歴史は、深読みすればするほど面白い!

ヒトラーがアメリカに宣戦布告をしたのは、アメリカと戦争をするためではなかった!?
 真珠湾攻撃をしなければ、日本は世界の3分の1を支配する巨大帝国になっていた!?
 そんなこと信じられますか?
 でもこれ、本当かもしれません。

このコーナーは、あくまでも史実に基いて、しかし歴史学の定説や通説が無視もしくは見落していた史実の側面や細部を総合して重ね合わせることにより、『歴史の謎』の解明や、『歴史のif』の考察を試みたものです。

パートⅠは、第2次世界大戦を引き起こしたナチス・ドイツの独裁者アドルフ・ヒトラーの政策決定における最大の謎と位置付けられる、『アメリカに対する宣戦布告』 の真の目的を解明します。
(当然のことながら、「ヒトラーは世界征服を企んでいた」といったアメリカ流のバカバカしい俗説は論外です)

パートⅡは、日本帝国に太平洋戦争開戦を決意させる最大の原因となったがゆえに、『ルーズベルトの罠』 ともされる、アメリカ政府による石油全面禁輸措置、いわゆる「ABCD包囲網」に対し、日本帝国が暴発的全面戦争に踏み切ることなく、アジア・太平洋地域の覇権を確保できる驚くべき対抗策が存在していた可能性について考察します。

歴史の謎の意外な真相と、もしかしたら現実になっていたかもしれない恐るべき『if』をお楽しみ下さい。

 目次

 パートⅠ

 ヒトラーはなぜアメリカに宣戦布告したのか?―――1941年12月における、モスクワ攻防戦と真珠湾攻撃と対米宣戦布告の相関性についての考察

 パートⅡ

 ルーズベルト・トラップの破り方―――太平洋戦争回避の試案と、それがもたらすバタフライ・エフェクトの考察

 〇 本文中に【☆ 】で記したものは本文の補足、【 】で記したものは、この時代の動きをより理解できるキーワードです。キーワードについてご興味のある方は、ヴィキペディアなどをご参照下さい。

      ◆◆◆◆◆◆◆

パートⅠ

 『ヒトラーは、なぜアメリカに宣戦布告したのか?―――1941年12月における、モスクワ攻防戦と真珠湾攻撃と対米宣戦布告の相関性についての考察』

 この宣戦布告が、1941年に彼が自らの墓穴を掘ったいくつかの失敗のうちの最大のものであり、そしてそれが誰の目にも明白であるだけに、いまだに最も説明のつかないものである。(中略)まだ敗れていないイギリスとロシアという敵に加えて当時でも最強の国がやってきたら、敗北が不可避になることはヒトラーにもわからなかったはずがないからである。(中略)
 ヒトラーのこの気違いじみた行動には、合理的に納得のいくどんな説明も、今日までなされていない。
セバスチャン・ハフナー著「ヒトラーとは何か」(草思社刊)140~141ページより原文のまま引用
【セバスチャン・ハフナー】

  太平洋戦争の幕開けを告げた日本帝国海軍航空隊による真珠湾攻撃の3日後、1941年12月11日に、大ドイツ帝国総統アドルフ・ヒトラーは、当時国会を開催していたベルリンのクロール・オペラハウスにおいて、アメリカ合衆国に対する宣戦布告を行いました。

この対米宣戦は、すでにヨーロッパで勃発していた第2次世界大戦の帰趨(きすう)に決定的な影響を及ぼす重大事であるにもかかわらず、ドイツ政府・軍部の誰に諮(はか)られることもなく行われた、ヒトラー唯一人の独断決定であったとされています。
【☆ 一般にナチス体制は『第3帝国』と称されるが、正確には1939年7月以後は『大ドイツ帝国』が正式な呼称となっている】
【☆ 国会議事堂は1933年2月27日の放火事件で焼失し再建中であったため、オペラ劇場が代用されていた】

 ただしこの時期、ナチス・ドイツとアメリカの間には、当時すでにドイツと正式な戦争状態にあったイギリスへの武器・物資援助をめぐる軋轢(あつれき)と、その海上輸送路におけるドイツ潜水艦Uボートとアメリカ駆逐艦との小規模な交戦はあったものの、特にこの時点でドイツから全面戦争に踏み切らなければならない決定的衝突は起きていません。  【武器貸与法】

 また、当時ドイツがイタリアと共に日本帝国と締結していた軍事同盟、いわゆる『日独伊三国同盟』は、加盟国が他国から攻撃を受けた場合の相互防衛同盟であるため、日本帝国からの開戦である日米戦争に、ドイツは参戦義務がないのです。
【☆ ルーズベルトは1941年9月、中立の立場を超えてイギリスに向かう輸送船団についてアメリカ海軍によるアイスランドまでの護送を決定。必然的にドイツ潜水艦との交戦が起きたが、全面戦争に発展するレベルのものではなかった】

 さらに、開戦してもドイツにはアメリカ本土を直接攻撃する手段がないのに対し、アメリカはイギリス本土を前進基地として自在にドイツ本土を攻撃できることになります。
従ってドイツにとってこの宣戦は、アメリカの巨大な軍事力をヨーロッパに呼び込む致命的なデメリットしかないのです。
冒頭に引用したハフナー氏の指摘通り、ヒトラーがいかに軍事専門家でなかったとしても、この程度のことを認識できないはずはありません。  
【☆ 改めて述べるまでもなく、当時の軍事技術ではドイツ(ヨーロッパ)から北米大陸を直接攻撃できる長距離爆撃機などは存在せず、またドイツ海軍は第2次世界大戦の主要交戦国の中では最も弱体であったため、ドイツ軍がアメリカ本土に侵攻する手段はない。(ヒトラー政権は第1次世界大戦の敗北によって課せられたベルサイユ条約の軍備制限条項を破棄したが、軍の再建は陸軍と空軍が優先され、海軍はビスマルク級大型戦艦2隻以外には強力な水上艦はなく、Uボートと小型戦艦(ドイツ海軍の分類では装甲艦。連合国側の通称はポケット戦艦)を用いた通商破壊作戦に特化した小規模なものに留めざるを得なかった)】
 

従ってこの突然の宣戦布告は、一般にヒトラーの政策決定における最大の謎、もしくは「常軌を逸した独裁者」が日本帝国の真珠湾攻撃に触発されて衝動的に行った非理性的決定とされ、いずれにしてもヒトラーとナチス・ドイツに滅亡をもたらした最大の失策とされます。

 当然のことながら、国民の知る権利や議会への報告義務がない独裁国家においては、政策決定の根拠や過程が公表されることはなく、時として記録さえされません。またヒトラーは政策決定上のアドバイザーや腹心も持たなかったため歴史の証人となる者も存在せず、イギリス首相ウィンストン・チャーチルのような回顧録も残していないため、その真意は政策決定がなされた前後の状況から推測するしかありません。

 ただし一般の通説は、ヒトラーやスターリンといった独裁者を悪、もしくは常軌を逸した狂信者とする固定概念ゆえに、彼らの戦争政策決定において一見非合理的に見えるものは、「古代・中世の暴君に等しい独裁者の非理性的決定、もしくは専門的軍事知識の欠如による無謀な決定」で片付けがちであり、このアメリカに対する宣戦布告はその代表例といえます。

事実、この時期を扱った歴史文献においては、宣戦の事実だけを記し、理由については触れていないか、「どういうわけかアメリカに宣戦した」といった理解不能の行動とし、明確な解明をしていないものが大半です。 

【☆ この点について国際政治学者・京都大学教授の高坂正堯(まさたか)氏は、その著書「世界史の中から考える」(新潮選書刊)の中で以下のように述べている。
『歴史上の人物を考えるとき、われわれよりも理性や計算の面で数段劣っていたとか、道徳的におかしかったとして、その失敗を説明することは、歴史に対する正しい態度ではない。
それでは歴史から教訓を学ぶことはできない。
彼らは彼らなりに必死になって考えて、かつ失敗したのであり、そのように限定してその失敗をもたらしたものは何かを理解して、歴史の真実の理解となる』(同書79ページ)】

 しかし当然のことながら、後世において無謀・非合理とされるその決定も、彼ら自身の主観的認識においては、相応の計算と必然性の上に、何らかの実利的メリットを求めてなされたものであるはずです。

 従って本作においては、この理由を解明するため、「独裁者の一見非合理的に見える政策決定も、必ずその時点における彼らなりの理性的・実利的計算と、軍事的・政治的必然性に基くものである」という前提に立って、ヒトラーがアメリカに対して宣戦布告を行った真の目的を考察します。

 なお筆者はヒトラーおよびナチスの価値観においては劣等人種に属する純粋なモンゴロイドであり、ヒトラーを賛美もしくは、その人道性を無視した差別主義思想を肯定する立場にはないこと、この考察は歴史研究者としての純然たる知的好奇心と探究心に基いて行われたものであることを、予めお断りしておきます。

また本文中において『日本帝国』の呼称を使用するのは、民主主義体制である現在の日本国と区別するためであり、それ以外の意図は存在しないことも、併せてお断りさせて頂きます。

     1   対米宣戦布告演説

 『ドイツはかの三国同盟に従い、日本と共に防衛の戦いに立つことを決意した。
 これは民族の自由と独立を米英から守る戦いである』

 上記の文は、アドルフ・ヒトラーが1941年12月11日に行ったアメリカ合衆国に対する宣戦布告演説の一節です。

 ドイツの公共放送局ZDF局が1995年(第2次世界大戦終結50年)に制作したドキュメンタリー番組「ヒトラー」の中で使用された当時のニュース映像からの引用で、当然のことながらクロール・オペラハウスの演壇に立つヒトラー本人の映像と肉声で語られています。(日本語訳はNHK放送時の翻訳字幕によります)

 この引用は演説のほんの一部分ですが、ここでアメリカへの宣戦布告の理由を、ヒトラー本人が明確に告げているように見えます。

つまり説明するまでもなく、1940年9月27日に締結したドイツ・日本帝国・イタリアによる三国同盟を順守するために、日本帝国とアメリカとの戦争(言うまでもなく太平洋戦争)に参戦する、ということです。

 しかし実際には、日独伊三国同盟は加盟国が他国から攻撃を受けた場合の相互防衛同盟であるため、加盟国の側から攻撃を仕掛けた場合には、他の加盟国に自動的な参戦義務はありません。

 日本帝国もこの理由で、ナチス・ドイツが1941年6月22日の電撃侵攻によって開戦したソビエト・ロシアとの戦争(独ソ戦・以下同)に参戦せず、同月28日にドイツ外相リッベントロップからなされた参戦要請にも応じませんでした。周知の通り、日本陸軍の中国侵略をめぐり、すでにアメリカとの戦争が見込まれていたためです。

 従ってドイツには、日米戦争に参戦しなければならない同盟規約上の義務も、日本帝国への借りも、また正式な対米開戦によって生じるドイツ自身の軍事的利益も、全く存在しなかったのです。
【☆ この点についてセバスチャン・ハフナー氏は、前掲書「ヒトラーとは何か」の中で以下のように述べている。
『この宣戦布告は日本に対する無条件の忠誠からだろうか。それは真面目な論議の対象にはならない。ドイツは日本が勝手に始めた戦争に参戦する義務はなかった。(中略)ドイツのモスクワ攻勢を停止させたのは、満州における日本とロシアの軍事境界線から引き抜かれたシベリアの部隊だった。(中略)日本がドイツの対ロシア戦争を傍観していたように、冷笑を浮かべて傍観する全く正当な権利を、法的にだけでなくモラル上も持っていた。(中略)彼が感傷的な忠誠心から、ましてや日本に対する忠誠心から自分の政策に影響を及すようなことをする人間ではないことはいうまでもあるまい。』(同書142ページ)】

 それにもかかわらず、独ソ戦が長期化の様相を見せ始めた中で更に敵を増やすだけの対米宣戦が行われたことは、第三者から見れば理解し難い暴挙であると同時に、その理由は合理的な説明を見出すことができない完全な謎であり、これを独断で決行したヒトラーの真意については様々な説が出されました。

それを鳥飼行博氏の「写真・ポスターに見るナチス宣伝術」(青弓社刊)から引用させて頂きますと、
 1、アメリカは大西洋上でドイツ潜水艦を攻撃し戦争状態を作り出している。
 2、アメリカはイギリスとソ連を軍事援助しドイツを間接攻撃している。
 三国際金融とメディアを操るユダヤ人がアメリカ参戦を扇動している。
 4、日本に対ソ戦を開始させる。
 5、士気が低下したドイツ軍首脳と国民の退路を断ち切って戦争完遂の覚悟をさせる。
などが挙げられています。

また同書以外の説では、「同年8月にチャーチルとルーズベルトが明確にドイツ占領下の国々の解放を目指したものととれる『大西洋憲章』を発表したことがヒトラーに衝激を与えた」、「どのみち避けられない対米戦争のイニシアチブを、敗者が賽(さい)を投げる形で取ろうとした(やや意味不明)」などの諸説がありますが、どれも決定的な定説とはなっていません。
                       【大西洋憲章】
 その理由はどの説も一応の根拠ではあるものの、第1次世界大戦において200万人もの兵員を、膨大な戦略物資と共に悠々とヨーロッパに送り込むことができた大国アメリカを、再び戦場に呼び込むリスクを冒す根拠としては薄弱だからでしょう。またいずれの説も、なぜこの1941年12月11日に宣戦が行われたかの説明にはなりません。

