」

「でも、僕は…僕は、柚葉が好きだー!」

「君がどう思っているかは分からない!」

「それでも、僕は、まだ君と話がしたい!」

「例え、手話でも!どんな形でも!ずっと!」


我ながらダサい言葉だった。

それでも久しぶりに出した本心だった。
この半年というもの、一度も口にしたことのなかった。


その時だった。


彼女が振り返った。


一瞬、何が起こっているのか分からなかった。


雨で霞む視界の中、彼女がシグナルを送ってきた。


(聞こえた)


自分の目を疑った。まさか、本当に聞こえたなんて…。


彼女がこちらに走ってくる。

僕は両手を広げて彼女を受け止めた。


2人の体は、雨でぐしょ濡れだった。

その間も大粒の雨が容赦なく降りつけるが、微塵も気にならなかった。

雨に濡れた彼女から、僅かながらに温もりを感じた。

何分経っただろうか、手を解き、彼女の顔を見つめた。

その顔は雨粒以上に濡れていた。

僕の顔も同じだった。


彼女はぐしょ濡れの顔で、くしゃっと笑った。


ふと、昔の記憶が蘇る。


あぁ、そうだ。僕はこの笑顔に惚れたんだ。


「2人で、帰ろうか」

僕が彼女に訊く。


少し怪訝な顔をして、彼女が聞き返す。


また、耳が戻っているようだ。

彼女もそれを自覚したのか、戸惑ってからまた少し笑う。

(治るといいね)

彼女が言った。

(僕が必ず、その時まで君を守るから)

彼女の鳶色の目を見つめる。

(絶対だからね?)

(うん!今までごめんね、全部俺が悪かったよ…)

(昔のことなんだから、気にしないでよ)

少し頬を膨らましながら彼女が手を動かす。




ー2年後ー

その日以来、彼女の耳が聞こえることもなかった。

大声での会話も試したが、聞こえなかった。

でも、聞こえなくても、僕らの関係はそんなことでは崩れない。



解れた糸も、また縫い直せる。

不恰好でも、紡いで行けば、頑丈な糸になる。

ずれていった阿吽の呼吸も、食い違う意見も、正しく変えていく。


歪んだ関係も、正しい歪みに変えていく。

響く不協和音も、メロディとして丸く収める。


そして今、2人で少しお高いレストランに来た。

今日は彼女の誕生日。

僕の右ポケットには指輪の入ったケースがある。


今日は、言葉にして伝えたい。

それになぜか、今日は言葉として彼女に伝わる気がする。


あの時のように。


時が流れ、食器もだいぶ片付いてきた。


(ちょっと…いい?)

手話で伝える。

(いいよー、どうしたの?)

胸ポケットから手紙を取り出し、彼女に渡す。


例え聞こえなくとも、僕は読み上げる用のもう一枚の手紙を取り出し、読み上げる。


彼女の目からは涙が溢れている。

先ほどまで少しざわついていた店内の空気も、静寂とやらいうものに包まれていった。


緊張はする、でもやっぱり…

これは、これだけは、口で伝えたい。



「僕と…結婚してください!」

プロポーズに、雰囲気に似合わぬ大声で僕は伝えた。



あまりの大声に彼女は耳を押さえた。

そして僕に告げた、

「私なんかでよければお願いします」


この瞬間から始まることになる。

夢にまで見た結婚生活が、普通の生活が。




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