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ジャンクな作品を作る勇気をもって


一年前の10月15日、
留学して1ヶ月が経った頃に書いていたノートをもとに書いてみた。

この1ヶ月、生きるのに精一杯だった。英語の出来なさにへこたれつつ、慣れない掃除洗濯料理をこなし、宿題はままならずともとりあえず毎日学校へ行き、気づいたらprogress tutorialという名の一対一の面談があり、あえなく惨敗し、身も心も疲弊していた。ちょうどその面談の直前あたりに生理がきて、生理前に精神的にずーんと落ちてしまう体質ゆえ、余計にやられた。ついでに、I'm on my periodという言い回しを覚えた。

ただ、このprogress tutorialを終えて以降、少しずつ見えてきたことがある。

なんとなく、手の中にまだ収められてない、すかっと空回りし続けているような気持ちになっていたし、本当何しているのか、何を求められてるのか本質的に理解できていなかったこの1ヶ月。

1日で終えるプロジェクトや、グループワーク、とにかく感性を全開にして、頭も手も動かして、毎日思ったことや自分なりの考えを文章で書いて、スケッチブックにアイデアを描いて、まとめて、っていう、慣れないことばかり。

progress tutorialでは、作品なんかよりも、自分自身の書いた文章、スケッチブックでのプロセス、加えてリサーチを重点的に見られて、わたしはまったくもう話にならないほど出来ていなかった。

わたしの通っていた日本の大学では、もちろんコンセプト第一ではあったけれど、考えをみんなに共有する時間ってあまりなかったし(特にプレゼンボード以外で文章に書き起こすなんて)、ひとつひとつの課題も最低でも1週間の時間があてがわれていた。しかもその大部分は手を動かす時間。アイデアは早めに確立させて、いかに完成度が高く美しいものが作れるかを競い合っていた気がする。

先生の評価も、完成品によってなされていて、それまでのプロセスというのは完成品が語ってくれている部分からしか評価されづらい。どれほどプロセスやコンセプトが良くても、完成度が低ければ、あまり評価されないことも多かった。

そんな4年間を過ごしたのち、わたしは完成度に異常にこだわるようになり、プロセスを大事にできていなかったのかもしれない。

それで、卒業制作の時、就活をさて始めるぞとなった時、自分の核の部分がとんでもなく弱くて脆いことに気づいて、一気に青ざめた。

とにかく外ばかり見ていた私は、途中で「絶対良いのになんで伝わらないんだ、なんで言葉にできないんだ。」ともがき苦しむ中で、「そっか、言葉にするということをしてこなかったんだ。内側のプロセス・コンセプトに時間をかけてこなかったからだ。」と気づいて、最終的にここで学び直すことにした。

ロンドンにきて1ヶ月。楽しいはずのデザインに全然身が入らない。全然楽しめていないし、みなぎるエネルギーみたいなものもない。ファウンデーションだからか?やっぱりMA(大学院)行くべきだったか?とも一瞬考えたけれど、確実に違う。今までやってこなかったこと、避けてきたことだらけで、単純に齷齪しているからだ。溺れかけながら25Mクロールさせられた水泳の時間を思い出す。

そんな今日、language classというIELTS5.5以下の人たちのための週一の英語クラスがあった。このクラスの先生と少しお話しすることができ、興味深いことを聞かせてくれた。そうしたら、今まで掴みきれなかった輪郭が、スッとその実態を現しはじめてくれた気がするので書き記しておく。

「去年の12月、日本でデザインの展示を見に行ったんです。色んなインスピレーションを受けたし、すごく感動した。そこで、この色に意味はあるのか、これは何のための作品なのか、歴史的背景はあるのか、知りたくてすぐ隣のスクリプトを見たんです。でも、そこに書かれてたことが酷くて、惜しかった。」

英語の翻訳がおかしかったのだろうかと思い、

「結構そういう問題あるんです、翻訳が…」と言いかけると、「違う」と。

「ちゃんとした文章なんです。でも、全然詳しく書かれていない。知りたいことが何ひとつ書かれてなかった。そこでハッとしました。ああ、だから日本からの留学生たちは自分の考えを文章で表現するのに困るのかと。」

そういうことか、と、驚いた。

「これは文化的な違いで、曖昧な表現は日本の一つの特徴であって、それがいけないという風には思わない。でも、もしここで、あなたが文章で説明するスキルを磨けたら、絶対に日本に帰った時に強みになりますよ!」

最後はこう言葉をかけてくれた。胸がすっきりした。

私は特にできない方ではあるけれど、想像以上にたくさんの人が同じように苦手としているんだと知った。それで、辛かった気持ちもすごく楽になった。自分だけじゃない、というのは心強い。顔の知らない、似たような不得意のある日本人留学生に「がんばろうな!」と言いたくなった。

そうか、私が去年の4月に自分自身に絶望して、英語の大学のホームページもよく読めないまま自分で選択してきたこの道は、ちゃんと私の望んでた試練を与えてくれる道だったのだ。

できないできないどうしよう、となりかけていたけれど、そもそも出来ないことを出来るようになりたくてここに来たわけで。これが当たり前だった。できないをできるに変えられるチャンスを与えてくれているのだから、むしろ喜んで立ち向かうべき壁なのだと捉え方も変わった。

よかったじゃん、わたし。と、自分の肩を叩き、先生に感謝しつつ、残りの時間でどれだけ克服できるか挑戦することにする。

と、こんな文章だった。
これから一年。わたしは変われたのだろうか。

肌感覚だが、言葉にするハードルは低くなったように思う。
意識して、自分の考えや感じたことを言語化するようにしてきた。
まだまだ薄っぺらいなと感じるけれど。

ただ、ロンドン芸大での評価はいつまで経っても上がらなかった。常に「失敗を恐れず、もっとジャンクな作品を作る勇気を持ちなさい」とチューターから言われ続けていた。これはいまも克服できずにいる。いまだにジャンクな作品が何なのかすら掴めていない気がする。けれど、『ジャンクな作品を作る勇気を持て』、なんとなく好きな言葉だ。この言葉を反芻して、いつかこの“ジャンクな作品”を堂々と作れるよう、殻を破りたい。


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