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エツィオ・マンズィーニの著書の「日本語版読書へのメッセージ」下訳を公開。

エツィオ・マンズィーニの『Livable proximity ; ideas for the city that cares』(Egea 2022) の日本語版を準備しているため、「はじめに」の下訳を以下に公開しました。

今回は2弾目として、特別に日本語版読者に向けてマンズィーニに書いてもらったメッセージの下訳をここに公開します(写真はnoteのためだけです)。因みに、本書の構想は2020年10月に生まれ、2021年4月に最初のイタリア語版が出版されました。それが3年間という時間を示す理由になっています。

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本書の日本語版は、空間と時間という二つの課題に直面する。一つはイタリア語版の著者と日本語版の読者の文化的背景の違いで、もう一つは執筆の時点から3年を経ているという時間の問題である。

 翻訳とは、あるリスクを引き受ける。誤解という避けがたいリスクである。この場合、本書の基盤となる「近接(proximity)」と「ケア(care)」という用語がもつ多様な意味合いがリスクの震源になる。

実際、この本では、私たちがお互いの関係や地球を大切にしながら良好に生活できる状態を「住みやすい近接」と定義している。身体的および関係的な近さという条件は、込入ったこともない、ほとんど当たり前のように思えるかもしれない。しかし、それは、私たちを逆の方向に導く大きな流れに逆らうことによって達成される目標なのだ。人と人や人と環境は、お互いが次第に距離をもちつつある。そして、私たち自身も一部として属する生命の網の目すべてに加え、ありとあらゆる人にとって大きな問題を生み出している。 

本書のなかで、この問題がなぜ起きるのか、そしてどのようにその問題に立ち向かうのかを私たちは議論している。英語版の副題にもあるように「ケアを重視する都市のためのアイデア」を提案している。つまり、近接のアイデアと実践、ケアのアイデアと実践、これらの2つを結びつけているのだ。 

私が知る限り、「近接」と「ケア」の2つはどの言語にも存在する言葉である。なぜなら、これら2つの単語の意味は、すべての人間の行動や感情のありさまに基づく意識的で継続的な行為を指しているからだ。同時に、人間の経験と深く結びついているからこそ、それらの言葉を使う人たちの文化的特質にも深く根ざしている。すなわち、地球上のさまざまな地域で、その意味合いが異なっている。

そうであればこそ、この本は日本の読者に対してもーそう、あなた方も―重要だと思うような話題を提供し、あなた方はそれを私たちとは異なる独自の方法で解釈してくれるだろう、と期待したい。

仮にそうなれば、著者である私、読者であるあなた方が異なる文化を跨いだ社会的会話を活性化させ、私たちを相互につなぎ合わせるものを認識し、同時に、私たちを区別する違いを育める。つまりは、私たちは一緒になって貢献することができ、その結果、私たちが生きる文化生態系はより豊かなものになる。

2 この本の最初のバージョン、イタリア語版は2021年4月に出版された。それほど昔の話ではないとも言える。しかし、この3年の間に、その内容の妥当性を問われかねない様々なことが起こった。それにも関わらず、妥当性は失われていないと思う。

本書は、パンデミックの真っ只中に書かれた。自宅に監禁され、人と距離を保つように強制されたことでは、多くの人がーそして私もだがー生活における近接の適切さについて考察するきっかけとなった。ここから、本テーマに関して考える対象を都市や社会全体と範囲を広げていくことになったのである。この出来事は地球規模の社会実験と見るべきだが、3年の年月を経て、その実際的な影響はまだ十分には解釈しきれていない。 

しかし、パンデミックが2つの矛盾した行動様式をもたらしたことは、すでに広く証明されているように思われる。多くの人々はオンラインに頼る生活を拡大し、より頻繁にデジタル空間を訪れるようになり、それに伴って物理的な空間での出会いや交流の機会が減った。この現象が必然的に引き起こしている、あるいは引き起こしうる結果や影響を私たちは推測できる。

一方、人との距離を保つのが義務化させられたことにより、近接の感覚と価値を認識するに至り、この問題についてさらに広範な議論をする土壌をつくり出した。そして、望むらくは、近接のシナリオを実際のカタチにさせたい。それが本書の提案である。もしこの提案が現実的であるなら、パンデミックとパンデミック後の経験は、本書の内容を単に確認するだけでなく、まさに強固なものにしていると言えるだろう。