 前出のドイツZDF局「ヒトラー」でも明確な解明をしていませんが、宣戦布告演説の後に「退路を自ら絶つ時、人はより容易により果敢に戦う」というヒトラー語録の引用がテロップで挿入され、前出の「国民に戦争完遂の覚悟をさせる」説を採っていることを示しています。
ZDF局はイギリスにおけるBBCと同様の公共放送であるため、これがドイツにおける有力説なのでしょう。大戦後一貫して自国の負の歴史から眼を背けることなく歴史検証を行ってきたドイツにおける見解だけに、異を唱えることには躊躇(ためら)いがあります。

 しかしこの考察の前提として、「ヒトラーの決定も理性的・実利的計算に基くもの」とするなら、この見解には違和感を持たざるを得ません。
 確かに国民に戦争完遂の覚悟を決めさせることは必要でしょうが、そのために大国アメリカを自ら参戦させるのはあまりにもリスクのみ大きく、戦争の勝利に益する現実的メリットは全くありません。

 また当時のアメリカ世論には強固な孤立主義感情があり、同年5月のギャラップ世論調査では、アメリカ国民の実に79パーセントがヨーロッパ参戦に反対しており、大統領ルーズベルト自身は密かに参戦の意向を持っていたものの、アメリカ議会がそれを承認する状況にはありませんでした。
(正式の宣戦布告を行う権限は大統領ではなく議会にある)【孤立主義】
従って、前大戦のようにアメリカ側から参戦してくる可能性は当面の間ありません。

 もちろん前述の通り、日本帝国から開戦しているため三国同盟規約上の参戦義務はありませんので、ヒトラー本人の言葉に反して三国同盟の順守ゆえでもないことは明白であり、それは単なる自己正当化もしくは自国民向けのレトリックでしかないように見えます。

 従って改めてここで留意するべきことは、ヒトラーに限らず、それが民主主義国のルーズベルトやチャーチルであっても、戦時における国家指導者の公式発言は全てが真意なきプロパガンダであり、自国民に対しては戦意高揚や敵愾心(てきがいしん)を煽るなどの世論形成や世論操作、敵対国に対しては威圧、挑発、あるいは和平提案、降伏勧告などの外交的アプローチ、時には敵対国の誤断を誘う欺瞞(ぎまん)情報の発信でもあるということです。

 同時に、自らのその発言や演説を、敵対国の外交・情報機関が常に注視していることを意識していないことなどもあり得ません。

 従ってヒトラーによる対米宣戦布告とその国会演説も、自国民に対するプロパガンダであると同時に、ラジオ放送やニュース映画などで世界中に発信される以上、敵対国の指導者に対する何らかのアプローチをも含めて作成され、語られたものでもあるということです。

 もうひとつ留意するべきことは、宣戦布告が行われた12月11日という日付けが持つ意味です。

 この日は一般的に「真珠湾攻撃の3日後」と認識されますが、独ソ戦においては天王山というべき首都モスクワをめぐる攻防戦の最中であり、さらにこの日の6日前の12月5日、ドイツ軍は深刻な危機に陥っていました。

【☆ 独ソ開戦日から12月までの戦況概要―――1941年6月22日未明、ドイツ軍は独ソ不可侵条約を破って電撃侵攻を開始。数週間でソ連軍約160個師団を壊滅させると共に、ベラルーシの首都ミンスクなど重要都市を次々に占領、一気にソ連領内700キロにまで侵攻した。当時ソ連軍は作戦機1万2千機に達する世界最大の空軍を持っていたが、ドイツ軍の急襲によってその大半を地上で破壊され、制空権を失った。更にドイツ軍は9月中旬キエフにおいてソ連軍4個軍を壊滅させ、66万人を捕虜とする空前の勝利をあげる。
9月下旬から10月には戦闘部隊の急進に補給が追い付かず、また秋雨による進軍路の泥濘化によって遅滞を余儀なくされるが、11月中旬にはモスクワ近郊に迫っていた】

 6月22日の開戦以来破竹の進撃を続け、首都モスクワまでわずか30数キロにまで迫りながら、厳寒とソ連軍の頑強な抵抗、そして補給の困難により停止を余儀なくされていたドイツ軍に対し、シベリア駐留軍の増援を得たソ連軍が大反攻作戦を開始したのです。

 すでに5ヶ月におよぶ激戦と、マイナス40度に達する寒気の中で戦力の限界に達していたドイツ軍は、予期せぬ反攻に大打撃を受け、一転して全面崩壊の危機に陥りました。
この前後の戦況を時系列に沿って簡略に記すと、以下のようになります。

 11月中旬  
戦車1700両、航空機950機、総兵力約100万人をもってモスクワを北・西・南の3方向から包囲しつつあるドイツ軍、同市まで32キロまで迫るが、兵の防寒服、車両の不凍液などの冬期装備がないまま、気温はマイナス20度を切る。
ドイツ軍先鋒の装甲(戦車)部隊が、同市近郊のモスクワ・ボルガ運河を渡り同市への突入を図るが、ソ連兵の自殺的抵抗により阻止される。
(この時のソ連軍のモスクワ防衛戦力は、兵員約60万人、戦車約400両にまで減少していたとされる。またその兵力の多くは敗残部隊の再編と、士官候補生および後方勤務部隊の寄せ集めであった)

 11月25日前後  
更に気温が急激に低下するなかでドイツ軍の進撃は行き詰まる。
南面を担当するドイツ軍第2装甲集団司令官グデーリアン上級大将と西面を担当する第4軍司令官フォン・クルーゲ元帥が会談し、兵の疲弊(ひへい)と消耗、物資の補給不足により、それ以上の進軍を断念する。

 12月初め  
モスクワ攻略の主体である中央軍集団司令官フォン・ボック元帥、「これ以上戦略的成功を得る見込みはない」と認め、ドイツ軍の進撃は完全に停止する。

 12月5日  
ソ連軍、秘かにモスクワ後方に集結させたシベリア兵力(冬期戦の装備を十分に持ち、雪中戦闘訓練も積んだ約40万人の精鋭部隊。約1千両の戦車と同数の航空機を有しており、これによりソ連軍が航空優勢を得た)を主体として大反攻を開始。
北面のドイツ北方軍集団の戦線が突破され、その後数日間で西面のフォン・クルーゲ軍、南面のグデーリアン軍も包囲される危機に陥る。
(この時点でのドイツ軍戦車の可動数は、戦闘による消耗と厳寒による故障のため、500両以下にまで激減していた)

 12月7日前後  
東プロイセンに置かれた総統大本営のドイツ軍統帥部、この攻撃が局所的反撃ではなく、十分な予備兵力を結集した上での1大反攻作戦であることを認識する。
(当然のことながら、全ての戦況は日々のブリーフィングでヒトラーに詳細な報告が上げられている)

 12月8日  真珠湾攻撃

 同12月8日  
ヒトラー、モスクワ攻勢作戦の停止を認めるが、全部隊に撤退を禁じ、その地点での固守を厳命。しかしその後も、疲弊の極にあったドイツ軍はソ連軍の猛攻を支えきれず、モスクワ周辺全域で敗走同然の後退を余儀なくされる。
(真珠湾攻撃の第1報はドイツ時間の当日深夜にヒトラーのもとに届けられたが、日本政府からの通告ではなく、ラジオ放送の傍受だった)

 12月11日  ヒトラー、国会においてアメリカに宣戦布告。

 12月15日前後  
ソ連軍、モスクワ北方の都市クリンなど被占領地を次々に奪回。ドイツ中央軍集団、わずか十日間で最大進出地点から80キロ押し戻される。

 12月20日前後  
ヒトラー、グデーリアン上級大将ら固守命令に反対した指揮官を解任、フォン・ブラウヒッチュ陸軍総司令官も解任し自らが後任となるが、その間もドイツ軍の後退は続く。

《時系列部分は主として以下の文献に依ります。
「モスクワ攻防戦」アンドリュー・ナゴルスキ著 作品社刊
「第2次世界大戦回顧録」ウィンストン・チャーチル著 河出文庫刊
「モスクワ防衛戦」マクシム・コロミーエツ著 大日本絵画刊
「スターリン」 横手慎二著 中公新書刊

 以上の戦況を見ればわかる通り、12月5日以後、逆襲に転じたソ連軍の猛攻によってモスクワ前面のドイツ軍は全面崩壊の瀬戸際に陥っていました。その最中に真珠湾攻撃の報が入っても、三国同盟の順守などと考えている余裕など常識的にはあり得ません。

 この2つの留意点と、想定できる限りの合理性・実利性、および関係各国を含めた政治的・軍事的必然性に基き、ヒトラーが対米宣戦布告を行った真の目的を解明する考察をスタートさせて頂きます。

 まずドイツ国内へのプロパガンダという側面のみに限定すれば、「国民に戦争完遂の覚悟をさせる」とするZDF局の見解に異論はありません。

 もともと当時のドイツ国民の認識においては、この大戦は1939年9月1日のドイツによるポーランド侵攻に対し、同月3日にイギリスとフランスが宣戦布告したことによって始まったものであり、英仏に対しては祖国防衛戦争以外の何ものでもありません。

その認識の上に立てば、イギリスの戦争継続能力を支え続けるアメリカへの宣戦は、「民族の自由と独立を守る」防衛戦争の延長線上にあるものとなります。

 では国外へのメッセージあるいはアプローチとしては何が含まれると考えられるでしょうか。

 これを同盟国である日本帝国へのメッセージとして見れば、宣戦布告演説において三国同盟を引き合いに出している以上、明らかに独ソ戦への参戦を促すものととれます。
 つまりドイツが同盟規約上の義務はなくても日本帝国を支援するので、日本側もドイツを支援せよ、という意味で、前出の「日本に対ソ戦を開始させる」説にあたります。

普通に考えれば同盟国への参戦要請ならば正規の外交ルートを通せば済むことですが、前述の通り独ソ戦開始直後にリッベントロップ外相からなされたその要請を、すでに対米戦争を視野に入れていた日本政府は受諾していません。もともと日独の同盟関係は、お互いの敵国を牽制することを目的としたものであり、イギリスとアメリカのように率直で有機的なものではありませんでした。

しかし日本陸軍には、この12月時点では棚上げされていたものの、独ソ戦におけるソ連軍の敗勢に乗じてシベリアに侵攻し、北方の脅威を除去するべきであるとする、根強い対ソ攻撃論(いわゆる北進論)がありました。

当時の日本政府の対外政策には陸海軍部の意志と思惑が大きく作用しており、その軍部の動向は軍令部長などのトップではなく、中堅幹部の集団意志によって左右される、という日本帝国の歪んだ内情を、1936年の日独防共協定の交渉以来見てきたヒトラーは、自らの対米宣戦により陸軍内の親独派が上層部を対ソ戦へと動かすことを期待した、とも考えられます。

ただし日本帝国の意志決定は、軍部内各派の軋轢(あつれき)と思惑の違いから何事も時間がかかる上に、どちらに転ぶかわからないことはヒトラーも既知のことですので、ソ連軍の大反攻でよほどの動揺をしていない限り、早期参戦に大きな期待をしたとは思えません。
【☆ ヒトラーの最も近しい側近であった軍需大臣アルベルト・シュペーアの回顧録、およびヒトラーの私的な会話を記録したとされる「ヒトラーのテーブルトーク(三交社刊)」にも、ヒトラーが日本の参戦を期待していたとの記述は見当らない。また、ヒトラーの「最忠臣」であった宣伝啓蒙大臣ヨゼフ・ゲッベルスは、敗戦による自殺に至るまで詳細な日記を残しているが、大戦後の散逸による欠落が多く、対米宣戦の真意が明かされていたかは不明】

 一方、敵対国であるアメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチル、ソビエト・ロシアのスターリンに対するメッセージまたはアプローチとして見た場合はいかなる解釈ができるでしょうか。

 ルーズベルトとチャーチルにとっては単なる宣戦布告以外の何ものでもありません。
宣戦布告演説においても、「ルーズベルトは戦争をそそのかし、次に戦争の原因を捏造し、最後にキリスト教的偽善を身にまとって、着実に人類を戦争に導いていく」(前掲書)と、一方的に非難しています。
同じ民主主義国として1940年5月10日の実質的な独英開戦以来イギリスを支援していながら、自国民の強固な孤立主義感情によって参戦を妨げられていたルーズベルトにとっては、このドイツからの宣戦は望むところだったでしょう。

イギリス1国の軍事力ではドイツに勝てないチャーチルに至っては、ドイツが自らアメリカを戦争に引き込んでくれたことは、大歓迎するべきことでした。

 ヒトラーは対フランス戦に勝利した直後の1940年7月19日の国会演説において、イギリスに対して共存を前提とした和平提案を行いましたが、イギリスはこれを拒絶しています。
従って、今更この両者に隠れたメッセージを送る意味も必然性もありません。

 では残るもうひとりの敵対者、この時点で首都モスクワ前面においてドイツ軍と死闘を演じているソビエト・ロシアの独裁者ヨシフ・スターリンに対しては、どんな意図を秘めたものであったと考えられるでしょうか。
               【ヨシフ・スターリン】

 改めて述べるまでもなく、当時のソビエト連邦はスターリンが恐怖政治を敷く極端な独裁国家であると同時に徹底した秘密主義国家であり、ヒトラー同様スターリンも政策決定上のアドバイザーや本心を明かせる腹心を持たなかったため、彼がヒトラーの対米宣戦をどう受け取ったかの真意を示す客観的な記録はありません。
従ってその答えを出すにあたっては、一度視点を変えて、スターリンの眼にこの対米宣戦布告はどのように映るものであったかを考えてみる必要があります。

     2  スターリンへの心理戦

 現在の一般的な歴史認識において、このヒトラーの対米宣戦は、
『ナチス・ドイツがアメリカに一方的に戦争を仕掛けた』
ものとされています。
 しかし、前章の冒頭に引用したヒトラー自身による宣戦布告演説の一節を言葉通りに見るなら、
『ドイツは三国同盟に基いて、日本帝国とアメリカ合衆国との戦争に、参戦した』
ということになります。

