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読書する身体

――あるいは『数学する身体』の感想文的ななにか。

はじめに

 世界のすべてを知るには人の一生は短すぎるし、知ることができても僕の脳ではそれを処理することはできない。そんなことを思って、人間の矮小さを感じる。世の中にはよくわからないことが無限にあって、すべて知ることが不可能にしても知りたいから本を読むのだ。少しだけでもわかった気になりたい。
 本をひとつ読んで自分の認識している世界が広がったとき、そこに感動があると同時に無知の量を自覚して苦しくなる。どう考えても人生足りない。コンテンツに溢れ、それに簡単にアクセスできる21世紀だからこそ。読みたい本が多すぎる。観たい映画が多すぎる。行きたい場所が多すぎる。したいゲームが多すぎる。そして、英語とフランス語とドイツ語とロシア語とイタリア語とラテン語とアメリカ文学と古代中国と仏教とキリスト教とイスラームと儒教と道教の勉強がしたい。それから物理や生物や歴史をもっと詳しく丁寧に理解したいしアメリカ文学と地質学と心理学と哲学と経済学と言語学とその他諸々を学びたい。

 でも数学にはあまり興味がない。

 子供の頃から数学は得意だった。高校生の頃、数学の試験はいつもだいたい学年1位ぐらいだった。少なくとも大した学校でもない高校の授業でやるレベルの数学は僕にとって難なく解けた。そのくせにやたらと数学の宿題が多かった。自分にとってはさして難しくもない問題を何百問も解けば飽きるし嫌気がさす。だから数学は嫌いだった。もっと高度な数学に触れれば考えも変わっただろうが。
 そんな僕がなぜか会津若松に行ったとき駅前の書店で買ったのが『数学する身体』(森田真生著。以下、本書)である(※1)。
 そしてこの度、積んでいたその本をようやく読んだ。
 人間の心や世界を数学によってわかろうとした人類の営みが本書には描かれていた。数学という概念が世界を知るためのアプローチに用いられるとは思いもよらなかったので感動した、という読書感想文的ななにかを以下に書いていこうと思う。

ゆる言語学ラジオとの親和性について

 まず最初に語られるのは数の話である。
 人間は生まれたあと、母親が自分ではないと気づき切り離して考えるようになる。数学では1があり2が続くが、人間の一生のはじまりにおいては2と1が同時に到来すると表現されていた。ほう。それっぽいことを言う語り口調きらいじゃない。
 次に数の認識の話になる。3までは瞬時に人間は認識できるけれど、4以上ではそうはならない。そこで体を使って数え始める。両手両足で20。他にも、トレス海峡諸島の原住民の話を出して、肘や肩なども使って33まで数えることを紹介する。
 3までと4以上では認識が違うという点は数字の表記にも表れている。漢字なら「一」「二」「三」と横線を並べていたのに「四」で違う形になる。ローマ数字なら「Ⅰ」「Ⅱ」「Ⅲ」で縦線だったのに「Ⅳ」で違う形になる。おもしろい、たしかにそうだ。という風にそんなには驚かなかった。なぜか。というより僕は違う点に感動していた。

 これ、ゆる言語学ラジオ※2)でやったやつだ! と。

 数と言語は関係が深い。というような話も水野さん(向かって右側。一介の言語オタク)が語っていた。僕は何気なく聴いていたけれど、今回それが更に腑に落ちた。
 それと同時に、堀本さん(向かって左側。仕掛け人)の専門分野にも関わる話が本書には多数出てくる。「アルゴリズム」や「アラン・チューリング」といった言葉が出てきたときに思ったものだ。

 これ、ゆるコンピュータ科学ラジオ※3)でやったやつだ! と。

 しかも著者はデカルトやプラトンを引き合いに出して、ゆる言語学ラジオの2人の感性を刺激する。僕は中学の頃(だったと思う)に『ソフィーの世界』という10代をターゲットにした哲学を題材にした小説を読んで、哲学面白いとなったので、当然僕の脳にも刺さる。
 様々な分野の知識を導入して作られた作品というのはやはり面白いものだ。数学の話だと思って読み始めたら、言語の話もあり哲学の話もある。数学に限った話ではないが、物事を説明するのに、一見それとは関係がなさそうなものを説明しようとするものの一側面に見出すことは重要だと思った。というか普段から思っている。似ているものや逆のものを否定して残ったものがその本質だと説明する手法もある。数学でも、対偶が真ならもとの命題も真だというのがあるように。『アンナ・カレーニナ』が群像劇として周りの人々を描くことでアンナ・カレーニナという存在を描いていたように。

