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鉄鉱石が豊富なギリシャは、鉄製の道具・武器が貿易拡大の刺激剤となって繁栄した。

読書会ノート

ポール・キンステッド『チーズと文明』第4章 ギリシャ世界のチーズ

紀元前4世紀のアテネの市場には何があったのか?喜劇作家ティモクレスによれば、黒海の魚、北部エーゲ海タソス島のワイン、コリント湾に面したボイオティアのウナギ、アテネの農家の蜂蜜、オリーブ、緑の野菜、地元のパンとケーキ、そしてシチリアのチーズが並んでいた。これが富める人たちの食卓に並んだのである。

シチリアは美食の中心でチーズの供給の最大手であったのだ。

さて、そもそもギリシャはどうして経済の中心地になり得たのだろう。紀元前1200年頃、青銅器時代の終焉に伴い、ギリシャ本土とエーゲ海に栄えたミケーネ文明は消え去る。いわば暗黒の時代となる。農業も新石器時代の混合農業に逆戻りする。

だが、紀元前1000年頃、アナトリアからレバンドに広がっていた鉄精錬技術がキプロスを介してギリシャ本土に伝わる。鉄鉱石が豊富な同地は、鉄製の道具・武器を製造することが貿易拡大の刺激剤となり、経済復興に向かう。

紀元前8世紀、経済繁栄を謳歌するが、人口増と山がちの土地が農業の発展を阻む。食糧難への対処策として、穀物輸入先の確保、地中海貿易のライバル、フェニキア勢力に対抗するため、その後の3世紀は領土拡大に専心する(黒海沿岸からアフリカ、スペインまで)。そして近東は、自治体組織であるポリスをギリシャにもたらす。

このポリスにおける信仰では、特別な時以外は「血を流さない食物」を神に捧げた。日常の食物で、菓子、果物、パン、時にチーズである。チーズは太古からあった捧げもので、宗教的伝統の保護を目的としていたと推察される。

例えば、チーズが詰められたケーキは医術の神、アスクレピオスを祀る儀式で多用された。そして、当時の遺跡から発掘されたテラコッタの水盤は、チーズの発酵桶として使われていた可能性が高い。実際、ミルクが医学的処方に利用されていた記録もある。

紀元前5世紀前半。チーズをすり下ろす女性。114p

かようにチーズは宗教行事に必須の食物であったと同じく、日常生活でも常用された。聖俗は別個のものに捉えられないからだが、シトス(粥、パン、ケーキ、豆類などの食事)とオプソン(肉、野菜、酢漬けや塩漬けの魚)との日常の食事が2つに分類されるなか、チーズは後者として食された。

そして冒頭の市場の記述に戻るのだが、地元の小規模混合農業地での羊の飼育とチーズ製造は、市場を舞台にした取引の材料になっていたのだ。また、エーゲ海のキスノス島で作られたキスノスチーズ(紀元前8世紀のホメロスの『オデュッセイア』にも製法に関する記述がある)は、ワインと並んで輸出市場でも名をはせた。フェニキア人商人によって利益の高いエジプトでも売られていた。

同様にギリシャは輸入チーズの一大消費地でもあった。紀元前5世紀、喜劇詩人ヘルミッポスは、アテネでの贅沢品リストにシチリアのチーズを加えている(他には、エジプトの書籍、シリアの乳香、クレタ島のイトスギ、カルタゴ産の多色カーペット)。当時、シチリアは美食の地で、チーズソースが幅広く使用されていた。

<わかったこと>

交易や人的交流がある社会を救う。ギリシャも例外ではない。アナトリアにあった鉄精錬の技術が伝わり、ギリシャを救ったのだった。世界のどこかにある技術や問題解決方法に敏感であった方が良い証だ。

ただ、テクニカルなレベルだけでなく、(近東にあった)ポリスのような概念と人工物にも影響を受ける。フェニキア人との接触で、フェニキア文字を借用しギリシャ文字をつくり、近東の文化、宗教などを消化吸収し、ギリシャ独自の文化に融合していった。そして、領土拡大でギリシャ文化が地中海各地に伝わり、その先で生まれた文化がまたギリシャに逆流してくる。

チーズを一つの題材としてみてもダイナミックだ。

ここに文化のオリジナル論争の不毛さがある。計画性があったか、まったくの偶然であったかには関わらず、文化接触は次の時代をつくる、智恵と活力になる。これに関係する最近書いた2つの記事を紹介しておく。一つは留学、もう一つは文化盗用である。


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