 宣戦布告を受けたルーズベルトにとっては、どちらでも同じことです。三国同盟うんぬんは、単なるヒトラーの自己正当化のレトリックでしかありません。

 しかし、スターリンの視点から見ると、この2つの意味は完全に異なります。
『ドイツがアメリカに戦争を仕掛けた』であるなら、それはソビエト・ロシアには直接的関係のないドイツとアメリカの戦争です。しかし『ドイツが三国同盟に基いて日米戦争に参戦した』であるならば、全く逆に自国を巻き込む死活的問題が生じます。

相互防衛同盟において、一方が他方の戦争に参戦したのに、一方が参戦しないということはあり得ません。
また、1939年8月にヒトラーとスターリンが締結した独ソ不可侵条約にポーランド分割を約した秘密議定書があったことを見てもわかる通り、当時の外交において秘密協定は常識でした。

 従ってこの見地に立ってヒトラーの対米宣戦布告演説を見れば、
『ドイツが三国同盟に基いて日米戦争に参戦した以上、同盟規約上の参戦義務はなくても、日本帝国もまた同盟に基いて独ソ戦に参戦することが、両国の秘密協定によって、すでに決定されている』
ことを意味していることになります。

 またギブ・アンド・テイクを鉄則とする国際政治上の現実論から見ても、自分自身が国家エゴの塊りであるスターリンは、ヒトラーが何の交換条件もなくボランティアで日本帝国を支援するとは絶対に考えないでしょう。
【☆ スターリンの国家エゴ―――チャーチルの回顧録によれば、スターリンは独ソ開戦に伴い支援を表明したイギリス・アメリカに対して、数百機の戦闘機を始めとする膨大な兵器および戦略物資を要求した。このスターリンの「厚顔さ」についてチャーチルは、「スターリンは自分の国で自分たちの生命のために戦うことによって、イギリスとアメリカに大きな恩恵を与えていると考えているようだった」と述べている】

 そしてドイツの日米戦争参戦と等価の交換条件が存在するなら、それは日本帝国の独ソ戦参戦しかあり得ません。
 つまりスターリンにとって、前章の冒頭に引用した三国同盟の発動を示す一節を含むヒトラーの対米宣戦布告演説は、日本帝国からのソビエト・ロシアに対する宣戦布告と、完全に同じ意味を持っていたことになります。
 

ただし周知の通り、この時期の日本帝国に独ソ戦参戦の確定的意志はありません。
 ロシア革命による共産主義ソビエト政権成立時の干渉戦争(いわゆるシベリア出兵)以来、両国は数度の軍事衝突を繰り返す恒常的敵対関係にありましたが、日中戦争による対米関係の悪化と独ソ不可侵条約の締結、およびヨーロッパにおける第2次世界大戦の勃発による国際情勢の変化にともない、1941年4月に外相松岡洋右により日ソ中立条約が締結され、表面的には両国の対立は鎮静化しました。   【独ソ不可侵条約】

 6月22日の独ソ開戦直後には、日本陸軍を中心にソ連軍の敗勢に乗じたシベリア侵攻が計画され、その準備として軍事演習を名目にした中国東北部(いわゆる満州・以下同。当時日本帝国の傀儡(かいらい)国家である満州国が作られており、日本陸軍(関東軍)が常駐していた)への85万人に達する兵力結集も行われましたが、期待されたソ連軍の崩壊がなかったため、8月9日に独ソ戦参戦は正式に断念されています。   【満州事変】【関東軍特種演習】

 このことは、当時ドイツの新聞「フランクフルター・ツァイトゥンク」紙の特派員として東京に潜入し、駐日ドイツ大使館と、時の首相近衛文麿の側近を情報源とする比類ない諜報網を構築していたドイツ人共産主義者のソ連軍スパイ、リヒャルト・ゾルゲによって9月14日に本国に打電され、直ちにスターリンに知らされていました。 【リヒャルト・ゾルゲ】

 これにより当面はソビエト・ロシアがナチス・ドイツと日本帝国による東西二正面戦争を強いられる可能性はなくなり、スターリンは本来日本帝国の侵攻に備えて極東シベリアに配備されていた兵力の半数にあたる1000両の戦車、同数の航空機を含む20個師団(約40万人)の精鋭部隊を9月末から西方に移送し、辛うじてモスクワ前面でドイツ軍を食い止めました。
前述の大反攻作戦の中核となったのは、この通称『シベリア軍団』です。

 しかし日本帝国の正確な内部情報を送り続けたゾルゲは10月18日に特高警察によって逮捕され、尾崎秀(ほつ)実(み)、マックス・クラウゼンらメンバー全員も拘束されたためゾルゲの諜報網は壊滅し、この12月時点では、スターリンはそれまでのように機密情報を得ることはできません。

ソ連軍情報部は駐ソ日本大使館の無線を傍受しその暗号解読もしていたとされますが、軍部が独断で暴走した日中戦争およびノモンハン事件の例を見てわかる通り、外務省に対外軍事行動の情報が全て集まるとは限りません。
(この可能性はゾルゲが指摘していたとされます) 【特高警察】【日中戦争】【ノモンハン事件】

 当時日本帝国内には外務省関係者を含む日本人のソ連スパイ(情報提供者=インフォーマー)が存在したとされますが、ゾルゲほどの高い信頼性と確実性をもち、かつ直接無線で指令や報告を送受信できる即応性を持った情報工作員(エージェント)はいませんでした。

このため、実際にはヒトラーの対米宣戦は日本帝国と示し合わせたものではなく、日本政府自身にとっても意外なものでしたが、スターリンがそれを信頼性の高い自らの情報源によって確認することはできなかったのです。

 日米交渉を重視していた近衛文麿の退陣、陸軍強硬派の陸相東条英機の首相就任、それに続く真珠湾攻撃と日本帝国の政策は過激化しており、ゾルゲが最後の報告を送った10月4日からこの12月11日までの間に、対ソ政策にどんな変化があっても当然の情況です。

 従って、仮にこの時点で日ソの外交関係者が接触し、日本側がヒトラーの対米宣戦は日本政府とは無関係に行われたという「真実」を告げた上で日ソ中立条約の厳守を確約しても、日本帝国が実際にシベリア侵攻を計画したことを知っているスターリンがそれを信じることはあり得ません。

また日米が開戦したといっても、太平洋における戦闘の主体は海軍であり、日本陸軍が継続中の日中戦争は泥沼状態とはいえ中国軍(蒋介石(しょうかいせき)の国民党軍・毛沢東の共産党軍)には自力で日本軍を押し戻す力はないため、満州駐留軍が動く余地は残されていることになります。

 それに対し、この時極東ソ連軍の半数はモスクワ攻防戦に引き抜かれているため、シベリアの防備は著しく薄くなっています。

 また日ソ中立条約も、不介入を保証するものではありません。
独ソ開戦直後、日本政府にその厳守を申し入れるために外務省を訪れた駐日ソ連大使スメターニンに対して、当時の外相松岡洋右は、日ソ中立条約より三国同盟が優先することを通告しています。

 この時の模様は「国際スパイ ゾルゲの真実」(NHK取材班・下斗米伸夫著 角川文庫刊)の中で、松岡洋右の秘書官としてその場に同席した外務官僚・加瀬俊一氏の大戦後の証言として以下のように語られています。
 「――そうすると松岡さんは、日本はソ連との間に中立条約を作った。しかし、三国同盟というものもあるんだと。(中略)この2つが衝突しなければよい。衝突した場合には三国同盟が優先するんだよと言ったんですよ。その時のスメターニンの顔といったら、ほんとうに体を震わせてね、ガタガタ体を震わせて帰っていきました」 (同書176ページ)

 このエピソードは、巨大国家ソビエト連邦といえども、ナチス・ドイツと日本帝国という二大軍事国家との東西二正面戦争は怖れるべきことであったことを示しています。

また、三国同盟が発動されれば日ソ中立条約は自動的に死文化するともとれる松岡の回答は、当然即刻スターリンへと報告されたでしょう。

 従って、ドイツが三国同盟に基く対米宣戦を行った以上、スターリンにとって日ソ中立条約は、実質的に破棄されたも同然ということになります。

それはすなわち、独ソ開戦直後から怖れていた東西二正面戦争の予告であり、ようやくドイツ軍への反攻を始めた中で背中を刺されるに等しい、日本陸軍によるシベリア侵攻の予告に他なりません。

 以上のことを総合すれば、ヒトラーの対米宣戦布告とその国会演説によって最大の衝激を受けるのは、戦争を仕掛けられた当のルーズベルトではなく、一見直接的関係のないスターリンだったことになります。

 もちろん、「非理性的な独裁者ヒトラーが、衝動的に行った対米開戦にあたり、その演説で使用した自己正当化の常套的レトリックが、深読みすれば偶然スターリンに衝激を与えると解釈できるものだった」という可能性を完全否定することはできません。

 しかし改めて述べるまでもなく、国家指導者の公式演説は、その場の思いつきで行われるものではありません。
現在においてアメリカ大統領を頂点とする国家指導者には必ず専任のスピーチライターがおり、その演説は一言一句に至るまで、国内外に与える印象と影響を考慮した上で行われますが、この時代であっても当然その基本は同じです。

 特にヒトラーは、その演説の才によって一介の元伍長(正確には伍長勤務上等兵)から大ドイツ帝国の支配者にまで昇り詰めた大衆操作の達人であり、国外に対してはミュンヘン会談や独ソ不可侵条約でヨーロッパ各国の首脳を手玉にとった欺瞞外交の達人でもあります。
    【ミュンヘン会談】【独ソ不可侵条約】
 従って、ニュース映画などで全世界に発信されるこの演説の内容は、決して場当り的、衝動的なものではなく、自国民はもちろん敵対各国の指導者がどう受け取るかを計算した上で作成されたものであるはずです。

そしてこの12月時点ではモスクワ攻防戦を戦うスターリンが最大の敵手であった以上、スターリンがどう受け取るかをヒトラーが意識しなかったはずはありません。

 であるならば、ヒトラーの対米宣戦布告とその演説において隠れたアプローチを送る相手がいるとすれば、それはルーズベルトでもチャーチルでも日本帝国でもなく、スターリンであったと考えるべきでしょう。

 そしてこの観点に立つならば、宣戦布告に隠されたヒトラーの思惑は明白です。

 それは、
『ドイツが三国同盟に基き日米戦争に参戦した以上、既に日独間で日本軍の独ソ戦参戦を確約した秘密協定が締結されている。従って近く満州駐留日本陸軍によるシベリア侵攻が開始され、ソビエト連邦は東西二正面戦争を強いられる危機の寸前にある』
と、スターリンに誤認識させることしかあり得ません。

 一方で、「主目的」であるはずの対米開戦においては、前記の通りドイツが宣戦しても、ドイツ軍にはアメリカ本土を攻撃する手段がありません。
唯一可能なのはUボートによるアメリカ艦船への攻撃ですが、これはすでに数ヶ月前から事実上の交戦状態にありました。

この年の6月から、イギリスへの支援物資を運ぶ輸送船団を護衛するアメリカ駆逐艦とUボートとの交戦が数回起こり、アメリカ駆逐艦「ルービン・ジェームズ」が撃沈されるなど、200名以上の戦死者が出ています。
一方でルーズベルトは、9月にアメリカ海軍に対し、ドイツ艦への発砲許可を出しています。
そしてヒトラーは、真珠湾攻撃の報を受けると、その日のうちにドイツ海軍にアメリカ艦艇への攻撃命令を出していたとされます。
もとよりヒトラーは、宣戦布告なき開戦を否定する価値観の持ち主ではありません。 
【☆ 1939年9月1日のポーランド侵攻を始め、デンマーク、ノルウェー、ベルギー、オランダ、ソビエト・ロシアへの侵攻にあたり、ヒトラーは一切事前の宣戦布告をしていない。
(なお1940年5月10日のフランス侵攻およびイギリス派遣軍への攻撃は、前年9月3日に英仏両国からドイツへの宣戦布告がなされているため、ドイツからの開戦ではない)

従って「ヒトラーの対米宣戦の謎」には、
1 ヒトラーは「なぜアメリカに戦争を仕掛けたのか?」という主たる疑問に加え、
2 それまで事前の通告を一切せずに武力行使を行ってきたヒトラーが、「なぜアメリカに対してのみは事前に公式の宣戦布告を行ったのか?」という付随的な疑問が存在することになる】

これらを見れば、Uボートによる通商破壊作戦のために改めて宣戦布告をする意味も必然性もメリットもありません。

確かに正式な開戦となれば、Uボートは民間船を含むアメリカ艦船を自由に攻撃できることになり、アメリカの海上通商路を脅かすことができますが、自国に資源を持たず食料・石油を含む大半の民需および戦略物資を輸入に頼るイギリスとは異なり、それらの大半を北米大陸内で自給できるアメリカに、戦争継続能力を損うまでの深刻なダメージを与えられないことは当然の常識です。

以上のことを総合すれば、ヒトラーが行った「アメリカに対する宣戦布告」は、アメリカとの正式開戦それ自体を目的としたものではなく、東西二正面戦争を怖れるスターリンに前記の誤断を強いることこそが主目的であり、宣戦布告とその国会演説は、そのための巨大な舞台装置であったと考えるべきでしょう。
 

ではなぜヒトラーは、この12月11日時点で、アメリカをヨーロッパの戦場に呼び込む巨大なリスクを冒してまで、スターリンにその誤断を強いる必要があったのか。それは前記のモスクワ攻防戦における戦局の破滅的ともいえる暗転を見れば一目瞭然です。

