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【短編小説4000字】 伝言屋たちの夜

夜の住宅街を、一人の男が歩いている。
黒の中折れ帽に黒のサングラス。
黒のスーツに黒の革靴。
男は自分の姿がカメレオンのように夜に溶けこむことを期待しながら、硬い靴音をぎこちなく響かせる。

内ポケットにはメモ用紙が一枚。
三十五の文字列が二つ折りに収められている。
『ある寒い年の寒い月の寒い日の寒い朝に、
 月色の目と  色の翼を持つ雛鳥を』
男にはその暗号らしき言葉の意味はわからない。
彼の役目はその言葉を然るべき受取人に届けること。
それ以上は知る由もない。
しかし、そこに極めて重大な意味が隠れていることは、報酬の馬鹿げた桁数を見れば誰にでも見当がつく。
そして、そこにつきまとうリスクの大きさも。
暑気の汗にまぎれて、ちがう汗が男の襟元を伝う。

それほど遅い時間ではないが、家々の灯りは軒並み落とされて、月はどれかの家の屋根の下。
ぽつりぽつりと並ぶ街灯だけが男の行く手を照らしだし、塀から溢れた南国の花が夜陰に浮かぶ。

三つ先の街灯の下、ひとつの人影に、男は歩調をゆるめる。
街灯に照らされる黒髪は長く、小柄な女性のよう。
四角いプリントのある白のTシャツにオレンジのスパッツで、近所の主婦がちょっと夜涼みに出てきたという出立ち。

女はおもむろに煙草を取り出し火をつける。
一服するていでツンと突きだす唇から、X型の見事な紫炎をくゆらせる。
その受取人の目印を合図に、黒ずくめの男は街灯の光の輪に足を踏み入れる。
それから、メモ用紙を一言一句まちがわないよう読みあげる。
『ある寒い年の寒い月の寒い日の寒い朝に、
   の目と琥珀色の翼を持つ雛鳥を』
女は男の手からメモ用紙をひったくり、悠然とその紙の端にくわえ煙草の先をあてる。
吐息にあわせて煙草の火は赤々とひかり、メモはメラメラと燃えあがる。
またたく間に灰と化す。
女は指先に残った紙片を舌にのせ、のどを鳴らして飲みこむ。
その一連の動作にだけ、近所の主婦らしからぬ妖艶さが垣間見える。
しかし次の瞬間には、女はもう凡庸な陰鬱さを身にまとっている。
あたかも気の進まぬ我が家に帰るように、煙草を踏み消し住宅街の奥に向かって歩き出す。
男はあっけにとられて、街灯の光のなかにぽつんと取り残される。

女は気だるく装った足取りで夜道を歩きながら舌打ちをする。
メモをとるだなんて、と女は思う。
それにあのいかにもな格好!
プロ意識の欠片もありゃしない!
与えられた言葉を痕跡ひとつ残すことなく、与えられた姿のまま運ぶ。
プロであれば誰しも、それぞれにその仕方を会得していなければならないのに。

女は気をとりなおして、いつもの作業にとりかかる。
男から受け取った言葉を、まずはとても注意深く口にする。
『ある寒い年の寒い月の寒い日の寒い に、
 空色の目と琥珀色の翼を持つ雛鳥を』
自分の耳にだけぎりぎり聞こえる声で女は言う。
そして今度はその聞こえたとおりに口にする。
『ある寒い年の寒い月の寒い日の  宵に、
 空色の目と琥珀色の翼を持つ雛鳥を』
そのくりかえし。
口から出た言葉は耳に入り、耳に入った言葉は口から出る。
『ある寒い年の寒い月の寒い日の儚い に、
 空色の目と琥珀色の翼を持つ雛鳥を』
口から耳へ。
耳から口へ。
女はその両頬のあたりで、軽業師のように言葉を回しはじめる。
その循環によって、言葉は内外のいかなる記憶媒体にも頼ることなく、転がる車輪の要領で確実に安全に受取人のもとへと運ばれていく。
『ある寒い年の寒い月の寒い日の  夜に、
 空色の目と琥珀色の翼を持つ雛鳥を』
くるくる、くるくる回りつづける。
回転はだんだんと軽妙になる。
女が言葉を回しているのか。
言葉が回っているのか。
次第に女自身にもそれがわからなくなっていく。
今日の言葉はとくにその傾向が強いみたい。

