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知った気にならず自分の五感で感じること

休日、ダミヤン・ハースト展に行ってきた。

インスタストーリーの広告で何度も見かけ気になっていた。「国立新美術館」とインスタで検索してみると、作品がわんさかアップされている。ここで一気に私の足取りは重くなった。私自身、SNSがきっかけでこの展示を知ることができたのだけど、写真をとって良い、という状況に妙な抵抗がある。アートや美術を語れるような知識なんてこれっぽっちもないけど、その場所実際に行ってみて、感じとることに意味があると思っている節がある。映えるスポットみたいになってて、落ち着いて見れないんじゃないかな、なんて考えるとなんだか気が進まない。

朝一で美容院に行ってご機嫌になった休日、フットワークが軽くなって、公式サイトを見てみる。うん、やっぱり気にはなる。その日はあいにくの雨で肌寒く、満開の桜も散りかけていた。

「よし、今日は部屋の中でお花見だ」 

行くことにした。

展示の空間に入った途端、幾重にも塗り重ねられた色鮮やかな桜にふっと感受性のどこかが緩んで、目がうるうるとした。あれは不思議な感覚だった。その後、胸がいっぱいになって温かい気持ちになった。一歩ずつ絵に近づいていく。

近くから、遠くから。座って見たり、立って見たり。絵と距離をとりながら、ゆっくりゆっくりみる。

遠くから見ると、まるで桜の木の下に立って、上を見上げているような気持ちになる。晴れ渡った空に悠々と枝を伸ばしている。似ているようでどの桜も使われている色の配色や組み合わせが違って、印象が全然違う。

展示室は、ぐるっと一周できるようになっていて、飽きずに何度も何度も行ったり来たりした。

習慣というのは無意識にまで働きかけるもので、気づけば私もiPhoneを手に取っていた。撮った写真や見てみる。画面の中の桜はなんだか閉じ込められて、窮屈そうだった。

自分の目で見る実物の絵は映画の世界のワンシーンを見ているくらい、絵そのものが醸し出す雰囲気を感じられるのに、iPhoneの画面を通して絵は同じ絵なのに無味乾燥で無機質な印象だ。心に訴えかけてくる情報量が天と地の差。

なんでだろう?と2,3日考えた果てに、やはり自分の身体をその空間に置いて、自分の目で見ることに意味があるのだということに気がついた。

筆の跡、油絵ならではの凹凸、とてもじゃないけどピンクの一言では言い表せない色彩のグラデーション、数メートル四方の巨大なサイズ。こうした要素ひとつひとつを感受性が感じとって心を揺さぶるのだろう。

四角い画面に気になるはキーワードを打てば、対象物にまつわる情報は一瞬で得ることができる。それだけで全て知った気になりやすいが、そんなことは全く持って無い。

繊細な心を持つ人間にしか感じられないことってある。

こうした瞬間を私は気付かぬうちに失っていないだろうか。


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