6月22日の電撃侵攻以来、圧倒的優勢のもとに戦局を進め、首都モスクワを目視できるところまで迫っていたドイツ軍にとって、12月5日に開始されたソ連軍の大反攻は独ソ戦における初めての大敗北でした。
同時にそれはヒトラーにとって、1939年9月のポーランド侵攻を皮切りに続けてきた武力拡張政策の破綻の始まりでした。

もともと対ソ侵攻計画「バルバロッサ作戦」は、ロシアの冬が訪れる前に勝利を納める短期決戦型の計画でした。このソ連軍による大反攻はその計画が完全に失敗し、独ソ戦の長期化が不可避となったことをヒトラーに告げていたのです。

そしてドイツには、電撃戦での短期的勝利を納める優れた攻撃力はあっても、長期的な持久戦を耐え抜く国力はありません。
ドイツが巨大な国土と2億人もの人口、そして豊富な地下資源を持つソビエト連邦に勝利するには、ソ連軍に立ち直る時間を与えずモスクワを陥とし、ソビエト体制を降伏もしくは崩壊させることが絶対条件だったのです。

つまりヒトラーにとってこのモスクワ攻防戦の敗北の危機は、単に1局地戦の一時的敗退ではなく、対ソ戦そのものの失敗であり、さらには自らが生涯の目標として掲げてきた、「広大なロシアの地にドイツ民族の生活圏を確保する」という『東方生活圏(レーベンスラウム)構想』までもが破綻の危機に晒された、まさに破滅的瞬間だったのです。

現在の私たちは、ヨーロッパで始まった戦争がこの時から全世界へと拡がり、1945年の終結まで幾多の激戦が続くことを知っているため、この1941年12月のモスクワ攻防戦を第2次世界大戦の初期段階と位置付け、主要な戦いのひとつではあっても最大の重要性を持つ決戦場とまでは考えていません。
独ソ戦の転換点もまた、翌年夏に始まるスターリングラード攻防戦とされています。

しかし、共産主義ソビエトの撲滅を含め、ロシア制覇を最大の目標としてきたヒトラーの主観的認識においては、その首都であるモスクワを攻略するこの戦いこそが武力拡張攻策の最終段階であったはずであり、それゆえに敗北も後退も絶対に許されない最終決戦場であったはずです。
【☆ 史実におけるスターリングラード攻防戦は、このモスクワ攻略が失敗に終わり、独ソ戦が長期化したために生じたものであり、この12月時点では想定されていなかった】

仮にヒトラーが「ドイツ軍に不利となった厳冬期は一時的に休息して、来春に攻撃を再開すればよい」と考えていたならば、この12月19日時点で最も優秀な野戦指揮官であるグデーリアン将軍を含め主要な軍高官を解任することなどあり得ません。

また、フランス皇帝ナポレオンが、それまでに築き上げてきたヨーロッパの覇権(はけん)を一気に失うきっかけとなった1812年のロシア遠征における敗北を、ヒトラーは強く意識していたともされます。
【☆ この点について「ヒトラーのテーブルトーク」(三交社刊)の監修者ヒュー・トレヴァー・ローパーは、以下のように述べている。
『ドイツとソ連との戦争、ヒトラーとスターリンとの戦争、イデオロギーとイデオロギーの戦争は、単なる王朝間の争いや経済戦争ではない。生きるか死ぬか、帝国建設か絶滅か、時代の運命を決する戦争なのだ。(中略)というのが彼(ヒトラー)の見方だった。』(同書24ページ)《同書はヒトラーの私的な会食時の会話を側近マルティン・ボルマンが記録したとされるもの》】

【☆ ヒトラーがナポレオンを強く意識していたことは、フランス降伏直後になされた生涯ただ一度のパリ来訪の折にナポレオン廟(びょう)を訪れていたことからも窺い知ることができる】

さらに実戦兵力面から見ても、このモスクワ攻防戦には、ソビエト・ロシアに侵攻したドイツ軍3個軍集団(総兵力約300万人)のうち北方軍集団と中央軍集団の主力約100万人が投入されており、これが壊滅するようなことがあれば、独ソ戦の敗北に直結しかねません。
(スターリングラード攻防戦におけるドイツ軍の損害が、南方軍集団の主力であった第6軍約30万人の壊滅だったことを見れば、モスクワ攻撃軍100万人が壊滅、あるいはそれに近い損害を受けた場合、独ソ戦の帰趨(きすう)はここで決していたことになる)

従ってこの時、ヒトラーの思考は、いかにこの破滅的危機を克服するか、その一事に占められていたはずです。

しかし、軍事的には打つ手がありません。
すでに戦力の限界に達していたドイツ軍には、直ちに援軍として送れるまとまった予備軍はなかったのです。ヒトラーにできたのは、退却を禁じてその場での固守を厳命することだけでした。

そして自らの固守命令にもかかわらず、ドイツ軍が凍てついた雪原を雪崩をうって後退しつつあるまさにその時、日本帝国による真珠湾攻撃の報が飛び込みます。
ヒトラーを始めドイツ軍首脳をも驚愕させたといわれるその報は、手詰まり状態にあるヒトラーの記憶に、利用可能な大兵力の存在を呼び起こしたでしょう。
その兵力とは、極東シベリアと境を接する満州において、極東ソ連軍を仮想敵とする約70万の日本帝国陸軍です。

前述の通り、独ソ戦開始直後に日本陸軍はソ連軍の敗勢に乗じたシベリア侵攻を計画し、軍事演習を名目として満州駐留軍(関東軍)を85万人にまで増強しました。
前掲書「国際スパイ ゾルゲの真実」によれば、その時駐日ドイツ大使館の駐在陸軍武官が自ら満州に赴き、「関東軍特種演習(関(かん)特(とく)演(えん))」と呼ばれたその大規模演習を直接視察した上で、ドイツ本国に詳細な報告書を送っていたとされます。(同書217ページ)
その報告書をヒトラー本人が直接眼にしていたかは不明ですが、当然相応の情報は上げられていたはずであり、ヒトラーはその計画を知っていたことになります。
また独ソ戦開始直後の6月28日、ドイツ外相リッベントロップが駐日ドイツ大使オイゲン・オットを通して外相松岡洋右に参戦要請を行い、大使館付の陸海軍武官も繰り返し日本軍部に参戦を働きかけていたことを見れば、ヒトラー(もしくはドイツ政府上層部)は、ソビエト・ロシアに東西二正面戦争を強いる構想を一応は持っていたことになります。

ただし、その時日本帝国への参戦要請をヒトラー本人が積極的に行わなかったことを見れば、ヒトラーはこの構想と日本帝国の協力をさほど重視していなかったのでしょう。
それは、「腐った建物はドアを蹴破るだけで崩れる」という豪語通り、ソビエト・ロシアに対しても対フランス戦同様に独力で短期的勝利を納める自信があったためです。 
【☆ ヒトラーは、駐独日本大使の大島浩(陸軍中将・親独派。駐独大使館付武官時に、外務省を無視して日独防共協定の締結を主導)と親しく接していたとされるため、ヒトラー本人が積極的な参戦要請をしていれば当然その旨の記録・証言が残るはずだが、そのような記述がある文献は見当たらない】【対フランス電撃戦】

これは結果論としては大きな過信ですが、当時のソ連軍は1937年から38年に行われたスターリンによる大粛清によって優秀な軍人が大量に処刑され、1939年11月のフィンランド侵攻に際しては、小国フィンランドに数倍する大兵力を投入していながら、フィンランド軍の戦死者3万人に対し、ソ連軍の戦死者8万人という大苦戦に陥り、「泥の足を持った巨人」と揶揄されるほど、その能力は低下していました。 【赤軍大粛清】

このため、世界最高レベルの情報収集・解析能力を持つイギリス情報部でさえ、ソ連軍はドイツ軍の攻撃を受ければ6週間から8週間でモスクワを失うと予想していたとされますので、独ソ開戦時点では、ヒトラーの自信も根拠のないものとは言えません。

しかし12月のモスクワ攻略の挫折によって独力での早期勝利が絶望的となり、更にはソ連軍の大反攻により予期せぬ大敗北の危機に陥ったこの時、巨大な陸軍を持つ日本帝国を動かして、ソビエト・ロシアに東西二正面戦争を強いることにより戦局の挽回を図ることを考えるのは、むしろ当然といえます。

すでに一度は臨戦態勢をとったその満州駐留日本軍がすみやかにシベリアに侵攻すれば、ソ連軍はモスクワでの反攻作戦だけに全力を注ぐことはできなくなるでしょう。
ヒトラーの立場であれば、是が非でも日本帝国の参戦が必要な局面です。

たとえ直ちに侵攻が開始されなくても、日本帝国政府が日ソ中立条約の破棄などの参戦を臭わせる外交アクションを起こすだけで、モスクワ防衛とドイツ軍への大反攻作戦のためにシベリアから精鋭部隊と多くの戦車・航空戦力を引き抜いているスターリンは、極東の防衛を望むならば、来たるべき日本軍の侵攻に備えて、早急に相応の兵力を返送せざるを得ません。
(モスクワ・シベリア間は、シベリア横断鉄道で約2週間を要する。また部隊の展開・配備を含めれば、それ以上の日数が必要となる)

しかし独ソ戦開始直後に外相リッベントロップが外交ルートで行った参戦要請は受諾されず、日本帝国が対米開戦に踏み切った以上、再度の要請をしても受諾される見込みはありません。
また、この時点での性急な参戦要請は、日本帝国にドイツ軍の苦境を知らせてしまうことにもなります。

しかし、日独伊三国同盟の存在を利用することにより、日本軍が実際には参戦しなくても、唯ひとつの国会演説によって、スターリンにシベリア侵攻が直ちに実行される怖れがあると信じ込ませることが可能となります。

前述した通り、スターリンの視点と価値観から見れば、ドイツの三国同盟に基く日米戦争への参戦表明は、外交関係の鉄則であるギブ・アンド・テイクの交換条件としての日本帝国による独ソ戦参戦を意味しています。

そして日本帝国からの宣戦布告がなくても、ドイツが真珠湾攻撃に呼応するように対米宣戦を行った以上、当然満州駐留日本陸軍は、その交換条件履行のため、即座に侵攻を開始できる態勢を整えている可能性をも意味しています。

もちろん常識的に考えれば、はるか1万キロ離れたシベリアより首都モスクワ周辺の戦局が重要であることは当然です。
しかし史実において、開戦当初ドイツ軍がモスクワへと猛進していたにもかかわらず、極東兵力の西方移送がゾルゲからの「日本帝国独ソ戦不参加」の確定情報を待ってから行われたことを見てもわかる通り、スターリンも領土に固執する独裁者であり、ヒトラーはスターリンが1939年から40年まで立て続けに行った、ポーランド分割、フィンランド侵攻、バルト三国併合、ルーマニアへのベッサラビア地方割譲要求などの領土拡張政策を見て、その領土欲の強さを知っています。
自らも領土に固執するヒトラーは、スターリンが一時的にせよシベリアを日本軍に明け渡すとは思わないでしょう。
また客観的に見ても、ロシア帝国時代から営々と入植を続けてきたシベリアは、ソビエト・ロシアにとって切り捨て可能な辺境地ではありません。
【ポーランド分割】【ソ・フィン戦争】【バルト三国併合】【ベッサラビア地方併合】

史実においては、翌年以後ソ連軍は総人口2億人の20パーセントに達する動員を行い、常時ドイツ軍の約2倍の兵力を展開しますが、この時点ではドイツの電撃侵攻により5ヶ月間で300万人以上の兵員を失い、その兵力は最も低下していました。
攻めに転じたとはいえ、ソ連軍も戦力に余裕はなかったのです。
その中でシベリアへの兵力分割を行えば、必然的にモスクワ前面の戦力は低下し、ドイツ軍への大反攻作戦の縮小、場合によっては早期停止につながる可能性があるとヒトラーが期待したとしても、何ら不自然ではありません。
それは大規模な援軍を送るのと同じ効果をもって、ドイツ軍の窮地を救う助けとなるでしょう。

つまり、軍事的にはドイツ軍の敗走を食い止める方策が全くない中で、自らのただひとつの国会演説によって、モスクワに一兵も送ることなくソ連軍の大反攻を阻害できる可能性が生じるのです。

以上のことから、ヒトラーが対米宣戦布告を行った真の目的は、その国会演説において三国同盟の発動を示唆(しさ)し、スターリンにドイツと日本帝国による東西二正面戦争の開始を誤認させることにより、シベリアへの兵力返送を促(うなが)し、この時点でモスクワ前面においてドイツ軍を崩壊の危機に陥れているソ連軍の戦力を減少させることにより、その大反攻作戦を縮小もしくは停止させるための欺瞞(ぎまん)・誘導策、言葉を変えれば、スターリン1個人に対する心理戦であったと結論付けることができます。

このように記すと、いかにも陰謀論めいた奇抜な策略、あるいは筆者の諸葛孔明を気取った想像過剰な創作のように見えるかもしれませんが全くそうではなく、基本的な考え方において、これは第1次世界大戦においてドイツ、イギリス両海軍の戦略を決定付けた海軍理論の応用にすぎません。

周知の通りヒトラーは専門の軍事教育を受けたことはありませんが、独学で得た軍事知識は豊富であり、それは時にドイツ参謀本部の将軍をも黙らせるものであったとされます。
ティモシー・ライバック著「ヒトラーの秘密図書館」(文春文庫刊)によれば、ヒトラーは少年期より読書を好み、第1次世界大戦従軍時には塹壕(ざんごう)の中でも本を手放さなかったとされ、権力掌握後は1万6千冊以上の蔵書を持ち、うち7千冊以上が軍事関連の書籍であり、その多くを読破していたとされます。(ヒトラーが並外れた読書家であったことは同書に詳しい)

