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そのアーティストを好きと名乗るには、盲目的にその全てを愛さなければならないのか。

おばんです。Aohです。

今日はタイトルにあるようなことを殴り書きって感じです。そこまで多くはない頻度でちょくちょくどっかで引っかかる感じで感じていたことが今なら何となく書き表せそうに感じたので書き留めてみたいと思った次第。

というわけでどうぞ。

”聴く音楽”の変遷

サカナクションの山口一郎さんがラジオか何かで

「昔はなけなしのお金でCDを買っていた。なけなしのお金で買ったものなので、それに内蔵されている曲がどんな曲であろうと何度も聴くしかないし好きになるしかなかった。」

ということをおっしゃっていた。(自分が聞きたいように聞いて脚色しているかもしれないから全然違うこと言ってたらごめんなさい。)

そういう意味では、Youtubeを筆頭とした2000年代以降のMVのインターネットへの流出を皮切りに、現在ではサブスクリプションという形で好きな音楽を好きな時に、好きなセットリストで聴き放題という時代に移行しており、好き嫌いというものが昔よりもはっきりとしているように感じる。

随分前に行った飲食店で耳に入ってきた、隣りの宴席の中高年のおっさんの会話なのだが、

「今の時代は”年代ごとにこれ!”っていうアーティストがいないように感じない?俺たちの世代はカラオケに行ったら絶対に外さない曲っていうものがあったけど、今じゃ紅白に出る人もあっちこっち行っちゃってるよね、、」

みたいなことを言っていて、上記した山口さんの話と通ずるものがあって妙に印象に残ったと同時に本当にその通りだなと思った。

民衆音楽の流行の指標という意味で紅白歌合戦を挙げさせてもらうと、昔は音楽を全く聴かない人ですら一度はどこかで聞いたことがあるというヒット曲が紅白に呼ばれていたのに対し、最近の紅白では、中高年が聴いたことないということが起こるならまだしも、若い世代ですらこれは聴いたことないなあということは日常茶飯事であることからも、好む音楽の多様化というのは著しいと感じる。

以前までは、年末の視聴率競争に必死なNHKが”若い世代に媚びるための選抜”を目指しているが、埋められないジェネレーションギャップによってどこかずれた選出を行っているからこういうことが起きるのかなと感じていたのだが、インターネット社会における音楽の流出によって起こる”聴く音楽の多様化”というのがそうさせているのだなと沸々感じ始めている。

現代における”音楽が好き”の多様化

音楽のつまみ食いが好き

現代に生きるそれなりに若い方のものとして自分というサンプルを挙げて先述したことについて話すと、やはり全くその通りだなと感じる。

自分の場合は、まじまじと音楽を聴くきっかけとなったのは、アニメ「NARUTO」を見ていたことに起因すると思う。アニメ作品含む映像作品というのには主題歌というものが付き物で、自分が初めて深くそれを感じたのはNARUTOだった。

印象深く残っているのは、FLOWの”GO!!!”と、ORANGE RANGEの”ビバ☆ロック”、サンボマスターの”青春狂騒曲”である。

サンボマスターのこの曲に至っては未だによく聴く。以前記事にした共感覚という話ではないが、この曲を聴くと、これがOPとして流れていた当時に描かれていたストーリーであるサスケ奪還編における感動も付随して鮮明に蘇させられ、心に熱いものが宿るからであると思う。

ORANGE RANGEは、当時家族も深堀りしてそのライブ映像を追っていたのもあって、他の曲についても少しずつ追うようになっていた。改めて振り返ると、一つのアーティストの音楽をまじまじと追いかけてみたのはORANGE RANGEが最初であったと思う。

と同時に、好きかもと思ったアーティストの全ての曲が自分の価値観に沿っているわけではないことを目の当たりにしたアーティストでもある。当然のことである。

改めて自分自身の音楽遍歴をたどってみると、一つのアーティストの全ての曲の大半が好きというよりかは、そのアーティストと自分に価値観の合う曲をつまみ食い方式でいいとこどりをするタイプであるように感じる。

BTSのダイナマイトは好きだけど他の曲は別に好きではない。
Billie Eilishのbad guyには感動を覚えたが他はそこまで。
KANA-BOONは全体的に好きかもしれないがシルエットはそこまで響かない。
UNISON SQUARE GARDENのシュガーソングとビターステップには感動を覚えたけど、他の曲にはあまり思い入れがない。
BUMP OF CHICKENはハンマーソングと痛みの塔がめちゃくちゃ好きだけど、他のしっとりとした曲たちは特筆して好きではない。

