見出し画像

「落日残照」第3話


 すらりと伸びた長身。人形のように整った顔立ち。傍から見ても相当の美男子である。
 男は視線だけをちらりとこちらに寄越し、大きく息をついた。

「お前、地上から屋上まで人一人抱えて飛ぶようなヤツが、まともな人間だと思うのかい?」
「……え?」

 ぼそりと呟かれた一言を、上手く聞き取る事が出来なかった。聞き返すが、それに関する返答はない。

「まァ、無事で何よりだ。あそこで止まってなかったらお前、三人と三筋に同時にずたずたにされてたよ。まず間違いなくな」

 乱闘に慣れてない一般人ほど危なっかしいモノもないよなァ、と、男は大仰に肩を竦めてみせた。

「さて。俺が戻ってくるまで、お前はここから絶対に動くな。詳しいことはあとで聞かせてもらうよ。だから、此処で大人しく待っててくれ。それくらいは出来るよな?」
「あ、えっと、は、はい」
「よォし、ならいい。腕の傷はそれで止血しておけ。何もしないよりかはマシなはずだ」

 今からどこかへ遊びに行くかのような無邪気な笑顔でへらりと口角を上げた男は、ぽいっ、とこちらに向かって包帯を投げた。

「わ、うわっ」

 三回ほど手の中でお手玉してから、何とかそれを掴み取る。
 端を手首に巻き取ろうとして、男に礼を言っていないことに気が付いた。
 ごめんなさい、これありがとうございます。そう言おうと顔を上げたところに、

「え、え!?」

 ──今この瞬間まであったはずの男の姿は、忽然と消えていたのだった。

***

「おいおいおい、酷ェ傷だなァ! いつもは道端の喧嘩止める側だってのにあんたら……!」
「グルルルル……!」

 成る程道理で。
 影と獣人たちの間に割って入った余暉は、顔見知りの変わりように思わず息を飲んだ。
 据わった目の玉と、こちらの言葉をまるで理解しようとしない凶暴性。普段は他の妖たちと比べても理知的で穏やかな彼らが、こんなにも豹変するとは。
 どの個体も出血が酷い。怪我を見なくとも、地面に散ったおびただしい血痕がその事実を何よりも明白に証明している。
 今すぐ治療しなければ、命を落とす可能性もざらにあるだろう。それくらいの大怪我だ。

「人間の血ってなァ、そんなに毒性が強いもんか」

 ぐ、と眉をひそめ、余暉はもう一方──蜃気楼のように揺れる影の方を一瞥した。

「いやはや、お前らが出てくるにはまだ少し早いはずなんだがね。時間もまともに守れない奴ァ嫌われるぞ」

 常よりも一段低い声。はっきりとした警戒を滲ませた言葉が、ぐわんと小路に反響する。
 ず、ずぞ。ずぞぞ。
 嫌な音を立ててじりじりと移動する影と、濃い殺気をまとわせた唸り声を上げる獣人たち。
 ──さて。どちらから片付けるか。
 手短に終わらせるに越した事はない。暫しの間逡巡し、ふっと攻撃態勢を解いてから、

「悪ィな。少し眠っててくれ」
「ガッ……!」

 余暉は四人いた獣人たちの首に、計四発、手刀を叩き込んだ。
 立て続けに膝から崩れ落ちた獣人たちを一瞥してから、余暉は今一度、四つの影と立ち合う。これで集中力を切らす心配は無くなった。

「……」

 余暉のまとう空気が、一気に重くなる。相手を突き刺さんばかりの鋭い眼光が、危険な色を灯す。

「千山鳥飛ぶこと絶え、万径に人蹤滅す──ってな」

 疾駆。
 一陣の風が、影の真横を通り過ぎた。
 常に流動する形で在るが故に、唯一変わらない箇所が影の弱点。急所はまともな妖と大して変わりがない。
 目算、首の位置に苦無を滑り込ませ、形作る闇を抉るようにぎゅるりと回して引き抜く。砂を撒くような音と共に、影は塵に散る。──一筋目。
 先手必勝だ。逃げられるよりも先に手を打つ。霞のように消え去った一筋目から大きく踏み込み、その背後にいた影の心臓部を穿つ。──二筋目。
 この間、瞬き一度。影もようやく、こちらを敵と認識したようだ。
 死角から迫り来る凶手。変幻自在のそれは、鍛え上げられた刀のような鋭さを伴って彼の背を貫かんと振るわれる。しかしそれも予想済みだ。振り返らぬまま上半身を捻り斬撃を避け、低い体勢から渾身の蹴りを放った。
 影とはいえ、実体はある存在である。打撃はそのまま物理的な衝撃に直結する。ドオッ、と土煙を上げて壁まで吹き飛んだ標的を追い詰め、そのまま首を掻き切る。──三筋目。
 息をつく間もない。この煙が晴れるのを待っているようでは回り込まれる。直感を頼りに空を切り、手元の苦無を投擲。

「……!」

 空白。
 煙が晴れた視線の先に影はいなかった。乾いた音を立てて転がった苦無が、変わらぬ事実を明確に物語る。

「おっと、ヘマったか」

 声だけはいつも通りに、しかし表情は無のままに。ぽつり、呟きをもらす。
 気配は、己のすぐ後ろから。
 振り向きざまの勢いを乗せた右拳。露骨な手応えが指から骨、骨から腕の筋肉へと克明に伝わる。新たな苦無を取り出すまでもなく、余暉は渾身の一撃を、己の背後に潜んでいた影の頭部に叩き込んだ。