またアンドリュー・ナゴルスキ著「モスクワ攻防戦――20世紀を決した史上最大の戦闘」(作品社刊)によれば、ヒトラーは自らを『第1次世界大戦で得た経験と、歴史学、経済学及び敵を出し抜くための基礎的な心理学についての幅広い理解力を併せ持つ最高軍事戦略家』として位置付けていたとされます。

もちろんヒトラーの「天才性」や「万能性」については大半がナチス政権のプロパガンダというべきものですが、この軍事知識の点においては必ずしも虚偽ではなく、大戦初期のドイツ陸軍参謀総長として終始ヒトラーに硬骨の姿勢を保ったフランツ・ハルダー上級大将、ドイツ軍最高の知将と称されたエーリヒ・フォン・マンシュタイン元帥らが、大戦後に出版された回顧録などで認めています。 【フランツ・ハルダー】【エーリヒ・フォン・マンシュタイン】

これらを見れば、「無知でヒステリックな狂人」という大戦後に作られたイメージとは異なり、ヒトラーは少くても机上の知識としては、その当時に提唱されていた大半の戦略理論を熟知していたと考えていいでしょう。

それらの中に、前述したヒトラーの言動から推測される思惑と、ほぼ完全に合致する戦略理論がありました。それが、当時の海軍戦略理論における第1人者とされるアルフレッド・セイヤー・マハンの著作「海軍戦略」の中でも論じられた『現存艦隊理論』です。
【☆ アルフレッド・T・マハン(1840~1914)―――アメリカ海軍大学学長も務めた軍人であり、海軍におけるクラウゼッツと位置付けられる戦略理論家。
その著書「海上権力史論」において制海権の重要性と海外膨張論を説き、世界各国の政治指導者および海軍関係者に大きな影響を与えた。
特に1901年にアメリカ大統領に就任したセオドア・ルーズベルトが海軍の拡充に尽力したこと、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がイギリスに対抗するためドイツ大洋艦隊の建造を行ったことなどは、マハンの著作の影響によるものとされる。
(このドイツ大洋艦隊の建造は海軍力を生命線とするイギリスとの軋轢(あつれき)を生み、第1次世界大戦勃発の原因のひとつとなった)
またヒトラーの敵手であるフランクリン・デラノ・ルーズベルト(第1次世界大戦時ウィルソン政権で海軍次官)も、マハンの信奉者であったとされる。
日本との関連では、日露戦争の勝利を決定付けた日本海海戦を指揮した連合艦隊司令長官東郷平八郎を補佐した名参謀として知られる秋山真之(さねゆき)は、アメリカ留学時このマハンに師事していた。
「海軍戦略」は、海軍大学における講義を編集したもの】

ヒトラーが生きた時代である20世紀前半の海軍理論には、大別して2つの対立する考え方がありました。ひとつは積極的攻勢を重視する艦隊決戦主義、もう一方が消極的戦略としての現存艦隊主義です。

この現存艦隊主義(=フリート・イン・ビーイング)は、艦隊保全主義もしくは牽制艦隊主義とも訳されますが、単に海戦を避け自軍の戦力を温存するというものではありません。
その大要は、「自軍艦隊の存在に対し、敵国海軍はその出撃に備えて相応の戦力を配置せざるを得ず、それによって戦略条件が制約される。従って実戦を行わずとも、この敵戦力の拘束と戦略条件の制約を強いることもまた艦隊の重要な任務となる」とする理論です。

この理論は第1次世界大戦において実際に用いられ、当時イギリスとドイツがヨーロッパ第1位と第2位の海軍力を持っていたにもかかわらず、1916年5月31日のユトランド沖海戦以外には両海軍の大規模衝突が起きなかったのは、双方が(特に劣勢であったドイツが)この理論に基き積極的攻勢を避けたためとされます。
【☆ 第1次世界大戦における現存艦隊理論の影響―――当時イギリス海軍は、主力艦として弩級(どきゅう)戦艦28隻と巡洋戦艦5隻を保有しており、弩級戦艦16隻・巡洋戦艦3隻のドイツ海軍より優勢であった。
しかし島国の植民地帝国であるイギリスは、その生命線である海上輸送路の安全確保のため不用意な戦力消耗は避けねばならず、積極攻勢には出なかった。
一方ドイツ海軍も総力を挙げての決戦となれば戦力に劣るためそれを避け、根拠地のヴィルムヘルムスファーフェン軍港から動かず現存艦隊戦略をとった。
この結果として、イギリス海軍はドイツ帝国の主要海上輸送路である北海の海上封鎖、ドイツ海軍は潜水艦Uボートによる通商破壊作戦に移行し、ユトランド沖海戦以外には大規模海戦は起こらなかった】【ユトランド沖海戦】

この「実戦には参加せずとも、敵戦力を拘束し、戦略条件に制約を加えることに重要な意義がある」(多少表現を変えるならば、「実戦に参加しない戦力でも、敵戦力を拘束し、その戦略条件を制約することに利用できる」)とする現存艦隊理論を、この時のヒトラーの思惑に置き換えるならば、ヒトラーは『同盟軍』である満州駐留日本陸軍を、ナチス・ドイツが持つ『陸上の現存艦隊』としてスターリンに意識させ、改めてその存在と動向に重大な脅威を感じさせることにより、その侵攻に備えてモスクワ反攻作戦におけるソ連軍戦力の一部をシベリアに返送せざるを得ない、もしくはその返送に備えて戦力の一部を控置せざるを得ない、との危機感を持たせることを目的としていた―――ということになります。

前述の通り、ヒトラーが豊富な軍事知識を持っていたことは確かです。
であれば、20世紀初頭においては最も高名な戦略理論家であり、当時の軍事専門家の必読書であるマハンの著作で論じられ、更には第1次世界大戦において実際にドイツ・イギリス両海軍の戦略を決定付けた戦略理論がその知識の内になかったはずはありません。

そして客観的評価はどうあれヒトラーが自らを軍事戦略家と位置付けていたのであれば、本人が意識していたか否かは別にして、その応用としてドイツからの独ソ戦参戦要請を受諾しないまま事実上遊兵となっていた満州駐留日本陸軍の大兵力を、スターリンへの牽制に利用することを発想したとしても何ら不自然はありません。

事実、独ソ開戦からゾルゲによる「日本帝国独ソ戦不参加」の確定情報を受ける9月14日まで、スターリンは日本軍のシベリア侵攻を恐れてこの地に配備していた極東ソ連軍を動かせず、対独戦に投入できなかったことを見れば、満州駐留日本陸軍は自らそれを意図せずとも、実質的にナチス・ドイツに味方する『現存艦隊』として、極東ソ連軍をシベリアに拘束しておく役割を果たしていたのです。
【☆ この現存艦隊理論について、積極攻勢主義を採るマハンは「海軍戦略」の中で、日露戦争において旅順港に籠ったロシア太平洋艦隊(いわゆる旅順艦隊)が、日本本土・朝鮮半島間の海上輸送を抑止できなかったことを例にとり、その牽制効果は過大評価されているとの見解を示しているが、一方で現存艦隊側が敵に対抗し得る戦力を持っている場合はその有効性を認めている。
従ってこれを1941年12月の極東情勢に当てはめた場合、極東ソ連軍約40万(モスクワ移送後の残存戦力)に対し、満州駐留日本陸軍は約70万であるため、日本帝国が独ソ戦に参戦するならば、スターリンは手薄になっているシベリアに危機感を持たざるを得ない。従って十分な誘引・牽制効果を期待できることになる。
なお当然のことながらヒトラーが極東ソ連軍の正確な兵力の増減を知ることはできないが、シベリアの兵力がモスクワ攻防戦に投入されたことは、その充実した冬期装備から11月中旬にはドイツ軍前線指揮官の知るところとなっており、当然ヒトラーにも報告されたはずである。従って、シベリアが手薄になっていることは認識できたことになる】

しかしこの12月時点では、日本帝国政府は対米戦争と東南アジア資源地帯占領のため日ソ中立条約(ソビエト・ロシアを東側から牽制するために日独防共協定を結んだドイツにとって、この条約は極めて不都合なものでした)を破棄する意志はなく、また8月時点で日本軍部が一旦はシベリア侵攻を断念していたことから、その拘束・牽制効果は失われていました。

従って再度スターリンに満州駐留日本陸軍をナチス・ドイツの『現存艦隊』――すなわち未だ盤上に出されていないが、即座に出撃可能な強力な持ち駒として危険視させ、更には成功しつつあるモスクワ反攻作戦を停止もしくは縮小させるまでの重大かつ切迫した危機感を持たせるには、日本帝国が秘密裡にこの12月時点で改めてナチス・ドイツとの連携を強化しており、直ちに日ソ中立条約を破ってシベリア侵攻を開始してくるという確信を持たせることが絶対条件として必要でした。

そのためには、国際関係の常識として必然的に日本帝国の独ソ戦参戦が交換条件となる「三国同盟の発動に基く日米戦争への正式な参戦表明」を、全世界に発信される国会演説において行う、という大掛りな舞台装置が必要だったのです。

ただしこの結論には、当然以下の反論が出るでしょう。
仮にそれがヒトラーの目論見だったとしても、アメリカを戦争に引き込むことは、あまりにも短絡的・近視眼的であり、完全に引き合わない法外なリスクである。
それによってモスクワ攻防戦の危機を乗り切ったとしても、アメリカの巨大な戦力が参戦すれば、いずれは確実に敗北することになる。事実そうなったではないか――と。確かに結果論としてはその通りです。

現在の私たちは、史実においてナチス・ドイツが当時世界最大の経済・工業・資源・農業大国であったアメリカの生み出す膨大な物量に押し潰されたことを知っているため、理由はどうあれヒトラーがアメリカを戦争に引き込んだことは、自殺行為に等しい無謀で愚劣な失策としか思えません。
しかし、この1941年時点におけるアメリカ国内の政治情勢および戦争準備状況を加味して、それをリアルタイムで注視していたヒトラーの主観的認識を推測すると、やや異なった答えが出ます。

この1941年12月時点では、アメリカの軍備は万全には程遠いものでした。

真珠湾攻撃を受ける直前までのアメリカ世論には、強固な孤立主義感情に基く圧倒的な参戦拒否があり、同年5月のギャラップ世論調査では、アメリカ国民の実に79パーセントがヨーロッパ参戦に反対しています。

この調査時点では、ナチス・ドイツがフランス、オランダなど西ヨーロッパとノルウェーなど北欧諸国の大半を支配下に納めており、残る民主主義国家は中立国のスイス、スウェーデン、アイルランドを除けばイギリス1国のみという状態でした。
にもかかわらずアメリカ国民のほぼ8割が参戦に反対していたことは、いかに孤立主義感情が強かったかを示しています。

ルーズベルト自身は早くから参戦の意向を持っていたとされますが、前年の大統領選挙で「アメリカの若者を他国の戦場に送らない」という公約で当選しているため、自国の安全保障を口実とした軍備の強化はできても、公式に参戦を前提とした戦争準備はできていません。
また、国民の孤立主義感情は当然アメリカ議会にも反映されており、同年8月に採決された、陸軍の拡充に絶対的に必要な選抜徴兵法の更新でさえ、与党民主党が多数を占めていたにもかかわらず、僅か1票差での可決という厳しいものでした。
【☆ 選抜徴兵法―――アメリカの徴兵システムは国民皆兵ではなく、必要とされる兵員数を徴兵年齢対象者の中から公平を期すため無作為の抽選によって徴集する方式がとられた】

実際に史実においてアメリカが十分な戦備を整え、ナチス・ドイツとの本格的な交戦に入るのは、すでに事実上行われていた大西洋上の小規模な対Uボート戦を除けば、最も早い北アフリカ戦線でさえ、ヒトラーの宣戦布告から十1ヶ月後の1942年11月であり、イギリス本土に派遣されたアメリカ第8航空軍がドイツ本土への戦略爆撃を本格化させるのが1年4ヶ月後の1943年3月、北アフリカでロンメルを破ったアメリカ・イギリス連合軍が地中海を渡って枢軸同盟国イタリアのシチリア島に上陸するのが1年8ヶ月後の同年7月です。

つまり、アメリカ参戦の実戦兵力面でのデメリットが現れるまでに、約1年間のタイムラグがあったのです。        【北アフリカ戦線】

言うまでもなくこれは結果論ではなく、兵員の動員と訓練・部隊編成・兵器生産・作戦立案などを総合した戦争準備には相応の時間を要するのは軍事上の常識であり、特にアメリカの場合、軍事予算や法案も大半が議会で公表されるため、ヒトラーにも当然ある程度の想定ができていたはずです。

また、「世界の警察官」として巨大な常備軍を持つ現在のアメリカとは異なり、この当時までのアメリカ陸軍は伝統的孤立主義のもとで小規模なものに留められており、大規模な海外派兵の即応能力は全くありませんでした。

ちなみに第1次世界大戦においてアメリカは、1917年1月31日のドイツ帝国による無制限潜水艦戦宣言および2月24日にイギリスから知らされたドイツ外相ツィンマーマンによるメキシコ政府への対米同盟提案(いわゆるツィンマーマン電報)に対し、2月2日に対独断交、4月6日に対独宣戦をもって参戦に踏み切りましたが、陸軍の海外派兵準備が全くなかったため、アメリカ軍が完全な戦闘態勢を整えてヨーロッパの戦闘に参加したのは翌1918年5月でした。
つまり戦争準備に13ヶ月を必要としたことになります。
当然これもヒトラーの認識の内にあったでしょう。もちろん、太平洋戦争が開始された以上、そちらにアメリカの戦争資源が割かれることも期待したでしょう。【無制限潜水艦戦】【ツィンマーマン電報】