女はやがて山裾のだだっ広い自然公園にたどりつく。
ホ、ホー、ホー、ホ。
フクロウが鳴く。
女は声のしたほうへ歩く。
果てしない芝生広場の中程に一本のクスノキ。
昼間は遊ぶ子らの憩いの場でも、今は夜の底の澱にしか見えない。
その澱のなかにひときわ濃い澱がこごっている。
西に傾く三日月の、その弱々しい月明かりさえ避けるようにして、幹に身を寄せる人影を女は見つける。

ホ、ホー、ホー、ホ。
人影が鳴く。
それが受取人の目印。
女は人影にむかって歩きだす。
速くもなく遅くもない、変わらぬ歩みで人影に近づき、そしてそのまま通りすぎる。
通りすぎざまに、女はその人影の正体をちらりと見る。
老人だ。
と同時に、その口と耳のあいだで回していたものを、老人のほうにポンと放り投げる。
『ある寒い年の寒い月の  日の暑い夜に、
 空色の目と琥珀色の翼を持つ雛鳥を』
さっきの黒男には無理でも、手練れ相手ならこれで充分。
女はそのまま振り返ることなく夜に溶ける。

女が消えたあとも、老人はそこに留まりつづける。
老人は女のように幾度も言葉を唱えるような真似はしない。
ただ一度だけ、
『ある寒い年の  月の暑い日の暑い夜に、
 空色の目と琥珀色の翼を持つ雛鳥を』
と、しゃがれた声で老人は言う。
その一度で、老人はその言葉を味わい尽くす。
その味を楽しみ、その香りを堪能する。
その感触と、響きとが老人の身に沁みわたる。
いくつもの知覚は言葉そのものとひとつに合わさって立体的な記憶となり、幾星霜忘却の風雨に耐えうる不変の石柱となって、老人の海馬の裾野に屹立する。
これまで運んだすべての言葉がここにある。
老人は目を閉じさえすればいつでも、その墓標にも似た数千の立体が整然と並ぶ景色を見ることができた。
はじめて預かった言葉は『きみしにたまふことなかれ』。まだ言伝の途上にある。

『ある寒い年の暗い月の暑い日の暑い夜に、
 空色の目と琥珀色の翼を持つ雛鳥を』
老人はまぶたの裏、居並ぶの立体の最前列にその言葉の姿をじっと確認したのち、東に向けてゆるりと歩きだす。

ところが、その頭上高くのひと枝に一羽のオウムがとまっている。
どこかの鳥籠から逃げてきた様子の舶来の鳥。
とぼけた顔を左右に一度ずつ傾げてから、赤色のつばさで大きくひと羽ばたきして、老人とは逆の方角へ飛び立つ。
茹だる熱気が故郷に似て、オウムは気をよくしてどこまでも飛びつづける。

どこにでもありそうな民家のひと部屋。
ひとりの少年が勉強机に座って、携帯電話片手にぽつりぽつりと話をする。
家族の耳を気にしての抑えた声で、必死に話題をさぐりながらの綱渡り。
しかしそれもそろそろ限界にさしかかる。
本題を切りだせないままに話題が尽きようとしたそのとき、開け放った窓のすぐそこから、
『ある  年の暑い月の暑い日の暑い夜に、
 空色の目と琥珀色の翼を持つ雛鳥を』
と、しゃがれた声がする。
そして羽音がひとつ。
少年はあっけにとられて思わずおうむ返しにくりかえす。
『ある暑い年の暑い月の暑い日の暑い夜に、
 空色の目と琥珀色の翼を持つ  を』

