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「落日残照」第2話


 余暉が位置する場所から、三間ほど離れたところに、彼女は音もなく立っていた。

「いい加減慣れても良い頃合いではないか? 私が本気で君の命を奪うつもりなら、君はとうの昔に死んでいるだろうさ。分かるだろう?」
「いやいやいや、そういう話じゃあなくてですね……!」

 小柄で華奢な体。頭の横で結った黒髪。白銀に水浅葱の刺繍を施した着物が風に揺れる。
 雪音、と呼ばれたその女性は、涼しげな表情をまるで崩さぬまま、鋭い切っ先を向けていた匕首を鞘に納めた。

「待ち合わせ場所に来るのがやけに遅いから、少しばかり心配になった。様子を見にきてみれば、林檎飴片手に一人で黄昏ている君が見えたものだから、」
「〝だから匕首切って襲い掛かってみた〟、って?」
「うむ」
「うむ、じゃねェ!」

 中々どうして話が通じない彼女に対する苛立ちを抑えながら、余暉も構えていた苦無を下ろした。

「あのなァ、こっちもあんたの一撃止めるの大変なの! 王都専属の暗殺臣に一庶民が敵う訳ねェだろが!」
「それはまた随分な笑い種だな。その王都専属の暗殺臣の一撃を受け止めて弾き返した何処のどいつが一庶民だと?」
「あー……」

 返す言葉が見当たらない。きょろ、と視線を泳がせる。

(いやまぁ、確かにそうなんですけども)

 とにかく! 危ないと思うんですよね! 雪音のことだから「おっとすまない、手が滑った」とか言って軽率に俺の首と胴バラしちゃいそうだなとか思っちゃうんだよな! と喚く余暉をよそに、雪音はどこ吹く風のまま、すたすたと歩き始めた。

「時に余暉よ」
「何さもう……。あんたもうちょっと人の話聞けって……」
「頼んでおいた薬草は受け取ってくれたか? わざわざすまなんだ、五番街はここから結構な距離だろう」
「あー。それはまぁ、昼間は俺もそこそこに暇だから別に良いよ。店主の婆さんが〝たまにはお嬢さんの顔も見たいねぇ〟ってさ」
「あそこにはしばらく寄っていないからな。そうか、ならば──王都に帰還する日。その時にでも出向くことにしよう」
「うんうん。良いんじゃない?」

 適当に相槌を打ちながら、余暉は地面に置いたままにしていた木箱と、一升瓶と小瓶を手に取って雪音を追った。
 てくてく、てくてく。他愛のない話をしながら、路地裏を抜け、ゆっくりと坂を上りきり、ようやく家の前に辿り着いた時には、高かったはずの太陽は山際に沈みかけていた。
 日が暮れるのも随分早くなったものだ。
 ひゅお、と吹き抜けた寒風が、鋭利な刃のように肌を裂く。粟立った己の体をさすりながら、余暉は白い息を吐く。家の玄関に手を掛けた、その時。

「「……!」」

 ぴくっ、と。
 ほとんど同時。余暉と雪音、二人の肩が小さく跳ねた。
 何だ。なんだこの──「匂い」。
 歩いてきた方向とは反対の方角に視線を向ける。風に乗って流れてきた微かなそれは、日常ではまず嗅ぐはずのないもの。

「まさか……」

 ここに来て、雪音が初めて表情を変えた。困惑と驚きと、面倒事を引き当てたであろうことを確信した、苦々しい瞳の色。
 二人が動けずにいる間も、風に運ばれてくる匂い少しずつ濃くなっていく。
 鉄錆に混じる、酔いが回りそうな甘ったるい芳香。あまり好ましくない匂いだ。胸の辺りが嫌にむかむかする。無意識の内に、小さな舌打ちをしていた。

「人間の血の匂いだ。ったく何がどうなって今このタイミングで……!」
「事情は本人に聞くしかあるまい。とにかく、喰われる前に救わねば!」
「分かってるよ……!」

 手元の荷を玄関前に置き、余暉は大きく踏み込み地を蹴った。一度の跳躍で隣の建物の屋根に降り立ち、そのまま匂いが流れてくる風上へと奔る。
 すぐ後ろに雪音がついてきているのを確認しつつ、ちゃきりと苦無を取り出し右手に構えた。

***

  屋根の上を進む上での良点は、下の様子を終始確認しながらの移動が可能であることにある。慣れない内は足音が煩いと近隣住民にどやされたこともあったが、それも昔の事だ。

(どこだ……ッ!)

 長髪を風に靡かせ、ひたすらに駆ける。あの匂いは濃くなる一方で、余暉が向かっている方向に間違いがないことは明らかだった。

「ッ、此処から戌の方角だ余暉! 近いぞ!」

 雪音の言葉に、余暉はすぐさまその方角を見た。
 ──袋小路に追い詰められている一人の少女と、彼女を囲むように立っている複数の影を視認する。少女は青い顔で己の右手首を押さえており、その指の間からは赤黒い液体が流れ出ていた。匂いの源だ。人間の血。

「あれが近くに広がるのも時間の問題か……。現場は俺に任せてあんたは透夜を呼んでくれ! 彼奴一人でいい! 部下を連れてこられると色々面倒だろ多分!」
「承知した」

 タンッ、と屋根瓦を蹴る音が後ろから聞こえる。雪音の気配が遠ざかっていくのを感じながら、余暉もまた混凝土を蹴り、屋根伝いに小路へ向かった。

***

「ア゛……う、がァ……ッ!」
「うぐっ……、ぐ、ギッ……!」

 混乱と恐怖から来る震えが、カチカチカチカチと歯を鳴らす。至極小さいはずのその音すらも酷く耳障りで、──互いの肉の抉り合いのような様相を呈している眼前の惨劇に、とにかく吐き気を堪えるので精いっぱいだった。
 一刻も早くこの場を去りたいのに、足に力が入らず体も言うことを聞いてくれない。ふらつきながら後ずされば、身長の倍はあるであろう壁が無慈悲に行く手を阻んだ。

(何、なのよ……!)