それらによって生じるタイムラグの間にドイツ軍の態勢を立て直し、再度の大攻勢によってソビエト・ロシアを崩壊もしくは屈伏させることができれば、その後でドイツ軍主力を西方に戻し、アメリカ軍の上陸を阻止できることになります。

史実における連合軍のヨーロッパ侵攻――1944年6月6日(ヒトラーの宣戦布告から2年6ヶ月後)に決行されたノルマンディー上陸作戦の成功は、巨大な物量を持つアメリカの力のみによるものではなく、ソ連軍がその膨大な兵力をもってドイツ全軍の3分の2をドイツの東側に拘束していたからこそ可能であった事実を見れば、これは非理性的な計算とはいえません。

この上陸作戦時にノルマンディーを含むフランス方面に配備されていたのはドイツ全地上兵力の約25パーセントに過ぎず、消耗しきっていた空軍の可動機は200機以下でしかなかったのです。
(ちなみに、ノルマンディー上陸作戦当日に連合軍上陸部隊を攻撃するために出撃できたドイツ空軍機は、わずかにフォッケウルフ戦闘機2機のみだった。また陸軍部隊の多くは、東部戦線で消耗した部隊の再編や、ウクライナなどの占領地で徴募されたスラブ系兵士などの二線級部隊だった)

従って仮に対米宣戦から1年以内に独ソ戦に勝利を納め、ドイツ軍の大半がヨーロッパ西方に配備されて十分な防備を固めていた場合、アメリカ軍が参戦しても上陸作戦は成功の見込みはなく、実施できません。

そしてこの時点でヨーロッパの大半がドイツの支配下にあり、ファシスト政権のスペインがドイツへの好意的中立である以上、英仏海峡を挟んでの睨み合いになるだけです。
また北アフリカとイタリアにも相応の戦力を回せるため、この方面が崩れることもありません。従ってヨーロッパ本土におけるドイツの覇権を維持できる見込みは立つことになります。
【☆ スペイン―――この時期のスペインは、1938年に社会主義政権の人民戦線政府との内戦に勝利した極右主義者フランシスコ・フランコ将軍の独裁下にあった】

しかし一方で、その約1年のタイムラグの間にソビエト・ロシアを崩壊させられる可能性はあったのでしょうか。それができなければ、前記の計算も意味を失います。

ヒトラーの主観的認識においては当然可能だったのでしょう。
前述の通りもともと対ソ侵攻計画「バルバロッサ作戦」は、冬が来る前にソビエト・ロシアを屈伏させる短期決戦計画であり、進軍を妨げた悪路の泥と厳寒、補給の困難、そして予想以上に粘り強いソ連兵の抵抗によって12月にまでもつれ込んではいても、実際にドイツ軍は、モスクワの眼前にまで迫っていたのです。
(このためソビエト連邦の主要政府機関と各国大使館および連合国の報道特派員は、10月半ばにモスクワ東方800キロにあるクイビシェフ市に移転されていました。また同市には、モスクワが陥落した場合にスターリンが籠るため、要塞並みの大本営設置も決定されていました)

しかし周知の通り、ヒトラーとドイツ軍統帥部にとって最大の誤算は、想定をはるかに超えるソ連軍の膨大な動員能力でした。
現在の私たちは、大戦終結後のデータ分析と1991年のソ連崩壊によって得た大戦時の記録によって、当時のソ連軍がドイツ軍統帥部の見積もりをはるかに上回る動員能力を持っていたことを知っています。
しかし改めて述べるまでもなく、当時のソビエト連邦は徹底した秘密主義国家であり、ドイツ軍情報部も正確な情報収集は困難でした。

大戦後の資料によるソ連軍の兵力は、1939年1月時点で194万人、独ソ戦開始5ヶ月前の1941年1月時点で約420万人とされます。(バルバロッサ作戦に動員されたドイツ軍は約300万人)
しかし開戦後は急増し、1944年の動員率は総人口2億人に対して20パーセントに達し、常時ドイツ軍の約2倍にあたる500万人から700万人の兵力を展開していたとされます。
これにアメリカ・イギリスからの総計900万トンに及ぶ兵器・物資援助が加われば、ナチス・ドイツが勝利する可能性は全くありません。

しかし、当然のことながら、当時のヒトラーがそれを知ることはできません。
独ソ戦開始にあたりドイツ軍情報部はソ連軍の兵力を200個師団(およそ400万人)と見積もり、ヒトラーもそれを戦争方針決定の基礎としていたことを考えれば、その後の経過の中でソ連軍の兵力算定がある程度上方修正されていても、緒戦においてすでに300万人を上回る損害を出し、シベリアの兵力までもモスクワに投入しているソ連軍にはそれ以上大きな予備兵力はなく、この大反攻作戦の危機さえ乗り切れば、再度勝利の可能性はあるとヒトラーが考えたのは、この時点ではむしろ当然といえます。
(翌年5月に、ロシア南部およびカフカス地方の油田地帯制圧を目的として発動され、スターリングラード攻防戦へとつながることになるドイツ軍の夏期攻勢「ブラウ作戦」は、この基本認識によります)

以上のことからヒトラーは、独ソ戦そのものの敗北に直結しかねないこのモスクワ前面の破局を食い止めることこそが喫緊の最重要事であり、そのためならば約1年間は戦場に現れることがないアメリカの参戦を招くことは、必ずしも引き合わないリスクではない、あるいは、1年後には巨大なリスクとなっても、眼前に差し迫ったナポレオンの二の舞いとなる破局の危機を乗り切るには冒さざるを得ないとの考えに至ったのでしょう。

ヒトラーはアメリカの国力と軍事力を軽視していたとする言説もありますが、第1次世界大戦を原体験とするヒトラーが、その勝敗を決したアメリカ参戦の危険性(第1次世界大戦において、アメリカは200万人の兵員と膨大な物資を、自らの国力を傾けることなくヨーロッパに送り込むことができた)を軽視するはずはありません。
そのリスク以上に、スターリンとの決戦場であるモスクワ攻防戦に敗北すること、更にそれが独ソ戦そのものの敗北につながることへの危機感が強いものであったと考えるべきでしょう。

今も記録フィルムで見ることができるヒトラーの対米宣戦布告演説は、ベルリンから1700キロを隔てた酷寒のモスクワ前面で、疲弊したドイツ軍がソ連軍の猛攻に追い立てられ、自らに忠誠を誓った十数万の兵士が戦死しつつあり、いつ全面的な戦線崩壊が起きるかわからない危機的状況の中で行われました。

それを食い止める軍事的手段のないヒトラーにとって、この対米宣戦布告に秘められたスターリンへの心理戦は、自らの軍を破滅の淵から救う可能性を持つ、ただ1本の『長いナイフ』だったのかもしれません。

―――以上が、『一見非合理的に見える独裁者の決定も、必ずその時点における彼らなりの実利的計算と必然性に基くものである』という前提に立って行った、ヒトラーの対米宣戦布告の真意を探る考察の結論となります。

当然のことながら、この結論が的を射ているか否かを証明できる第1次資料は存在しませんが、この結論以外には、アメリカに対する宣戦布告によってドイツおよびドイツ軍に何らかの現実的メリットが生じることはありません。
またポーランド侵攻からソビエト侵攻に至るまで事前の宣戦布告を一切行ってこなかったヒトラーが、アメリカに対してのみは事前に公式の宣戦布告を行った理由も、この結論であれば説明できたことになります。

従ってヒトラーの対米宣戦が何らかの軍事的・政治的必然性と主観的合理性に基いて行われたものであるならば、これ以外の解答はあり得ないのではないかと思われます。

前述した通り、史実においてドイツのリッベントロップ外相は、独ソ戦開始直後の6月28日に、日本帝国に対して参戦要請を行い、駐日ドイツ大使館の駐在陸海軍武官も、日本軍部に対して繰り返し参戦を働きかけました。
一方スターリンは、ドイツの電撃侵攻によって自軍が壊滅状態にあったにもかかわらず、9月14日にリヒャルト・ゾルゲからの『日本帝国独ソ戦不参加』の確定情報を受けるまで、シベリア兵力のモスクワ移送を行いませんでした。

つまり、ヒトラー、スターリン共にこの1941年後半期においては、ヨーロッパ東部で自らの存亡を懸けた死闘を演じつつ、その死闘に重大な影響を及ぼす可能性を持つ日本帝国の動向を、横目で注視していたのです。

しかし結果的に日本帝国は独ソ戦に参戦せず、第2次世界大戦の帰趨を決したこの巨大な戦闘に軍事面での直接的影響を与えることはありませんでした。
そのため、シベリアを攻撃し得る位置に在り、それが可能な大兵力を擁していた満州駐留日本陸軍の存在が、独ソ両国の独裁者にもたらしていた『現存艦隊』としての大きな心理的影響と隠れた戦略的影響を、後世の歴史研究は見落としてきたのではないでしょうか。
そしてそれゆえに、ヒトラーの対米宣戦布告の真意は謎とされてきたのです。

《もちろん以上のことは、近代国家における戦争政策としてはあるべき本質から外れたものです。
改めて述べるまでもなく、本来国家指導者(大統領・首相といった政治家=文民)は、戦時外交・戦時経済を含む戦争のグランドデザインとしての戦争政策を担当し、基本的には戦場における戦略・戦術には介入しません。それらは高度の専門軍事教育を受けた正規軍人(武官)の領域となります。

そしてグランドデザインである戦争政策上の要求(必然性)により軍事戦略が決定され、その戦略上の要求から戦術が決定されます。つまり戦略・戦術は戦争政策に従属するものであり、その逆はありえません。

1941年12月時点まで、ヒトラー本来の戦争政策は、アメリカを参戦させないことが原則でした。それはヨーロッパ参戦を望むルーズベルトが行ってきたイギリスおよびソビエト・ロシアへの武器と戦略物資の大量供与や、その輸送船団のアメリカ海軍による護衛などの中立に違反した実質的敵対行為に対する報復を行っていないことを見ても明らかです。
(同年6月から10月に起きていたUボートとアメリカ駆逐艦との交戦は、戦時禁制品である戦略物資をイギリスへ運ぶ輸送船を攻撃する際に発生した「偶発的交戦」であり、報復政策としての攻撃ではない)

しかしこの『欺瞞(ぎまん)策』はモスクワ攻防戦における敗北の危機にあたり、それを食い止めるという戦略上の要求を、それより高い次元で決定されるべき戦争政策の基本方針を根本的に覆すことになる方策によって満たそうとするもので、その点においては、国家指導者が軍の実権をも握り、戦争政策と軍事戦略をひとつの頭が決定する非常に極端な独裁国家だからこそ可能な『奇策』であることは言うまでもありません。

また、この奇策の有効性を期待できるのも、ソビエト・ロシアがナチス・ドイツと同様に、スターリンという1個人が国家の全権を持ち、その1個人の心理(疑念や領土欲)が戦争政策にまで直接的影響を及ぼす非常に極端な独裁国家であるためです。

なおヒトラーがこのような奇策を用いる可能性がある人物か否かについては、ヒトラーの最も親しい側近であった軍需大臣アルベルト・シュペーアの回顧録における以下の記述が参考になるのではないかと思われます。
『ヒトラーの特殊な性格のひとつはディレッタントであった。彼は決して1つの職業を修得したこともなかったし、結局何をやってもアウトサイダーにとどまっていた。多くの独学の人のように、彼も本当の専門知識とはどんなものであるかを判断することができなかった。そのために、全ての大きな課題にともなう困難を考えずに、絶えず新しい任務に移って行ってしまった。既成の考え方にとらわれずに、彼の素早い理解力は、ときどき専門家でもおよそ考えもつかないような異例の処置を下す勇気を持っていた。緒戦の戦略上の成功は、まさに作戦の原則についてのヒトラーの無知と非専門家的な決断のなさしめたものである。(中略)予期されない不意の決断を下す傾向が長い間彼の強みでもあったが、今ではそれが没落へと追いやったのである。』(アルベルト・シュペーア著「ナチス狂気の内幕」読売新聞社刊243ページ)
(ディレッタント=学問や芸術を趣味や道楽として愛好する人。好事家(こうずか)。この場合は、専門家気取りの素人の意と思われる。またシュペーアはヒトラーの独学による博識を知っているので、引用文中の『無知』は一般的知識の欠如ではなく、正規の軍人ならば高等軍事教育で授けられる軍指揮官として必要な専門知識を持っていないとの意と思われる)》

ただし史実において明らかな通り、この時スターリンはシベリア防衛のために兵力を送ることも、反攻作戦を停止・縮小することもしていません。
それどころかソ連軍は全く攻撃の手を緩めないまま、翌月(1942年1月)5日には、12月5日の反攻を上回る大規模な攻勢作戦を発動し、12月5日からの総計で、戦死・捕虜合わせて25万人に達する大損害をドイツ軍に与えるに至ります。
では、前記の結論は間違っていたのか、逆に正しかったとすれば、なぜヒトラーの目論見は外れたのか。次章はその点を考察します。

     3   シベリアのタイムリミット

1942年1月5日に発動された第2次反攻作戦とも言うべきソ連軍大攻勢について、「モスクワ攻防戦――20世紀を決した史上最大の戦闘」(作品社刊)の著者アンドリュー・ナゴルスキ氏は、同書の中で、スターリンがソ連軍総司令部に居並ぶ将軍達の前で飛ばした檄も含め以下のように描写しています。
『この攻撃計画は、ドイツ軍をモスクワからさらに遠くに追いやるのみならず、レニングラード封鎖を突き崩し、ウクライナとコーカサスで、ドイツ軍を撃破することを目的としていた。(中略)
「ドイツ軍は、モスクワで自分達が後退していることに驚いているようだ。しかも、冬の装備が十分でない。今こそ総攻撃に移るべき時がきた。」スターリンは高らかに宣言した。(中略)「ドイツ軍が春になって我々を攻撃できないよう、今のうちに彼等を叩き潰さなければならない。」と、スターリンは言葉を続けた。』(同書366~367ページ)

