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【書評】ハン・ガン(著)、斎藤真理子(訳)『ギリシャ語の時間』(晶文社、2017)

書評者: 相田 容 (都内予備校講師)

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 ハン・ガン(韓江)が2011年に韓国語で発表した本作の原題は”희랍어 시간”であり、邦題と同じ意味である。作者は2016年に『菜食主義者』でブッカー賞に輝いた世界的に著名な作家だと後に知ったが、図書館でこの本を見かけた私は何も知らず、純粋にタイトルへの興味だけでこの本を手に取った。

 読み始めてみるとタイトルは素直であり、市民講座でギリシャ語を教える男性と生徒の一人である女性の二人が物語の語り手だった。ではなぜギリシャ語が選ばれたのか。女性は「もっとなじみのない文字を用いるビルマ語やサンスクリット語の講座があったら、ためらうことなくそのクラスに入った」と言っており積極的にギリシャ語を選んだわけではない。後に述べる理由により彼女は何でも良いから韓国語から遠い言語の講座を受ける必要があった。

 しかし、作者は決して単に韓国語からの距離だけでギリシャ語を選んだわけではなかった。講座の言語をギリシャ語にすることによって作者が与えた味わいを知れば本書の魅力は倍増する。

 ここでの「ギリシャ語」は古典ギリシャ語であり、現代のギリシャ語とは大きく異なる。話しことばとしては死語であり、ホメロスやプラトンの著作を読むため、すなわち「教養」として学ぶ言語ということになる。講義内容や例文も自然と現代語とは異なり、実際に市民講座に出席しているのは哲学科の大学生や医学史を研究する大学院生といった面々だ。本作は短い断章の積み重ねによって紡がれているが、現代日本にも通じる何となく生き辛そうな現代韓国の雰囲気が随所に描かれているなか、「ギリシャ語の時間」が知的なオアシスとして浮かびあがっている。

 ここまではある程度予想のつく理由だと思う。しかし、今回紹介したい一番の理由は「言語そのもの」としての「ギリシャ語」にある。

「ギリシャ語」は西洋では文字通り古典語として現在も学ばれているが、英語の慣用句にIt’s Greek to meーーちんぷんかんぷんだーーというものがある。同じ印欧語族の英語話者をしてそこまで言わせるこの言語の特徴が圧倒的に緻密な語形変化である。語形変化を殆ど喪失し、所謂「五文型」などの語順で単語の役割を確定させる英語とは大きな差異があり、唯一学ぶ印欧語族の言語が英語という人も多いだろう日本(或いは韓国)において、かの語族の本質が語形変化による文中での役割明示だという意識は薄いかもしれない。要は「語形変化だけで全てが表現できる」としても過言ではないのが「ギリシャ語」なのだ。

ーーなどと語学講師などとても務まらない素人の私が言ってもわかりにくい。代わりに講師の男性に登場願いたい。語形変化とはどういうものなのか。序盤、講師の男性はある単語を示して説明する。

古典ギリシャ語には受動態でも能動態でもない第三の態があるということは前の時間にお話しましたね?(p.19)
私たちが中動態と呼んでいるこの態は、主語に再帰的に影響を及ぼす行為を表します。(p.20)

ここで更に聞き慣れない単語「中動態」がでてくる。

英語に kill himself という表現がありますね?ギリシャ語ではhimselfを使わず、この中動態を用い、単語一つでそれを表せるのです、このように、と言いながら男は黒板に書く。
 διεφθάρται. (p.21)
三人称単数の人物を主体とし、いつか一度起きたことを表す完了時制を用い、中動態によって変化したこの一つの単語に、「彼はあるとき自分を殺そうとしたことがある」という意味が圧縮されている。(p.22)

 この「中動態」なのであるが、印欧語族でも明確に残っているものがほとんどない。「自分自身に対する働き」まで一単語の語形変化で事足りてしまう。
 語形変化でほぼ全てが表現でき、他の単語の助けを必要としない「ギリシャ語」の単語の姿は自足しておりとても強い。作中でも「美しい」「厳しい」「高潔だ」がギリシャ語では同じ単語で表現されることが触れられており、彫刻のような美の概念が強調されている。日本語の文字列の中で(恐らく原文のハングルの中でも)この上なく意味の詰まったギリシャ語の単語は一際堅固に映る。
 しかし、現在話されている印欧語の多くは、程度の差はあるものの一単語でこれだけの意味を表すことは不可能になっている。先に英語の例を挙げたが、時代とともに語形変化を喪失した単語は最早自足できず、前置詞など他の単語の助けを借りながら適切な語順で配置されてやっと意味を確定させる。
 この経過については講師も触れている。

頂点に至った言語はまさにその瞬間から、緩慢な放物線を描いてゆっくりと、さらに使いやすい形態へと変化していきます。ある意味では衰退であり堕落でありますが、ある意味では進展と見ることもできるでしょう。(p.31)

 長い説明になってしまったが、この言語観を踏まえた上で登場人物に目を向けると、様々なことが見えてくる。徐々に明らかにされていく内容のネタバレになってしまうが、メインの2人に特に注目したい。

 生徒には気づかれていないものの、講師の男は実は視力がかなり低下している。眼鏡がなければ殆ど何も判別できない状態であり、失明も時間の問題だ。一方生徒の女性は親権を奪われる形で離婚しており、「それほど単純ではない」理由ではあるのだが、10代に経験した失語症を再発してしまっている。講座を申し込んだ目的も、韓国語から遠い言語を学んで言葉を取り戻す助けとするためだった。物語の多くの断章で講師は人生を振り返り、愛し合い傷つけ合った様々な人へ言葉を投げかけ続けているが、その言葉の多くは絶望的なまでに相手に届いていない。

 一方女性は単調な一人暮らしを送りながら、折に触れて親権を喪った娘との記憶を反芻している姿が描かれている。そして失語症が治る気配は見えないままだ。

 このように二人とも深い孤独、しかもコミュニケーションの自由を何らかの形で剥奪されていく孤独の中で生かされている。そんな彼らの断章の紡ぎ方は言わば「中動」的なものにならざるを得ず、終盤までこの語りは凝固を続けていく。この作品の核心にある孤独、孤立をこれ以上なく強調できた言語として「ギリシャ語」を捉えることができる。もちろん孤独は孤高であれば美しいものであり、講師も女性も厳しい(ギリシャ語的な)美しさで語り続ける。だが、ひとりの人間は単語のように自足できるほど強くはない。終盤、あるきっかけで二人は中動から踏み出すことになるのだが、ここから先は実際に読んで確認してほしい。

 それまでギリシャ語の単語のように孤立していた二人が互いに手を取り関係性の中で存在するようになっていく姿は、古典語が現代語になっていく流れに重ねられる。

 作者はこの小説を「生きていくということに対する、私の最も明るい答え。」と表現したそうだ。孤立して自足できるほど強くない人間がどう生きていくのかについて考えるきっかけの時間となった。




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