 そしてもちろん、ゆる言語学ラジオも同様に様々な知識を使って楽しませてくれる。そこが面白いのだ。おかげで新たな知識を身につけることができた。北海道の人もゴミステーションと言うことも知った(※4)。
 他にもコネクティングザドッツみのある箇所がある。

 語源である。

 定理(theorem)――θεωρειν(therein)(※5)(「よく見る」という意味のギリシア語)由来だそうだ。
 ギリシア数学では、数学を何かに利用するのではなく、「数」や「図形」そのものをよく見て理解しようとしていた。

 もう一つ、語源。
 数学(mathematics)――μαθηματα(マテーマタ)(※6)(「学ばれるべきもの」というギリシア語)
 もともともっと広い範囲を指す言葉だった。
 そして著者はハイデガーを引用して自分の考えを述べる。

 語源、由来を知ると深くその物事を知ることができる、と思うがそれ以上に語源の話をしたくてうずうずしていたのだということが容易に想像できる(?)。僕も語源に興奮するタイプの人間なので。

 しかし一番どきどきしたのは、三平方の定理に対する註釈である。
 一般には「ピタゴラスの定理」と呼ばれるがピタゴラス以前から定理は知られていたとの記述がある。スティグラーの法則! エポニム! 「エターナルエンプティーはスティグラーの法則破りのエポニム」という名フレーズが頭をよぎった。ピタゴラスの定理はスティグラーの法則に則っているなんてそんな事は考えたこともなかった。そういう気付きに出会える面白さはゆる言語学ラジオと出会っていなかった自分には持ち得なかった面白さである。

数学する身体

 ここからは本書の中身の話になる。ゆる言語学ラジオはいったん置いといて。

 タイトルの「数学する身体」とはどういうことか。
 そもそも「数」という概念は人間が勝手に生み出したもので、自然界に存在するものではない(「数」を認識できる他の動物もいるだろうけれどそれは今の本質的な話題ではないので考えないものとする)。これもゆる言語学ラジオでやったやつだ。リンゴ2個は目の前に存在するけれど、2というものが存在しているわけではない。2個のりんごを見て(あるいは聴いて触って)人間がそれを脳で処理して2という概念を生み出している。人間の身体を通さないと(知覚し処理しないと)、「2」は生まれない。

 そして生み出した「数」を計算に使うようになる。紙とペンでなされていた計算は、次第に頭の中で想像上の数字を操作するようになる。道具としての数字が次第に自分の一部分になっていく。すなわち、「身体化」されていく過程である(p.42)。と説く。
 そして数学的道具や定理は数学者の行為を可能にする「足場」であり、それは数学が展開される場所である。数学者は自らの活動の空間を「建築」する(p.44)。

 数学は身体化され、建築も可能にする。建築することは数学することであり、建築そのものが数学であるとも言える。
 数学は道具であると同時に、それそのものが目的でもある。数学が発展すれば使える道具は増えてそれを足場にした数学という建築が出来上がる。と、そういうような意味でいいのだろうか。新しい定理を発見することは目的でもあるだろうし、その新しい定理によって新しいものを導くことにつながっていく。数学者にとってはそれは身体の一部になっている。