〔繧「窶昴い繧「繧「繧「繧「繧「繧「繝?シ?シ?シ〕
「耳障りだ、消えろ」

 蠅を潰すかのような、軽く、それでいて酷い苛立ちを含んだ声音。
 ぐしゃり。生々しい感触が肌身に這う。瓦斯の抜けるような音と共に、影は風に流れて。──四筋目。これで幕引きだ。

「ん、ちとやりすぎたか」

 突然の影の出現に、まともな武具の備えが出来ていなかった。手甲をつけていなかった手には、若干の痺れが残る。少し力を込めすぎた。生肉を潰したような独特の感覚が、神経にしつこく纏わりついて離れない。

「気色悪……」

 うぇ、とえずきながら、血を払うように右手を振る。
 肩の力を抜き、息を吐き。余暉はすぐさま、倒れている四人の元へ向かった。
 傷の確認。彼らを手刀で昏倒させてからまだ三分も経っていないが、出血はどうやら止まっているようだった。

「うわ……。すげェ生命力……」

 とはいえ、傷そのものを塞ぐのはいくら獣人でも無理があるだろう。余暉は唸った。

「さっさと治療所に運んでやりたいとこ、だ、けど──」

 がたいの良い大男四人を一度に運ぶのは、余暉一人では到底不可能だ。だから応援を頼んだのに。
 少し遅すぎやしないかねェ、と頭を振り──そしてすぐに、夕陽に照らされて地に映った影を見つけた。

「余暉!」

 バサリ、ばさりと羽音が響く。声の主は、余暉の頭上からゆったりと地に舞い降りた。

「成る程。〝影法師〟はもう片付けた後か」
「戦闘自体は俺一人で十分だったよ。お前の手を借りるまでもなかったぜ、透夜」
「夕暮れとはいえ、この時間帯に奴らが現れるのは極めて珍しいな。嫌な感じだ」

 艶やかな黒翼が、さらさらと流れて消える。背中の翼さえ消してしまえば、ごく普通の人間と大差ない容姿。烏天狗だ。

「ていうかおい、お前来るの遅すぎなんだけど? 今まで何してた?」

 透夜、と呼ばれた男は、精悍な顔つきをわずかに歪め、申し訳なさそうに余暉を見やった。

「すまない、もしもの時を考えて部下を集めていたら時間がかかった」
「……は!?」

 聞き間違いか。思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
 雪音には、「部下を連れてこられるのは面倒だから、呼ぶのは透夜一人で良い」と確かに言伝したはずだ。なのに何故。
 抗議しようと身を乗り出すが、それよりも先に透夜に手で制された。

「落ち着け。雪音から話は聞いている。あの子供を他の妖たちの目に晒したくないのは分かるが、怪我人たちを運ぶのは、俺とお前だけでは足りないだろう。部下たちは表通りで待機させているから、その間にお前と雪音であの子を連れて行け。怪我人の回収はその後に行う」
「あー……」

 まったくもって、「ド」がつく正論である。

「分かった。彼奴らのこと、頼むぞ」
「無論だ」

 ほう、と小さく息をつき、余暉はあの少女を置いてきた屋上へと視線を投げた。
 ──随分と怯えていた。初っ端にかち合ったのが獣顔の妖とあれば、あの反応も致し方ないだろう。
 傷から流れていた紅の、むせ返るような甘ったるい匂いが頭から離れない。少女が己のすぐ隣にいた手前、表面にはおくびにも出さなかったものの、

(くそ……)

 強すぎる芳香は、余暉の内でそのまま強い吐き気へと直結していた。

「……」

 強い風に煽られ、白い着物が見え隠れする。どうやら向こうは雪音が対応しているらしい。

「あ゛ー……。弱るな、やっぱ。人間の血だけはマジで無理」
「止血はしたんだろう? ……いや、とはいえまだ微かな香りは残っているか。何度か嗅いだことはあるが――あれはまったくもって良くない代物だ。我を忘れそうになる」
「でも、お前らにとっては良い匂いなんだろ?」
「……否定はしない」
「鼻の感覚おかしいよな絶対……」

 ──空に広がっていた群青は、いつの間にか濃紫と臙脂を帯びた色へと変わっていた。日暮れは、もうすぐそこまで迫ってきている。
 冬は昼が短い。その分夜が長くなるのは当然のこと。
 冬の夜長は危険だ。現れる〝影法師〟の数が、夏よりも圧倒的に増える。

(今夜辺り、……何か来るか)

 落ちくる人の子。陽光の下に姿を現した影法師。普段では有り得ないはずのことが、今、立て続けに起きている。
 余暉は、今日一番の深い深いため息をついた。
本当に、心の底から面倒事の予感しかしない。
夜の匂いを明白に宿した風が、洛陽の街を吹き荒ぶ。
 また今日は、随分と――。

「忙しくなりそうだな……」

 誰に聞かせるでもなく呟いた一言の響きが、混凝土に吸い込まれるように消えていった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?