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銭湯断想 

湯船につかっていると、この時間を考え事に当てようと思ったはずなのに中々出来ない。気がつけば、無の5秒、無の10秒を途切れとぎれに繰り返して、終いに考える事自体をあきらめている。

逆に(という言い方は間違いかもしれない)サウナに入っている時は、無になろうとしても何故か出来ない。身体中の血が心臓が、目の前の分時計が、目まぐるしく動く様に刺激され、短期集中的に考えがめぐり出す。
私の場合だけれど。

***

長らく旅先での温泉やサウナを楽しむ事から遠ざかっているけれど、近所にある銭湯が良い気分転換になる。

私が育った団地の街には銭湯はひとつも無かった。家族世帯ばかりで、学生さんや一人暮らしがほとんど居なかったし、一帯が山を切り開いて突然できた新しい土地だったからだ。銭湯のある街がもっている歴史のようなものが、団地の街には無かった。

団地の街に移る前。
私が四つになるまでの間に、私たち家族は父の仕事の関係で何度か大きな引っ越しをした。
「父の仕事の関係」といえば、父親が立派な会社に勤めているようなイメージがあるけれど、うちの場合は単に父がウマイ話しを追いかけて次々と職を変え、各地を転々としていただけだった。

私が三つの時に少し住んでいた街は大きいけれど古い下町で、駅前にはパチンコ屋とタバコ屋ひしめき合って立っていた。路地はいつも湿っていて暗く、どこからか知らない手が伸びてきて連れ去られてしまいそうな怖さがあった。その街には沢山の銭湯があった。

私たち一家は駅から少し離れた二階建ての文化住宅に暮らしていた。小さな色違いタイルの流し台(母は水屋と呼んでいた)に板間の台所と和室が一部屋。トイレは共用で別にあり、お風呂は付いていなかった。
弟もまだいなかったので、そこに両親と三つの私が住んでいた。

幼いので確かな記憶ではないのだけれど、その部屋から通った銭湯の湯船の底に赤と青と緑色のランプが埋められていて、その光を反射しながらボコボコ出てくる泡を飽かずに眺めていた事は覚えている。

そして当時、宝石箱というアイスがあって、食べたくて、ほしくて仕方なく、何度もねだってやっと母に買ってもらって食べた記憶がある。宝石箱の中の色付きの氷が、私の中であの銭湯の湯船の底の三色のランプと結びついている。

その一個のアイスは、実は気楽に買えるようなものでは無かった筈だ。というのは、もう一つその頃の記憶で覚えているのが、小さな和室のその部屋で、母と私だけが布団も敷かずに仰向けになって天井を見上げていたこと。

ラジオから女の人の歌が流れていて(テレビは無かった)、横を向いて母の顔を見ると、つぶった左目に伝う涙の筋が見えた。

その少し前、私は多分飲み物を欲しがったのだ。でも貧しくてその日暮らしがやっとの我が家にはその日私に飲ませる飲み物は何もなかった。
母にお白湯をあてがわれ、そんなもの幼い女の子が喜んで飲めずに駄々をこねたのだろう。母を困らせ、悲しませた後だったのだ。多分私も泣いていた。女二人、大きいのと小さいのとが並んで、硬い畳の部屋で。

その部屋での父との思い出は、全くない。

息子に私が子供だった頃の話を、こんな湿った私の幼い頃の話を、いつかすることがあるだろうか。
ママの小さい頃の話しを聞かせてと、息子が思う日がいつか?

そんな日が来なくても別に構わない。
ただ、幼い頃から抱えてきたこんな記憶の蓄積が、今になって私を書きたいという情熱に向かわせている。

そしていまこれを書く事で、若かった母と三つだった頃の私の涙が一つ、やっと昇華したように思うのだ。


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