 ──気づいた時には、何重にも渡る紅い鳥居の中に座り込んでいた。知らない場所。今まで生きてきた中でも見たことのないくらい、美しい景色の中。鳥居の紅と空の群青の、鮮やかな色彩の対比に呆然としながら石段を下った。鳥居を囲む鎮守の森の木々が、桜と青葉と紅葉と冬枯の枝に揺れていたのだ、その時点で此処が普段の世界とはかけ離れた地であることを理解するべきだった。
 石段の、最後の一段を下りたところではたと我に返った。此処は一体何処なのだ、と。分からないことは人に聞くのが世の習い。あいにく其処は人気がなかったので、何となく道なりに進んできたら、この有様だ。
 この街に、人間は誰一人として存在しない。
 目眩がしそうだった。大通りを闊歩するのは得体の知れないモノたちばかり。悲鳴を上げそうになるのを何とか堪え、すぐに小道に逃げ込んだ。

〔……ッ!〕

 逃げ込んだ先。獣頭の獣人がたむろしていたのを見た時には本当に、生きた心地がしなかった。
 化け物たちの制止の声を全力で振り切り、がむしゃらに逃げた。こちらを追ってくる気配に背筋が凍った。
 もっと。もっともっと遠くへ。誰もいないところへ。
 凄まじい焦燥は心を焼き尽くさん勢いで。──その瞬間、道端に転がっていた酒瓶につまずいた。

〔いっ……た……!〕

 全速力で走っていた勢いが相乗し、全身を強かに打ち付ける。ぷつっ、と何かが切れる感覚と共に、たらりと右腕を濡らしたのは真赤の鮮血だった。
 深い傷ではない。それよりも早く逃げなければ。痛む体を何とか持ち上げ、そうして顔を上げた先に待っていたのが、袋小路だったという訳だ。
 化け物たちに追いつかれるのに、そう時間はかからなかった。相対した獣人たちは、こちらと鉢合わせした時よりも明らかに様子がおかしかった。
 双眸をぎらぎらと光らせ、舌はだらりと垂れ下がって。どう見ても正気を保っているようには思えず。そもそも化け物に正気なんてものがあるのか、いやそんなことはどうでもいい、今はここからどう逃げるかが問題であって、と、纏まらない思考をぐるぐると回す他に出来る事がなかった。
 目の前で唸り声を上げる化け物たちを間近に見て、「喰われる」と、漠然とそう思った。
 誰でもいいから助けて、と。そう強く願った。
 都合の良い事だ。この状況に、世界に、自分に、心底嫌気が差した。

〔……っ!〕

 ぎゅ、と強く目を瞑る。視界に広がる闇を見つめ、ただ、願い続けた。
 ──異変が起こったのは、それから数秒後のことであった。

〔ンギャッ……!?〕
〔!?〕

 自分のものではない悲鳴。
 はっと目を開けると、獣人たちと同じ数だけ、彼らの前に、黒い影がゆらゆらと揺れていた。
 獣人の内の一人が、顔を押さえてのたうち回っている。手の隙間から、赤黒い血が流れ出ているのが見えた。

〔え……?〕

 影が、やったのだろうか。夕陽が差し込む中で立体的に揺れる影は何だかひどく滑稽で、現実感の欠片もない。顔もなく、原形を留める事もなく、ただぼんやりと人のような形を取っている影。
 まともな声も出せないまま、呆然と様子を眺める。
 影は数秒ほど動かずにその場で揺れ続けていたが、何かの拍子にぐにゃりと動き、そのまま獣人に襲い掛かった。
 あとは乱闘どころの話ではない。どうやら敵対したらしい獣人と影との、正真正銘の殺し合いが始まってしまった。
 ──そして、今に至る。

「う……っ!」

 べちゃっ、ばちゃっ。
 生々しい音と共に周囲に飛び散る血の量が非道い。初めこそ「この影は味方なのか」と一縷の希望を持っていたものの、獣人に対するあまりにも執拗で無惨な攻撃を目にして、すぐにそれは絶望へ流転した。
 この殺し合いに決着がついた時、自分は生きていられるのだろうか。目の前の敵を殺し終えた瞬間、標的はこちらに向くのではないか。いや、きっとそうだ。絶対にそうだ。怖くて怖くて仕方がない。獣人にしろ影にしろ、自分の敵であることに違いはない。
 逃げるなら今だ。今しかない。
 戦闘を刺激しないよう、大きく、それでいて静かに息を吸い込む。
 動け。動け動け。
 じゃり、と一歩を踏み出し、彼らの隙を突いて駆け出そうした、その時。

「動くなッ!」
「!?」

 空気を切り裂く鋭い一喝。その声は、頭上から降ってきた。


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