これを見ると、スターリンはヒトラーの対米宣戦布告の報を受けたにもかかわらず、シベリア防衛を考えるどころか、ソ連軍の全力をもって、ロシア南部をも含めた東部戦線(ソ連軍から見れば西部戦線)全域におけるドイツ軍の完全な撃滅を狙っていたことになります。

しかし前章において論証した通り、スターリンの視点に立てば、ドイツの日米戦争参戦が、日本帝国の独ソ戦参戦と連動していない、という見方はできません。
独ソ不可侵条約でヒトラーの欺瞞外交に嵌(は)められたスターリンは、ヒトラーが何の見返りも考えずアメリカに戦争を仕掛ける「狂人」とは決して見ていなかったはずですし、日本帝国が独ソ戦に乗じたシベリア侵攻を計画し、実行には至らなかったものの、そのための兵力結集が行われていたことも知っていました。   【独ソ不可侵条約】

太平洋戦争勃発前後のソビエト政府による日本帝国へのスパイ活動を検証した3宅正樹氏の著書「スターリンの対日情報工作」(平凡社新書刊)によれば、前述のソ連軍スパイ、リヒャルト・ゾルゲが前年10月18日に逮捕されるまでに東京から本国に送った報告には、
「日本政府は今年(1941年)中のソ連攻撃は断念したが、来春までにソ連軍が敗北した場合に備えて、軍(軍事演習を名目に増強された満州駐留軍)は満州に留まる(9月14日発信)」
「本年中の対ソ攻撃断念にともない、2、3の部隊が本国に戻されたが、主力は今なお国境(ソ連と満州国の国境)に集結している(10月4日発信・これが最後の報告となる)」(同書174~175ページ)
との情報があったとされ、日本軍部がシベリア侵攻を完全に諦めたわけではないことがわかります。

この時すでにゾルゲからの情報は、ソ連軍指導部において最も確度の高いものと評価されており、実際に9月にはその情報に基いてシベリア兵力のモスクワ投入を行ったスターリンが、これを無視するとは考えられません。

また元来スターリンは、欧米資本主義諸国は常に裏で結託し、共産主義ソビエトを潰す陰謀を企てていると信じている猜疑(さいぎ)心(しん)の塊(かたま)りでもありました。実際に1919年にはイギリス・フランス・アメリカ・日本帝国が東西からソビエト政権への干渉戦争を起こしており、この猜疑心は当然のものとも言えます。
その基本認識の上に立つスターリンが、日独の結託を疑わないはずはありません。
【☆ スターリンの猜疑心―――ドイツ軍のソ連侵攻については、イギリス情報部が事前に察知しており、チャーチルが書簡でスターリンに警告していた。しかしスターリンはこれを独ソを戦わせるための陰謀と疑い、全く国境防備の強化をしなかった】【シベリア出兵】

以上のことから見れば、「三国同盟に基く日米戦争へのナチス・ドイツ参戦」の報を受けたスターリンが、必然的にその交換条件となる日本軍のシベリア侵攻を警戒しないということは絶対にあり得ないと言っていいでしょう。

であるならば、スターリンはヒトラーの目論見通り日本帝国の参戦による東西二正面戦争の危機を認識したにもかかわらず、一方ではヒトラーの期待に反し、全くシベリア防衛のための兵力返送を行わなかったことになります。

なぜこの誤算が生じたのか?
スターリンがシベリアを切り捨てられる価値観の持ち主ではない以上、その理由はひとつしかありません。それは、シベリアの苛酷な気象条件に関する両者の認識の違いです。

1812年にナポレオンのロシア遠征において、フランス軍の壊滅をもたらした「冬将軍」の例もあり、対ソ侵攻計画「バルバロッサ作戦」は、ロシアの厳冬期に入る前にソ連軍に勝利を納める計画でした。
しかし雨が降れば泥の海と化すロシアの悪路とソ連兵の頑強な抵抗によって、タブーであった冬季にずれ込んだモスクワ攻略戦においては、数十年ぶりといわれる零下40度に達する苛酷な寒波の中で、実際にドイツ軍は凍傷に苦しみながらも戦闘を続けており、これを見ればシベリアでの軍事行動も不可能ではないように思えます。
(シベリアの厳寒期も、北極圏のツンドラ地帯以南ではほぼ零下20度から40度とされる)

周知の通りヒトラーはオーストリア、リンツ近郊の出身で、シベリアの厳寒期を机上の知識でしか知りません。
従ってヒトラーの主観的認識においては、自らが対米宣戦布告の国会演説によって三国同盟の発動を告げた以上、スターリンは冬期であってもそれに連動して日本軍のシベリア侵攻が行われることを怖れ、それに備えるため直ちにモスクワ周辺での攻勢を停止もしくは縮小することを期待していたことになります。

一方スターリンは、出身こそロシア南部のグルジアですが、革命活動家として非合法活動を行っていた青年期にロシア帝国の保安当局に逮捕され、いくどもシベリアに流刑となった経験を持ちます。(最長は1903年から1907年までの4年間)
従ってシベリアの冬の厳しさを実体験しており、軍事常識から見ても、ソ連軍やフィンランド軍のような冬期戦の実戦経験を持たない日本軍が厳冬期に侵攻する可能性は低いと判断したでしょう。
またソ連軍情報部は極東において満州駐留日本陸軍の動向を常時監視しており、それが大きな動きを見せていないこと(実際には侵攻予定がなかったので当然ですが)、前記のゾルゲが送った情報からも、日本軍に冬期戦の準備がないことが読み取れることなども、その判断の裏付けとなったでしょう。

従ってスターリンは、三国同盟が発動された以上日本軍のシベリア侵攻は必ずあるが、その開始は寒気が緩む早春であり、それまでには数ヶ月の余裕がある以上、この時点で大成功を納めつつあるドイツへの反攻作戦を縮小または停止してまで直ちに兵を送る必要はない、との判断に至ったものと推測できます。
従ってこの時点では、ヒトラーの仕掛けた『心理戦』は完全な失敗に終り、モスクワ前面の疲弊したドイツ軍は、ソ連軍の新たな大攻勢の中で潰滅を待つだけの運命であったかに見えます。

しかし史実においてスターリンは、この新たな大攻勢作戦において、大失策を犯します。と言うより、スターリン自身の意向によってモスクワ前面のみならず、ロシア北部と南部のウクライナを含めた東部戦線全域での逆転を一気に狙ったこの壮大な作戦そのものが、この時点におけるソ連軍の疲弊した実情を完全に無視した過大な計画だったのです。

ソ連軍総司令部においてこの大規模作戦の全貌をスターリンから告げられた時、モスクワ防衛の立役者であったゲオルギー・ジューコフ元帥は、ソ連軍兵士の疲労と消耗の酷さゆえに懸念を示し、軍需の責任者は装備の供給困難を理由に反対したとされます。   

この時のソビエト・ロシアは、ドイツ軍にモスクワ以西の大半を占領されたことにより、全工業資産の実に85パーセントを失っていました。
兵器・軍需生産は、いち早く戦火を避けて東方のウラル山地に疎開(そかい)させた工場群の再稼働がようやく軌道に乗った時期であり、生産量は十分ではありません。また、生産は戦車・航空機等の兵器が優先され、補給に必要な輸送用トラックなどの補助車両は著しく不足していたとされます。
(このため、その後アメリカからの支援物資として37万5000両のトラックを含め50万台もの補助車両が供与されました)
更にその兵器さえも十分とはいえず、前掲書「モスクワ攻防戦」によれば、充実した装備を持つと思われていたシベリア部隊でさえ、一部にはロシア革命直後の旧ロマノフ帝政軍との内戦期(1919年前後)に製造された大砲が支給されていたとされます。

しかしスターリンは、それらの実情と反対意見を無視して作戦を強行し、結果はジューコフ元帥の懸念通り、悲惨なものとなりました。
作戦発動当初こそ12月の勝利の余勢を駆って進撃するソ連軍兵士は士気も高く、1月中旬にはモスクワ西方100キロのモジャイスク市を奪回するなど疲弊したドイツ軍を追撃し、更なる出血を強います。しかし極寒の中での戦闘は、それに慣れたソ連兵にも負担は大きく、更に弾薬・食料などの補給不足のため3週間あまりでその攻撃力は先細りとなり、それを察知したドイツ軍の窮鼠(きゅうそ)の反撃を受けることになりました。
多大な犠牲を払って戦線を突破した部隊もそこで戦力が尽き、ドイツ軍に逆包囲されて潰滅する事態が各所で起こり、1月下旬にはドイツ軍を150キロ余り押し戻しながらもソ連軍は数十万の死傷者を出し、攻勢は挫折しました。

ドイツ軍も大きな損害を出して前年10月のモスクワ攻撃発起点まで後退を余儀なくされますが、ナポレオン軍のように崩壊することはなく、そこで踏み留まります。スターリンの過大な要求が、攻勢挫折の主原因であったことは明らかでした。

一般に、スターリンがゲオルギー・ジューコフ元帥というソ連軍において最も信頼性の高い戦略家からの懸念が示されていたにもかかわらず、それを無視して補給の続かない攻勢作戦を強行したのは、12月5日の反攻作戦が予想以上の成果を挙げたことにより、この好機にドイツ軍を完全に撃滅しようと欲を出したため、とされます。

この時のスターリンの姿を、イギリスのノンフィクション作家アントニー・ビーヴァー氏は、バルバロッサ作戦からスターリングラード攻防戦までを描いた「スターリングラード・運命の攻囲戦」(朝日文庫刊)の中で、以下のように描写しています。
『(1941年)12月の第2週の間、狂喜するスターリンはドイツ軍が崩壊寸前にあると確信していた。ドイツ軍戦線崩壊の報道は、放棄された銃や馬の死骸、吹き溜まりの雪に半ば覆われたドイツ兵の凍死体の映像とともに、1812年の再現という考えを助長しがちだった。(中略)
スターリンはこれを好機として執着するあまり、ヒトラーと同じ過ちに陥る。補給物資の不足、輸送力の欠如、疲れ切った部隊という現実を無視して、意志の力を信じたのである。
大本営(スタフカ)の「作戦指導用地図」を眺めるスターリンの野心はとどまるところを知らなかった。(中略)彼はレニングラードの包囲軍を分断するため北方で大攻勢をかけたかった。また南方ではウクライナとクリミアの失われた領土を取り返したい。(中略)
ジューコフたちはその危険性を警告したが、まったく聞き入れられなかった。』

つまり通説と同じく、「独裁者スターリンが、一時の成功に酔いしれて、優秀な幕僚の反対を押し切って、無謀で非合理的な決定を下した」ということで、前掲のナゴルスキ氏もほぼ同様の見解をとっています。
(これはスターリン死後に公表されたジューコフ元帥の回顧録の中で、スターリンの軍事能力に疑問が呈されていることを根拠としているものと思われます)

もちろん、1953年に74歳で死去するまでに4千万人もの自国民を死に追いやったとされるスターリンも生身の人間である以上、一時の成功に『狂喜して』判断を誤る可能性を完全否定することはできません。
しかしこの考察においては、「独裁者の非合理的に見える決定も、その時点における彼らなりの実利的計算と必然性に基くもの」という前提をとりますので、それに沿ってこの失策の原因を求めていくと、別の答えが出てきます。

まずスターリンという人物は革命活動家の出身ですので、ヒトラー同様専門軍事教育を受けたことはありませんが、この時点では完全な素人というわけでもなく、独裁者となる以前、ロシア革命時の内戦と、1920年のポーランドによる干渉戦争時に、軍司令官と同格の権限を持つコミッサール(政治委員)として、一軍の指揮を執った経験を持ちます。
【☆ コミッサール――ソビエト政府が軍の思想統制のため指揮官に付けた監視役。司令官と同格の権限を持ち、作戦指揮にも介入できる。コミッサールの本来の意味は軍事委員であるが、一般には政治委員と意訳されている】

これがどの程度実戦的な作戦指揮であったかは不明ですが、内戦時には、1919年に旧帝政軍によるペトログラード(現在のサンクトペテルスブルク)攻略を阻止した功績により「赤旗勲章」を授与され、またロシア南部の都市ツァリーツィンがスターリングラードと改称されたのは、この方面における防衛戦の功績によるものとされます。
【☆ 赤旗勲章―――ソビエト政権がロシア帝国の叙勲制度に替えて制定した勲章。同政権の階級否定原則により、等級はつけられていなかった】

逆に対ポーランド戦では大きな失策を犯し、レーニンに叱責された上に革命軍事評議員を罷免されることになりますが、これはスターリンが当時優れた軍指揮官として頭角を現していたミハエル・トハチェフスキーの功績をねたみ、彼がワルシャワ攻撃に必要としていた援軍を送らなかった、というもので、過乗な政治的野心と人格の歪みを表すものであっても、軍事能力の欠如とはやや異なります。    【トハチェフスキー】

ではなぜ、能力の高低は別として一応の指揮経験を持つスターリンが、モスクワ攻防戦での逆転勝利を目前にしたこの重大局面で、前線への補給軽視という極めて初歩的な失策を犯したのか。

ここに『ヒトラーの対米宣戦布告によって生じた、東西二正面戦争への危惧』という要素を加えて考察すると、失策の「合理的な」原因が解明できます。

前述の通り、12月中旬においてモスクワ前面の反攻作戦を縮小もしくは停止させるというヒトラーの目論見は外れました。
しかしその対米宣戦によって示された独ソ戦への日本帝国参戦の可能性は、スターリンに「シベリアの厳寒期が終る春先には日本軍の侵攻が開始され、東西二正面戦争に陥ることになる」という危機感をもたらします。

