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「落日残照」第1話



 酒の匂いが、随分ときつい。
 男特有のむさ苦しい熱気に溢れる酒場。余暉は眼前に広がる賭けの様相を、涼しい表情で眺めていた。
 彼の視線の先には、丼に入った三つの賽子が転がっていた。六、六、六のぞろ目を指しているそれは、この賭けでは二番目に強い役を表している。相手の賭け金は持ち金全て。一方こちらの賭け金も相当額に膨れ上がっていた。

「さっさと賽を振ったらどうだ」

 余暉と相対する賭けの親──ここらでは名の通った強運の持ち主だ──は、己の勝利を確信していると言わんばかりに、フンと鼻を鳴らした。
 ざわりざわりと揺れる喧騒の中にあって、目前の男の地を這うような低い声は、確実に余暉の耳に届く。聞いていて心地良いものではないが、かといって耐えられないものでもない。酒や煙草に喉をやられた男のだみ声は、毎日嫌というほど聞いている。今更気にするようなことでもなかった。

「貴様以外の子は全員即負けだったからな。彼奴らの賭け金はすべて貴様に流れているのだろうが、そう易々と勝たせてはやらんぞ」
「いやいや、あんたに本気になられると中々に困るもんだねェ! 何? こいつらの金あんたから全部取り返すには、一発でピンロ出さなきゃならねェってことだよなコレ!」

 賭けの助っ人ってのも肩が凝るもんだな、と余暉は大仰に肩を竦めてみせた。
 彼の背後には五人の男が立っていた。彼らは手に汗握り、固唾を飲んでその場を見守っている。親に負け続け、全額を巻き上げられてしまった張本人たちである。
 なけなしの金をはたいて錬金した財産を諦める訳にはいかず、しかしあの男に賭けで勝てる者は此処にはいない。さてどうしたものかと揃って頭を抱えていたところに、偶然通り掛かったのが余暉だった。
 顔見知りに土下座同然で頼み込まれてしまってはどうしようもない。無視する訳にもいかず、余暉の助っ人参加はとんとん拍子に話が進んだ。五人の有り金に「せっかくだから俺も賭けちまおうかな」と彼の持ち金も合わさり、そうして最終決戦──今に至る。
 賭けの親──羅獨は、盃に並々と注がれた白酒を豪快に煽った。中々の呑みっぷりである。ひゅう、と口笛を吹けば、濁った双眼がぎょろりと余暉を捉えた。

「貴様、確率にして四厘の出目を本気で狙うつもりか? 馬鹿な真似を……。貴様も即負けで一文無しになるのがオチだ。ここで手を引くなら、貴様の賭け金だけは返してやっても良いぞ」
「おや、もしかして俺舐められちゃってる? 嫌だなァ旦那。何でこいつらが俺に頭下げたか、あんたどうやら分かっていないらしい」
「……何?」

 後ろに控える男たちを顎で指しつつ、余暉はへらりと口角を上げた。長椅子の背もたれに両腕を投げ出し、長い足を組む。

「こう見えても、賭けに関して言えば俺はそこそこにツいてるのさ。そうさね、──あんたの有り金、ぜーんぶ掻っ攫えるくらいには」

 見え透いた挑発。
 余暉の一言に、羅獨の片眉が跳ね上がった。刹那の間をおいて、周りの温度が数度下がったかのように酒場の空気が冷気を帯びる。
 己の賭けに興じていた他の客の視線が一斉に集まるが、余暉はさして気にする事もなく、薄い笑みを浮かべながら羅獨を見据えた。
 彼にとっては、羅獨の怒気で部屋の温度がいくら下がろうがどれだけ周りに注目されようが関係ない。目的はただ一つ。この賭けに勝つ。それだけだ。

「そりゃまァ、ここら辺ではまだ店潰しもしたことないし? 噂ってのは簡単に広がるようにみえて案外すぐに消えちまう。俺のこと知らないのも、仕方ないと言えばそれまでだけど。いやはや、旦那もまだまだ世間知らずだねェ? 向かい街の情勢もまともに知らないときたか」
(おい余暉、それくらいにしとけよ……!)