3 前述と同じ時期、変化をおこすもう一つの素材が公的空間での議論と私たちの生活に入り込んできた。人工知能(AI)は、いつとも知れない未来にその成果を先送りするような研究分野と認識されていたが、わずか数ヶ月の間にもの凄い勢いで拡大する商業技術として位置づけられるようになった。その成功がもたらす実用的、文化的、そして哲学的、政治的な影響が多大であることは、どの識者も認めている。私もその意見に賛成である。

だが、もちろん、ここはこのようなテーマを展開する場ではない。しかしながら、ひとつ質問させて欲しい。今日生じているような形の人工知能が引きおこすであろう事と、近接の問題の間にはなんらかの相関関係があるだろうか? 私の考えでは、答えは「イエス」である。人工知能が仮想現実の創造物と融合することで、私たちが生物学的な性質や環境との関係を感じられなくなる世界のディストピアのイメージが広がるが、唯一の対抗手段は、自然のものにしっかりと根ざした密度が高い多様なシステムの創造だ。それは、たまたまであろうと、一緒に住んでいる人、物、動物、環境と物理的にでも繋がり生活できる近接システムである。

言い換えれば、テクノロジーによってあらゆるものが媒介されることで、何が本当で何が本当でないかを判断するのがますます難しくなる世界では「いること」、つまり、どのような時であっても自分の身体が存在する場所で判断することが唯一の方法となるだろう。即ち、デジタルの世界であれやこれやと気をそらされないようにして、その瞬間、その場所で、心と体を使って注意を払い、応対できるようにしておくことだ。

「対面」、というわけである。

この観点からすると、住みやすい近さとは、豊かで多様な近接のシステムを備えた社会技術システムの中で生活することと同義になる。それが私たちの生活のほとんどを占める物理的・関係的コンテクストを構成しうるのだ。もし私たちが望むなら、そこから他の仮想世界を探索し始めることができる。しかし、戻るべき家、友人、街、そしてケアする関係があるシステムを確保しているために、そうした探索を安全に行うことが可能なのである。

2020年からの3年間に多くのことが起きた。

4 この本が書かれた後から私たちの生活に炸裂的に入り込み、執筆当時の私たちを遠ざけてしまっている3つ目の強力な変化の要因がある。それは戦争である。もちろん、2021年以前にも、世界には戦争があった。しかし、実際には、戦争に直接関与していない人々にとって、ほとんど目に映ってこないものだった。

今、ロシアがウクライナに侵攻し、核のリスクを背負ったことで、それに気づかないわけにはいかなくなり、核がもたらす懸念にも触れないわけにはいかなくなった。だからこそ、日本の方々にこのメッセージを書くにあたり、私は戦争のことを語らないわけにはいかない。人工知能の場合と同じく、ここで本テーマにさらに突っ込むことはできない。しかし、考察のための刺激として利用することは可能であり、また利用しなければならない。

戦争も平和も社会的な構築物であり、さまざまなレベルでの多種多様な介入の結果である、と私は考える。一つには、距離をおくという行為もある。実のところ、戦争を起こすには、双方の人々が互いにとてつもなく異質であると感じている状況がなくてはならない。そして、それゆえに距離をおく。

もしそうだとすれば、近接の条件を準備することは、平和を求めることができる地勢のひとつとなる。言うまでもなく、平和と近接の間に決定論的な関係があるとは言っていない。物理的な近接だけで紛争を防ぐことなど無理だ。しかし、戦争という暴力的で組織的な紛争は、関係する人々が距離を感じているときにのみ存在し得る。これも確かである。つまり、本書の中で私が「関係的近さ」と呼んでいるものがない時だ。

だからこそ、このような困難な時代に、本書のように「近接」を論じることが、平和構築への貢献にもなりうると信じ、希望をもちたい。

5  最後に。出版社、翻訳チーム、そして特に安西洋之氏の尽力なくして本書の日本語版は存在しなかったであろうことに感謝したい。冒頭で述べたように、翻訳とは異文化間の架け橋となるアイデアを提案している。今日、私たちはかつてないほど、橋を架ける必要があるのだから、心から感謝している。

写真©Ken Anzai


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