分かりやすい例示を探して列挙してみたけどうまく伝わる例が見つからないものだ。バンプが一番分かりやすいかな。自分の世代にとっては車輪の唄や天体観測は我々の年代を席巻したと言っても過言ではない歌であり未だにバンプの代表曲であると思うのだが、そういった曲はあくまで”私の年代の歌”として懐かしむ対象であるだけで、僕個人としてはそこまで響くものがないように感じる。流行っていたよね~程度ということ。だからってバンプに興味がないわけではない。

別に自分がミーハーではありませんよアピールをしたいわけではなく、むしろミーハーよりである。LiSAの紅蓮華とかめっちゃ好き。King gnuはイノセンスの主題歌だった白日からほぼ入った。米津玄師はLemon以降からちゃっかり聴いちゃってるし。ミーハーであることを主張するのむずいな。別に流行りものを穿った目線で見るタイプの人間ではないことを言っておきたい。

ただ、非継続的な性格が起因しているのかわからないが、一つのアーティストの全部の曲をまじまじと聴いてみても、その大多数を全部好きになるなんてことはほとんどなかった。

もちろん自分が好きな曲調とかそういうのも起因しているとは思うのだが、そういうわけでもないように感じる。

というのも、ああ俺ってしっとりとした恋愛ソングとかそんなに好きじゃないんだなと自分の傾向をつかんでいたつもりの時期があったのだが、Awesome City Clubの勿忘には度肝を抜かれた。それ以来自分の傾向というものがわからなくなった。

そういう理由もあって、自分の場合、一つのアーティストから自分の価値観に合うなと感じられる曲を搾り取れるのは数曲程度であり、例外はあれど全部の曲が響くことはありえないという結論に至った。これは聴く音楽の多様化というのが由縁してのことであると思えば、納得がいった。

当たり前のことではあると思う。

アーティストのある1曲を好きだからと言って、そのアーティストが1つの価値観に沿って全ての曲を書いているわけがなく、アーティスト自身も変わり続ける。ある一人の人間の価値観に完全に沿う曲を生み出し続けるようなアーティストがいるのであれば、もはやそれは運命なので、そのアーティストと結婚することをお勧めする。

何を当たり前のことをと思われるかもしれないが、改めて考えるともしかしたら、他の人はそうではないのかもしれないと思うのが、こうして記載してみた理由である。

聴く音楽の多様化によって、”音楽を好きになる形”それ自体も多様化しつつあると思う。

盲目的に”アーティスト自体”が好き

椎名林檎へのインタビュー映像だったかな、youtubeに上がっていたのを見たことがあるんだけど、ファンの有り様っていうものについて語っていたのが印象に残っている。

「あるライブでナース服を着た女の子のファンが会場を埋め尽くしていたのを見て凄く驚いた」(マジでうろ覚えだから諸々間違ってるかも)

と椎名林檎は言っていた。というのも、ライブ会場に来たファンは自分の作った音楽それ自体を聴くというよりも、MVに映った椎名林檎自身への憧れからその姿になりきることがライブ会場に来る目的の主体になっているように見えたから、という意味だと解釈できた。(何度も保険をかけて申し訳ないけど、おそらくそういったインタビュー内容だった気がする。少なくともそのインタビューを見た俺はそう解釈した。)

オタク趣味の一般化といいますか、昔は虐げられていたゲームが今じゃeスポーツとしてもてはやされているように、趣味の多様性への理解が深まったのがそうさせているのではないかと感じる。

何が言いたいかというと、音楽を愛する形がアイドルを愛する形に似て来ており、それが主流になって来ているように感じる。彼女らが歌う音楽というよりも彼女ら自体にファンの興味がいっているようなイメージ。

ミュージシャンの方では”愛でる対象としてのアイドルの可愛さ”というものの代わりに”崇める対象としてのミュージシャンのカリスマ性”がその流れを助けているように感じる。

こう考えてみると、むしろ回帰しているのかもしれない。ロックミュージシャンへの心酔が、ファンの髪をファンキーにしたように。

そういうわけで、音楽を好きになる形の一例として、”それを作ったアーティストに惚れ込んでそのカリスマ性に心酔する”という好きの形が存在することをここに主張したい。わざわざ俺がここで主張しなくてもなんとなく認識している方も多くいらっしゃるかと思うが。

ここで彼らが厄介者となる理由として以下の二点があげられる。

  • 彼らは「”彼らが惚れ込んだアーティストに付随する”曲というコンテンツ」がもちろん好きだと錯覚していること。

  • やたら声がでかいこと。(上記の価値観が絶対であるという価値観の押し付けが容易に行われるから)

この二点が無ければこんな記事は書かないし、むしろこういった好きの形はあって当然だと私は思う。音楽それ自体を愛さない彼らのこの価値観が間違いだなんて主張は決してない。

好きな人への憧れが同一視につながるのは当たり前の傾向だし、何よりも彼らのその行動はアーティストのためにもなっているはずだから当然あっていい形だと思う。(安易な考えだが、彼らの消費活動がアーティストの活動費用につながるはずだし)