背後の男の一人、余暉に助っ人を頼んだ顔見知りが、焦ったように耳打ちした。しかし、余暉は余裕綽々に片目を瞑ってみせるのみだ。(黙って見とけ)とだけ口を動かし、彼は再び羅獨に視線を戻す。
 盛大な舌打ち。羅獨はきっと余暉を睨みつけた。

「舐めくさりおって餓鬼が! さっさと賽子を振らんか!」
「へーいへい、言われなくても分かってますよ……っと」

 慣れた手つきで賽子を掴み取り、余暉は流れるような動作で、チリンと三つの立方体を丼に転がした。
 すらりと伸びた白い指が、賽子に回転をかける。
 ──賽子が転がった瞬間に響いた、乾いた音。喧騒に埋もれていた酒場は、その小さな音色が奏でられた瞬間に、物音一つしない完全なる静寂に包まれた。
 賽子の動きが止まる。賭けを覗いていた全員が、我先に丼の中身を確かめようと身を乗り出す。いつの間にか、二人を取り囲む見物客はゆうに二十を超えていた。

「な……」

 丼の中。表に晒されたのは、――赤丸三つ。 一拍の間を置いて、羅獨の手から、空の盃がガチャリと落とされた。

「一の目揃いのピンゾロだ……」

 誰かがそう呟いた、刹那。

「「おおおおおおおっ!」」

 静寂を突き破る、男たちの歓喜の絶叫が賭博場に響き渡った。

「すっげ……、お前すげぇよ! 何がどうしてこんなに都合よくピンゾロ出せんだよ余暉!?」
「んー、なんだろな。日頃の行い?」
「ッはは! 余暉に限ってそれだけはねェってのは俺でも分かるぜ!」
「あ、バレた?」

 顔見知りの顔見知りの言葉に、ぺろ、と舌を出す余暉である。
 どんちゃん騒ぎの大狂宴もここに極まれり。自分たちの賭けでもないくせに呑めや歌えやと勝手に騒ぎ始める客たちをよそに、余暉はよっこらせ、と立ち上がり、呆然としたままの羅獨の肩を叩いた。

「旦那、約束はきっちり守ってもらわねェと」

 ほら、それそれ、と指さす先には、山積みになっている余暉たちの賭け金が鎮座している。羅獨は視線を右往左往させ、賭け金を見、余暉を見、そして深い溜め息と共に天井を仰いだ。

「むむぐぅ……。致し方、あるまいて」
「おっ」

 余暉が小さく声を上げる。後ろに待機していた顔見知りが、どうしたどうしたとこちらを覗き込んだ。
 ここで羅獨が金を譲らず、一悶着あるであろうことは予想済みだったが、どうやら杞憂に終わったらしい。えー、見かけと言動に寄らず案外素直じゃんあんた、とは、さすがの余暉もこの時ばかりは口にしなかった。

「が、この金を渡す前に一つ問おう」
「……ん?」

 羅獨は大きな手でむんずと札束を掴み、余暉の目前でかざしたまま動きを止める。
 すっかり受け取る気でいた余暉の手が、綺麗な弧を描いてすかっと空を切った。

「貴様、――この期に及んで、如何様などという小癪な真似はしておらんな?」
「……!」

 二人の様子を眺めていた顔見知りが、はっと息を飲む気配。余暉は口を真一文字に結び、む、と羅獨を見た。
 確かに、日々の余暉の行動は軽薄にして無頼漢を思わせるそれではある。法なんぞはこの国には在って無いようなものであり、その端的な事実を、此の地の住人たちは暗黙の了解として捉えている。簡単に言ってしまえば、「勝負に勝つ為なら基本的に何でもアリ」。もちろん、余暉もその考え及び国の在り方に賛同している内の一人である。

(それでも、せめてこういうところは信頼してくれても良いんじゃないのかねェ)

 余暉は小さな溜め息と共に、がしがしと頭をかいた。
 こちらもこちらで持つべき誇りと矜持というものがある。娯楽といえども賭けは一つの殺し合いだ。文字通り、己の生活を、命を賭ける者も中には居るだろう。
 一種の聖域と言っても過言ではない賭場を穢すような真似など、死んでも御免である。賭け事において、小汚い如何様で勝ちを掴んだことは正真正銘一度もない。