もちろん純軍事的に見れば、日本軍がウラジオストックなど極東ロシアの要地を占領しても、ソビエト・ロシアの致命傷とはなりません。
日本軍がシベリア鉄道を遡上(そじょう)してモスクワの背後に出現するなどということは完全な不可能事ですし、対ソ戦計画時になされた日本陸軍参謀部の机上演習においてさえ、最大でもバイカル湖付近までの進出が限度だったとされます。
しかしスターリン個人の領土への執着に加え、更なる戦局の悪化は、独ソ戦に大きな政治的・軍事的弊害をもたらします。
その最たるものが、ソビエト国内の民族問題に起因するドイツ軍への協力者の増加です。

改めて述べるまでもなく、ソビエト連邦はロシア帝国時代からの多民族国家であり、国内に多くの非ロシア系民族をかかえています。それらの人々には程度の差こそあれロシア人支配、あるいはソビエト体制とスターリン独裁への反感がありました。
特に1930年代にソビエト政府による穀物の強制徴発によって700万人もの餓死者が出ていたウクライナでは、侵攻してきたドイツ軍を解放者として迎え、27万人ものウクライナ人がドイツ軍に参加したとされます。

このソ連市民の対独協力の実相は、フィリップ・ナイトリー著「戦争報道の内幕(中公文庫刊)」に、以下のように描かれています。
『ソ連内の多くの個所で反スターリン運動は激しく、赤軍(ソ連軍)の捕虜とドイツ軍占領地域の市民が召使いのような仕事をしながらドイツ軍を助け始めたのである。これはやがて以前の同志に向けて銃口を突きつけるまでになり、さらに程なくして前進地区のドイツ軍部隊には必ずといっていいほどドイツ軍の制服を着た多数のロシア兵が戦力として交じるようになった。(中略)ヒトラーに仕えるソビエト市民のことを知った外国人従軍記者たちが連合軍の利益を思ってこの事実を報道すまいと決心したことは理解できる』(同書289ページ)

このことはスターリン自身も自覚しており、開戦直後より退却や投降を禁じる阻止部隊(いわゆる督戦隊(とくせんたい))が編成され、自軍兵士を容赦なく処刑させたことはよく知られています。
それでも史実においては、ソビエト体制下で抑圧されていたクリミア半島のタタール人、コサック、反スターリンのロシア人など、約100万人ものソ連市民がドイツ軍に加わったとされており、戦局の悪化は当然その離反を増加させ、ドイツ軍を利することになります。
シベリア、中央アジアはもちろん、ソ連軍の石油供給の75パーセントを占めるカフカス地方(21世紀現在も分離独立紛争が残るチェチェン地方も含む)でそれが起これば、独ソ戦そのものの敗北につながりかねません。

史実において、スターリンは非ロシア系民族の対独協力を疑い、1942年以後、クリミアのタタール人、カフカスのチェチェン人、イングーシ人、カスピ海周辺のカルムィク人などに、シベリアなどロシア東部への強制移住が命じられ、その総数は300万人に達したとされています。
またスターリンはレーニン存命中その下で非ロシア系民族間の紛争調停を担当しており、ソビエト体制の保持には民族間の分裂を防ぐことが必要であるとの認識を持っていたともされます。【タタール人】【コサック】

従ってスターリンの主観的認識においては、早春に独ソ戦が日本帝国を含めた二正面戦争へと悪化する前に、
1 ドイツ軍に決定的な打撃を加え、できる限りモスクワから遠ざけておかなければならない。
2 ドイツ軍の包囲下にあるレニングラード(ロシア革命の祖レーニンの名を冠してあるこの都市は、ソビエト体制の象徴と位置付けられる)を奪回するとともに、戦争継続に死活的重要性を持つカフカス油田地帯への入口である要衝ロストフ市に迫ったドイツ軍を撃退し、その西方で戦線を安定させなければならない。
という、軍事面および戦争資源面での必然性に加え、
3 新たな二正面戦争による国民の動揺と造反、および非ロシア系民族の離反と対独協力の増加を防ぐため、国民に対して明確に表明できる勝利を早急に挙げておかなければならない。
という、自らの独裁とソビエト体制を揺るがしかねない政治面での重大な危険を防止する必然性が生まれていたことになります。

また厳冬期のうちにドイツ軍大敗が確定的となれば、日本帝国が早春のシベリア侵攻を断念し、不利な二正面戦争を未然に避けられることにもなります。

これらの切迫したタイムリミットが、スターリンの心理に、冬期戦に慣れたソ連軍が有利となる厳寒期のうちに無理を押してもモスクワ前面のみならず、東部戦線全域においてドイツ軍を撃滅しておかなければならない、という強迫的な決意もしくは焦燥感を生み、自軍の補給能力の限界を無視した強引にすぎる攻勢作戦を立案・断行させる原因となったと考えることができます。

しかしそれは前記の通りソ連軍兵士に過大な疲弊と消耗をもたらし、さらには拡げ過ぎた戦線に兵力を分散させることになり、潰走の寸前にあったドイツ軍に反撃の機会を与え、攻勢作戦それ自体を挫折させることになりました。

つまり、ヒトラーがスターリンに仕掛けた心理戦は、ヒトラーの思惑とは大きく異なるかたちではあっても、スターリンの重大な誤断と失策を誘発し、モスクワ攻防戦におけるドイツ軍全面崩壊の危機を救ったことになるのかもしれません。
(ただし、この時点におけるヒトラーの最側近である宣伝啓蒙相ヨゼフ・ゲッベルスが、この時期のヒトラーがひどく憔悴していた旨の記述を残していることから見れば、ヒトラー自身はこの「自らの想定とは大きく異なるかたちでの成果」を認識していなかったと思われます) 

【☆ この時期のヒトラーについては、高田博行氏の著書「ヒトラー演説(中公新書刊)」で以下のように記されている。
『1942年の初めの数ヶ月は、各戦線で厳しい防戦が続いた。この間にヒトラーは神経を消耗した。総統大本営を訪れたゲッべルスは、ヒトラーの姿を見て衝撃を受け、「ひどく年を取った、こんな無口な」姿は初めてだという感慨を述べている』(同書237ページ)】

この結果、1月の終りまでには、ドイツ軍は辛うじて壊滅の危機を脱して踏み留まり、モスクワ攻略の起点であった北西180キロのルジェフ市と、西方200キロのヴィヤジマ市を確保します。(この両市は翌年3月まで保持され、モスクワに対する「ナイフ」となりました)
しかしすでに再度のモスクワ攻撃を行う力はなく、両軍の戦線はモスクワ西方100キロから200キロ地点で膠着(こうちゃく)状態となります。

これにより独ソいずれにとっても、早期勝利の可能性は失われました。モスクワ攻防戦は、実質的にここで終ります。人的損害はソ連軍側がはるかに大きく、軍事的には「痛み分け」とも言えますが、政治的には明らかに首都を守り切ったスターリンの勝利でした。

独ソ開戦当初、ドイツ軍の電撃侵攻によってソ連軍が各地で惨敗を重ね、主要都市が次々と陥落していた時期には、モスクワで一般市民のパニックが起きるほどスターリンへの信頼は揺らいでいました。
しかしスターリンが包囲されつつあるモスクワに踏みとどまり、多大な犠牲の上にではあっても首都を守りきったことで、ソ連市民のスターリンへの信頼は確固たるものになったとされます。

もちろんそれはスターリンの度重なる失策(独ソ不可侵条約を盲信し、ドイツ軍の侵攻に無防備であったこと、1941年5月にゾルゲがもたらしていた侵攻情報を無視したこと、同年9月に包囲されつつあるキエフ固守に固執し、4個軍約100万人の壊滅を招いたことなど)を全て隠蔽(いんぺい)し、スターリンを無謬(むびゅう)の軍事指導者として祭り上げたプロパガンダの成果でもありますが、モスクワ攻防戦の勝利によってソビエト体制崩壊の可能性が消え去ったことは事実です。

この点においてモスクワ攻防戦の重要度は、一般に独ソ戦の転換点とされるスターリングラード攻防戦よりもはるかに高いと評価されるべきでしょう。
仮にスターリングラードが陥落していたとしても、首都モスクワが保持されている限り、ソビエト体制の崩壊につながることはあり得ないものでした。

ヒトラーは、ナポレオンの二の舞いこそ免れたものの、ソ連軍の反攻により25万人、モスクワ攻防戦の総計では約40万人の将兵を失いました。
この損失は、ドイツ軍にとって膨大な戦死者数以上の打撃となります。それは、この時失った将兵の大半が、開戦以前に十分な時間をかけた厳しい訓練で鍛え上げられ、ポーランド・フランス戦役で実戦経験を積んだ貴重な熟練兵士だったからです。
無尽蔵ともいえる動員能力を持つソ連軍の量に、兵士の質をもって対さなければならないドイツ軍にとって、これは取り返しのつかない損失であり、これが以後のドイツ軍敗退の要因であるとする見解もあります。

それだけではなく、スターリンの失策を誘発したヒトラーの『長いナイフ』は、ヒトラー自身の心理に、「アメリカの戦争準備が完了し、その巨大な兵力がヨーロッパに投入される前に、ソビエト・ロシアを倒さなければならない」という避け難いタイムリミットを刻み付けることになりました。

この後ヒトラーは、一刻も早い勝利を焦るかのように、カフカス侵攻、スターリングラード攻略、クルスク攻勢と、不十分な兵力での強引な攻勢作戦を繰り返し、自ら戦局を悪化させていくことになります。

そして1年間のタイムラグを過ぎても、広大な国土と膨大な動員能力を持つソビエト・ロシアを打倒することは叶わず、1942年11月に始まるアメリカ軍参戦のデメリットは、周知の通り、北アフリカ戦線の崩壊、イタリアの脱落、ドイツ本土の工業地帯に対する米英空軍の戦略爆撃へとつながり、ナチス・ドイツを第2次世界大戦の敗北へと追いやっていきます。

最終的には、1941年12月11日に、ヒトラーがモスクワ前面でのドイツ軍崩壊の危機を救うため、日本帝国の真珠湾攻撃を奇貨としてスターリンに投じた心理戦のナイフは、一度はその目的を達したものの、反転してナチス・ドイツそのものを滅亡させるに至る、破滅的な諸刃の剣となりました。

ただしそれは、現在一般に流布されている『無知な独裁者が無分別に下した衝動的・非理性的決定』や『理解不能の謎』ではなく、少なくともヒトラーの主観的認識においては、独ソ戦の天王山における自軍の壊滅的敗北を防ぐために、ハイリスクな賭けではあっても、当時提唱されていた海軍戦略理論を下敷きに、日独伊三国同盟と満州駐留日本陸軍の存在を利用し、かつ即座に軍事行動がとれない当時のアメリカの国内政治情勢および戦争準備状況をも勘案した上で下された、『実利的計算に基く決定』であったと推定することができるのです。

                                 了

参考資料(順不同パートⅠ・Ⅱ)

「ヒトラーとは何か」 セバスチャン・ハフナー 草思社
「世界史の中から考える」 高坂正堯 新潮選書
「ヒトラーの秘密図書館」 T・ライバック 文春文庫
「第2次世界大戦」 W・S・チャーチル 河出文庫
「チャーチル」 河合秀和 中公新書
「米英にとっての太平洋戦争」 クリストファー・ソーン 草思社
「ナチス狂気の内幕」 A・シュベーア 読売新聞社
「ヒトラー全記録」 阿部良男 柏書房
「補給戦」 M・クレフェルト 中公文庫
「戦争報道の内幕」 P・ナイトリー 中公文庫
「欧州大戦」 読売新聞20世紀取材班
「スターリングラード 運命の攻囲戦」 A・ビーヴァー 朝日文庫
「ヒトラー演説」 高田博行 中公新書
「スターリンの対日情報工作」 3宅正樹 平凡社新書
「スターリン」 横手槙二 中公新書
「赤軍大粛清」 R・シュトレビンガー 学研
「8月の砲声」 B・w・タックマン 筑摩書房
「写真・ポスターに見るナチス宣伝術」 鳥飼行博 青弓社
「モスクワ攻防戦」 A・ナゴルスキ 作品社
「大東亜戦争こうすれば勝てた」 小室直樹・日下公人 講談社
「国際スパイ ゾルゲの真実」 下斗米伸夫・NHK取材班 角川文庫
「ザ・コールデイスト・ウィンター」 D・ハルバースタム 文春文庫
「ヒトラーのテーブル・トーク」 ヒュー・トレヴァー・ローバー監修 三交社
「マハン海軍戦略」 A・T・マハン 中央公論新社
「ナイルの叛乱」アンワル・エル・サダト 岩波新書
「武装親衛隊」 広田厚司 光人社
「大祖国戦争のソ連軍戦車」 古是3春 KAMADO
「ロンメルとアフリカ軍団・戦場写真集」 広田厚司 潮書房光人社
「ソビエト赤軍興亡史Ⅲ」 学研
「ヒトラーの経済政策」 武田知弘 祥伝社新書

「秘録・第2次世界大戦」 イギリスBBC局制作
「ヒトラー」 ドイツZDF局制作
「覆面石油部隊」 NHK局制作

作者紹介
水城ケイ  (Mizuki・kei)
歴史考察者
2009年、第2次世界大戦におけるナチス・ドイツとソビエト・ロシアの戦車部隊の死闘を描いた戦記小説「鋼鉄のワルキューレ(水樹ケイ名義)」を出版。
WWⅡのドイツ戦車を中心に、千数百両の戦車フィギアを保有する戦車オタクでもある。

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