「え? なんて言ったの?」
少女はベッドから身体を起こして聞きかえし、
「あ、いや、なんでも。なんでもないよ。なんか窓の外からそう聞こえてつい……、あ、でもここ二階だから、そんなの聞こえるわけないし、だから気のせいだからほんと、ほんとになんでもないんだ、ねぇ、そんなことより、えっと、ほら、明日、明日さ一緒に花火を見に行かない?」
少年は混乱した言い訳のなか、うっかり本題を切り出してしまい、
「……うん、いいよ」
と答える少女は、しかし生返事。
今しがた少年が口にした奇妙な言葉が頭のなかをぐるぐる回って、それにつづくデートのお誘いはじつは耳の奥で順番待ちの渋滞中。
電話の向こうでは、天高く舞い上がった少年が「じゃあさ、じゃあさ」と調子にのって、花火の前に食事、食事の前にプールの予定をつけ加えると、そこに母親らしき怒号が割って入ってしっちゃかめっちゃか、「あとでメールす」の咆哮を最後に通話はプチン、力まかせに引きちぎられる。

少女はなおも上の空。
開けっ放しの窓の桟にしなだれかかり、夜空を見上げてさっきの言葉を反芻する。
思い立って、手ごろな紙にその言葉を書きつける。
『ある暑い年の暑い月の暑い日の暑い夜に、
 空色の目と琥珀色の を持つ黒猫を』
それをためつすがめつ眺めたあとで、紙飛行機を折って窓から沈みゆく月めがけてついっと放つ。
その一挙で耳の奥のつかえがようやくとれる。
順番待ちの言葉たちが次から次へと意識にのぼって、少女は事態を理解する。
花火……!
食事!
ぷーる……?
プール!! プールってなに!?

遠ざかりゆく窓のあかりのなか、身もがき身もだえする少女をしり目に、紙飛行機は夜風に乗って西へ西へと飛んでいく。

繁華街のきらびやかな光の溜まりを眼下に見おろし、オフィス街の点々と消え残る窓明かりを抜ける。

音のみとどろく川を越え、木々のざわめく山々を離れる。

そして、あたりは夜だけになる。
紙飛行機と言葉と夜風と夜だけになる。
紙飛行機は夜のなかをどこまでも飛びつづける。

やがて紙飛行機は小高い丘のうえで乾いた音をたてる。
長く伸びた夏草の中ほどでとまる。

『ある暑い年の暑い月の暑い日の暑い夜に、
 空色の目と  色の目を持つ黒猫を』
は紙飛行機から丘のうえに、その幼い足でトンと降りたつ。
小さな背伸びをしてから、鷹揚にあたりを見渡す。
もったりとした空気を胸いっぱいに吸いこむ。
夏草のするどい葉先をちぎりとり、感触をたしかめてから指を離す。
葉先はほぼ真下に落ちる。

『  暑い年の暑い月の暑い日の暑い夜に、
 空色の目と薔薇色の目を持つ黒猫を』
は生きている言葉が自分一人だけになってしまったことを理解する。
すべてはあるべき場所におさまって、すでにコチコチに固まっている。

『その暑い年の暑い月の暑い日の暑い夜に、
 空色の目と薔薇色の目を持つ黒猫 』
は小高い丘のうえにひとりたたずむ。
彼女をここまで運んできた夜風もすでにない。
彼女は頭上の二重鉤括弧を、知恵の実に伸ばされたイブと同じ手つきでもぎとり、遠くに投げ捨てる。
それから、足元の二重鉤括弧を脱ぎ捨てて素足になる。
とたんに彼女の目覚めは世界の目覚めとなり、彼女の眠りは世界の眠りとなる。
彼女の空白は、世界の空白となる。

そして、その暑い年の暑い月の暑い日の暑い夜に、空色の目と薔薇色の目を持つ黒猫は、


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