「俺が持ってるのは、多少の運と努力で得た技術だけさ」
「む?」 

 その点に関しては、嘘偽りのない本当のことだった。
 誠意には、誠意を以て相対する。濁ってはいるが、羅獨のその瞳は至極真っ直ぐだ。
 勝負を好む。賭け事を好む。その瞬間に価値を見出し、その瞬間を穢されることを何よりも嫌う。この男は、そんな性格をしている。
 僅かに首を傾げる羅獨に対し、余暉はこくりと首を縦に振った。

「嗚呼。あんたの誇りに誓って、それだけはないと断言するよ」
「うむ。……うむ、ならば良い。久しぶりに楽しませてもらったぞ余暉とやら。これはその褒美ということにするとしよう。持っていけ」
「はーいよ。全額きっちり受け取りましたー」

 手渡された札束を軽く掲げる。任務達成だ。余暉はくるりと振り返り、

「おらっ」
「あいてっ!?」

 ──貰い受けたその札束で、ぱしりと顔見知りの額を叩いた。

「ってーな、いきなり何すんだよ!」
「おいおい馬鹿やってんじゃねェぞ馬鹿。今日は偶然俺が通りがかったから良かったがもうこれっきりだ。次は助けてやんないからな。妻子持ちだろお前? いい加減仕事見つけて真面目に働けよなー」
「うっ、……っいや、ゲホッ……。うん、そうだよな……」

 うるせぇ! とでも言おうとしたのだろうか。吸い込んだ息の捨て場所に困って咳き込んだのち、男は申し訳なさそうに頭をかいた。

「お前には感謝してるよ。しばらくは賭けにも手を出さないことにする。目が覚めた。家族を幸せにしてやるのが俺の役目だもんな」
「うんうん。よし、じゃあ戒めとしてお前の賭け金から四割引かせてもらうんでよろしく」
「……は?」
「この額の四割。今回の賭け代行の報酬金ってことにしといてやるよ。いやー限りなく無料に近い金で仕事するとか俺様優しすぎだわー感謝してほしいわーマジでガチで死ぬほど」
「え、いやちょっと。それタダではないよな? かなり良い額持ってってるよなおい!?」
「あ、旦那ー? 俺さ、別に金が欲しくて賭けた訳じゃないんで旦那の賭け金はここに置いてくよ。俺もそこそこ楽しかったぜ。あと、今度こいつが此処に顔出したら、一発ぶん殴っといてくれない?」
「ほう? 訳は聞かんが了解した」
「えっ、いや羅獨の旦那まで?」

 えっ、何、何この流れ!? と狼狽える男に向かって、余暉は無造作に札束を投げ渡す。

「お前も、あと旦那もな。鬼が賭け事好むのは分かるけど、そのご立派な角を金にへし折られたくなかったら、俺みたいな凶運持ちに喧嘩売るような馬鹿な博打は、程々にしておけよ」
「カカカッ。手厳しいな小僧」
「あ゛ー! だから分かったって!」

 二人の言葉に、ひらりと片手を振って歩き出す。
 腰まで伸びた長い黒髪を優雅に揺らしながら、余暉は鼻唄混じりに店の暖簾をくぐっていったのだった。

***

 店の外に出た余暉の頬を、切り裂くような寒風が叩く。
 ほぅ、と吐いた息が真白に染まった。見上げた空は、雲ひとつない群青。冬晴に相応しい好天である。
 余暉は大きく伸びをしてから、のんびりと帰路に着いた。
 ──天上天下に栄華を極める都、洛陽──。
 街の中心に陣取る永寧塔を中心に、八方に広がる大通りはいつ何時でも人の波で溢れ返っている。この人混みだ、すれ違いざまに肩がぶつかるのは当然のこと。相手との衝突を笑って流すかその場で殴り合いが始まるかは、その時の互いの気性による──。
 此処は、そんな街だ。 
 道行く人や出店の店主に声を掛けられ、話をする。話を切り上げて歩き出したところでまた声を掛けられ、世間話に花を咲かす。かれこれ七回ほどはそれを繰り返しただろうか。

