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1899年にデューイが語ったこと

おはようございます。祝日明けの金曜日の午前中。ちょっとだるいですね…。

算数の動画教材の作成を終えて、なんとなくデューイの「学校と社会」を再読。
なんとなく読む本ではなかったと後悔しながらも、すぐに文章から目が離せなくなります。今から100年以上前にデューイが語ったことは現代においても全く色褪せていないのです。シカゴ大学付属小学校における実践をもとに、論理的に語られる内容は現代においても非常に示唆的だと思います。

デューイは「旧教育」について「重力の中心が子ども以外にある」とし、「子ども中心主義」を展開していきます。(繰り返しになるけど、これは100年以上前に語られたことなんだよな〜)

私は旧教育の類似的な諸点、すなわち、旧教育は子どもたちの態度を受動的にすること、子どもたちを機械的に集団化すること、カリキュラムと教育方法が画一的であることをあきらかにするために、いくぶん誇張して述べてきたかもしれない。旧教育は、これを要約すれば、重力の中心が子どもたち以外にあるという一言につきる。重力の中心が、教師・教科書、その他どこであろうとよいが、とにかく子ども自身の直接の本能と活動以外のところにある。(P49)

この指摘は、現代における多くの公立学校の現状にも当てはまる?
そう考えると、教育は100年前から、いや、120年以上前から本質的に変わっていないということではないか。恐ろしや…

いまやわれわれの教育に到来しつつある変革は、重力の中心の移動である。それはコペルニクスによって天体の中心が地球から太陽に移されたときと同様の変革であり革命である。このたびは子どもが太陽となり、その周囲を教育の諸々のいとなみが回転する。子どもが中心であり、この中心のまわりに諸々のいとなみが組織される。(P49ーP50)

めっちゃ分かりやすいし、めっちゃかっこいいと思うのは私だけでしょうか。「教育にコペルニクス的な変革を」ってことです。でも、デューイさんが言っている「われわれの教育に到来しつつある変革」は100年以上経ってもいまだに到来していないという…

倫理的側面からみるならば、こんにちの学校の悲劇的な弱点は、社会的精神の諸条件がとりわけ欠けている環境のなかで、社会的秩序の未来の成員を準備することにつとめていることである。(P27)

これって、現代の日本の教育にそのまま当てはまります。社会と学校が断裂されているというか…。「社会に開かれた教育課程」とか最近でも言われてますよね。昔も今も「学校」というところが、いかに「変わりにくい場所」なのかがよく分かります。

しかるに、学校はこれまで生活の日常の諸条件および諸動機から甚だしく切離され、孤立させられていて、子どもたちが訓練を受けるために差し向けられる当のこの場所が、およそこの世で、経験を―その名に値いするあらゆる訓練の母である経験を得ることが最も困難な場所となっている。(P30)

学校が社会から孤立していること、学校が社会に出るための準備をすることが困難な場所になってしまっていることは100年前から変わっていなかったようです。「最も困難な場所」って…

とりあえず今日は1章まで…

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