しかしながら、その好きの形を他人に押し付けていいかとなるとそれはもちろん別問題である。盲目的な信者はその盲目的な愛ゆえに周りが見えなくなる傾向があるように思える。

その先にあるのが絶対なんて無いはずの価値観の押し付けであり、これはファンの民度の悪さという形でアーティストに返ってくる。

好きの多様化によって生まれる齟齬

このような音楽を”好き”とすること自体の多様化によってまず生まれるのが馬鹿らしいマウンティング戦争、その先にあるのが価値観の押し付けあい、ひいてはアーティスト自身にも迷惑がかかる場合もある。

Youtubeのコメント欄では盲目的にそのアーティストは神であると崇め奉るコメントが祭り上げられているのに対し、批判を意見として取り入れることが行われていない。

別にその批判が正しいなどと言いたいつもりはない。自分の好きなものが貶されていれば気分が悪くなるのなんて当たり前のことだ。
だからといって「あくまで意見となるべき感想」たちもタブー視して袋叩きする文化が根付いているのはどうかと感じる。

別に俺がお前の好きな曲を嫌いであろうがお前がその曲を好きな事実は変わらないだろうし、他人の意見で危ぶまれる程度の”好き”ならそれまでだろ、と言いたい。

ライブにおける他のリスナーとの一体感みたいなものが好きという意見は物凄くわかるが、インターネットを通して他人の意見が容易く聞けるようになったこの世の中では、むしろその嫌いという意見を悪とする価値観の“絶対的な共有の強要”が行われているように見えてならない。

こういった好き嫌い論争の最終地点は、いつでもマウンティングである。

「私はこのアーティストを昔から大好きでして、いわば古参なのであります。このアーティストの全ての曲を聴いた上でこの曲を愛しています。たかだか流行りのあの歌が好きでファンになった程度のあなた様にはこの方の素晴らしさはわからないでしょう。もう聴かなければよくない?口を出さないでいただけますか?(怒)」

こういったことを言われると、前述したような”多様化した好き”の共有は不可能である。つまみ食い側が仮にそのアーティストの一曲をきっかけに数多の曲をめちゃくちゃ好きでどれほど愛していようとも、無駄にでかい信者の声の前ではこの”好き”はあたかもニワカであるかのように仕立て上げられ無力になる。

たとえ音楽それ自体を本当に愛しているのがこちらであろうとも無力である。

以前記事に書いた内容と被るかもしれないが、Tiktokでよくこれが起こる。僕自身もTiktokというものがあまり好きではないのでなんとなく気持ちはわかるのだが、Tiktokから”自分の好きなアーティスト”の音楽が流行するのを盲目的な信者はあまり好まない。

しかしながら、何度でも言うが、他人が好きになるきっかけ、行動原理で危ぶまれる程度の”好き”ならお前らのその好きは何なの?その気色の悪い帰属意識は誰のためになっているの?流行の火をかき消すその行動はアーティストのためになんて絶対になってないし、結局マウンティングして自らを誇示するためのエゴじゃない?

まとめ

まとめっつっても問いかけに近い。現代の音楽好き論争で起こっている前提条件を提示したので以下のことについてあなたはどう思いますかと問いかけたい。

  • そのカリスマ性への盲目的な信者になることで内包された音楽を全て好きにならなければ、その人の音楽を好きと名乗ってはいけないのか。

  • 共有するという名目の下で半ば押し付けられた価値観から得られた”好き”が正義なのか。

  • それならば、自分の価値観を殺さずに得た”好き”は、悪であるのか。

もちろん、俺が言ったことがすべてではない。そもそも盲目的な信者の方が大多数な世界のような気がするし、たまたまその対極にいた俺がそいつらをこけおろす形で記事を書いたのであって、あなたにとっては俺が間違っているかもしれない。

そして逆もまた然りである。ここではあたかも盲目信者が価値観の押し付けしがちって仕立て上げたけど、にわか側がそれを絶対に仕掛けてないわけではない。

あくまで一般論よりの偏見から、盲目的で熱狂的な信者にその傾向が多いし、その先にあるマウンティングなどの行動はただただ本当の意味で音楽を愛していないことを自己証明しているだけであることを理解して欲しいわって話。

そしてそれはファンの民度って形で煙たがられて最終的にはアーティストのためにもなってないことにも気付いて欲しい。マジでマウンティングしたお前以外誰も幸せになってない。

しかしながら、こういう類の話をすると絶対に思うのが、価値観の押し付けへの批判をしたい俺は、”価値観の押し付けを批判する”という価値観の押し付けを行っているわけで、結局俺も同じ穴の狢だよなあとは思う。

何が正しいとか話すのがすでに正しくないのかもしれない。

GG。

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