「いやァまったく、あいつらの話好きも困ったもんだ。まともに付き合ってたら日が暮れちまう」

 ひょっとこの面を被った男。余暉の膝ほどの身長しかない小鬼に、異様なまでの美貌で有名な花街の明里大夫(正体不明)に──。その他大勢の色々なモノたちと言葉を交わした。
 余暉の手には、炒飯が入った木箱と、林檎飴と、一升瓶と椿油の入った小瓶が収まっている。全て話し相手から貰った物だ。彼らが太っ腹なのか、はたまた余暉の人柄が為せることなのか。どちらにせよ、喜ぶべきありがた迷惑であることに変わりはない。
 両手を駆使しても、そう簡単には持ちきれぬ量。それでも何とか均衡を保ち、ようやく人通りの少ない小道に身を滑らせた。

「はぁ……」

 一度足を踏み入れれば戻ってくることが出来なくなりそうな、入り組んだ路地裏の一角。混凝土の壁にもたれ、溜め息一つ。ぼんやりと空を見上げる。
 見慣れた空だ。雲一つない、相変わらずの群青色。

(……憎たらしいな)

 どこまでも晴れ渡るその景色が、妙に心を波立たせる。
 先程までの明るさは何処へやら、能面のように動かなくなった余暉の表情に、暗い影が差し込んだ。
 己の奥底で、暗い何かがぼこりと音を立てた気がした。
 胸に抱いていた荷物を下ろし、余暉は何となしに、小鬼から貰った林檎飴を宙にかざしてみた。
 血を彷彿とさせる鮮紅色が目に痛い。林檎の球面に陽光が反射し、両目を突き刺すように余暉の顔を照らす。

「……」

 眩しすぎる光は、嫌いだ。
 余暉は端整な顔を歪め、そのままじゃくり、と紅い果実に歯を立てた。水飴の甘味と林檎の酸味が、同時に口の中に広がる。二口目。三口目。じゃくっ、じゃくっ、と水気の含んだ音を響かせながら食べ進める。
 光が嫌いだ。
 純粋で、ただひたすらに真っ直ぐで。だからこそ何物よりも鋭く相手の影を切り裂き、一切の妥協を許さない。その性質は辺り構わず己の正義を振りかざし、周囲のことごとくを焼き尽くす。
 ぬるま湯に浸るような脆い幸福が嫌いだ。
 そんなものはすぐに崩れ去ると、この身を以って知っている。己をずたずたに引き裂いて、その上で塵となって壊れて無くなるのなら、そんなものは端から無い方がずっと良い。

(俺もつくづく歪み過ぎたよなァ。余りにも)

 くつり。自嘲同然に喉を鳴らした。
 ──洛陽は、人が住む世界に在るものではない。古今東西の妖が跋扈する都である。
 人ならざるモノたちの楽園。ネオンが光る中華街を思わせる眺望。摩訶不思議な様相を呈した住人たち。栄華と混沌と善悪をすっかり綯交ぜにした世界を、此処は形作っている。

「ったく……」

 もう一度、余暉は大きく溜め息をついた。がしがしと頭をかく。
 もう少しくらい、一人にしておいてほしかった。喧騒の中に身を置いてこその己だと思ってはいるが、たまには静かなところで心を空にしたいのに。
 呆れたように目を伏せる。余暉は無造作に、右手を懐の中に突っ込んだ。
 一瞬の間。一陣の風が横切った、その刹那。

「くッ……!」

 つんざくような金属音が首元で鳴り渡った。
 鋼と鋼が擦れ合う音。同時に感じる、恐ろしいほどに澄み切った殺気。
 歯を食いしばる。そうでもしなければ耐え切れない衝撃だった。
 相手を確認している余裕はない。右手に握った苦無にあらん限りの力を込め、急所に迫った刃を弾き返す。弾き返したところで間髪入れずに放たれた数発の斬撃を、何とか躱す。
 冷や汗ものだ。すかさず地を蹴り、凶手から距離を置いた。
 荒くなった息を整える。応戦体勢の構えを崩さぬまま、余暉は抗議の言葉と共に叫んだ。

「だァっから! いきなり襲ってくんのやめろって何回言ったら分かんだよあんた! 雪音さんよォ!」

 りん。小さな鈴の音が耳に届く。
 余暉が位置する場所から、三間ほど離れたところに、彼女は音もなく立っていた。


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