 というのが1章の話。

計算する機械

 2章は数学史の話である。古代ギリシア、ルネサンス期を経て近代へ。そしてアラン・チューリングの話が展開される。

 古代ギリシアでは、実践より理論、計算より幾何学的論証を重視していた。一方、インド起源の数学では、実用的な関心の中で計算を重視していた。
 それがやがてイスラーム世界で混じり合い、ヨーロッパへ。
 現代でいう代数が発展していく。しかし、12世紀以前には記号がなく、自然言語だけで展開していたという。
 驚きだった。著者もにわかには信じがたいと書いているが、そのとおりである。
「=(イコール)」という記号は16世紀まで発案されなかったようで、それまでは、「に等しい」という言葉を用いていたという。そして未知数だけでなく既知数も記号で表すことがこの時代にできるようになった(※7)。
 逆を言えばこの時代までできなかった。そういう発想に至っていなかった。ax^2+bx+c=0という一般式を人類はそれまで発明できなかった。
 記号化された代数に真理探究の方法の規範を見出したのがデカルトで、「事物の真理を探究するには方法(methodus)が必要である」と記した。そして古代ギリシアの幾何学的問題を代数的な計算に還元した。大きな飛躍であった。
 記号を手に入れた人類は、「無限大」や「虚数」という概念を生み出した。作図していた古代ギリシアではありえなかった。
 やがて19世紀になると、今度は数式と計算の時代から概念と論理の時代へと変わっていこうとしていた。
 どんどん数学は変化し発展していく。
「図と自然言語」→「数式と計算」→「概念と論理」

 ここまで数学史を大雑把に見てきて僕は思った。これ高校レベルで教えているのヤバない? 人類が長い年月をかけて見つけて編み出してきたものを20年も生きていない人間がたやすく知ることができ、身につけることができる。冷静に考えてすごい。12世紀頃までは記号もなく行っていたというのがやはり驚きだが、それ以上に、その行為を小学校に入ったら「1+1=2」と習うことのすごさ。学年を重ねるごとにどんどん複雑な計算を身につけることができるのはすごいし、それを人々に教え継がれてきたというのもすごい。数学なんて嫌いなくせに感動しっぱなしだった。

 2章の後半ではアラン・チューリングの話が展開される。
 チューリングは、「心」と「機械」を架橋する手がかりを、数理論理学の世界に見出したのである(p.91)。一般にコンピュータの父と呼ばれることのあるアラン・チューリングであるが、正直もっと冷たい印象を抱いていた。それこそ機械のようなという表現があるように。しかし彼は機械を使って心を理解しようとした。数学という紙とペンの上だったもの、思惟の世界のものの力を借り、機械というこの世界に広がりを持つものを利用し、心を探した。一見滑稽であるが美しいと思った。
 そしてチューリング機械を紹介し、どんなときにも数学をする人間の身体とともにあった数を、人間の身体から解放した(p.95)。
 解放されてしまった。しかしそれは人間が数学する身体をもっていたから、当然の帰結の一つのように思う。

 ナチスの暗号解読、チューリングテストの紹介(※8)、そして死。そうして2章は終りを迎える。
 20世紀はハイデガーの時代、という文句をどこかで聴いたことがあるだろうが、数学の世界では、「証明」や「計算」という行為そのものを対象化し、それについて数学的に研究する方法が開発された。その壮大な副産物として、コンピュータが産み落とされた(p.115)。……副産物! 21世紀人の我々としてはコンピュータのない生活などもはや考えられない。それを副産物と断じてしまう数学者の心強さよ。

 2章の最後の言葉を以下に引用する。

 身体から切り離された「形式」や「物」も、それと人が親しく交わり、心通わせ合っているうちに、次第にそれ自体の「意味」や「心」を持ち始めてしまう。
 物と心、形式と意味は、そう簡単には切り離せないのだ。

p.116

 こういうエモい(※9)文章が各地にあって良い本である。

風景の始原

 デカルトが見た幾何学の風景、カントールやデデキントが見た連続体の風景、岡潔が見た多変数解析関数論の風景。数学者の前には、常に風景が広がっているのであって、彼らはそれに目を凝らし、それをより精緻なものにせんと、まるで風景に誘われるようにして、数学をするのだ。
 数学者とは、この風景の虜になってしまった人のことをいう。

p.130

 3章では主に脳科学の話がなされる。
 だからといって、そこに数学があるのではない。大きな時空間の広がりを舞台として生起する(p.138)。
 脳科学の知見から人は数をどういうふうに捉えているか。数の認知と深い関係があるhIPSという箇所があって、でも計算するときはhIPSではなく左脳の言語にかかわる部分が活性化する。ここでも言語的なものだという感覚が現れる。数と言語の結びつきを意識しなかった僕なんかには驚きである。
 ラマチャンドランの「獲得性過共感」という概念が次に紹介される。眼の前で金槌で手を叩かれている人を見たら思わず手を引っ込めてしまう(ミラーニューロンが感覚をコピーしてしまうらしい)が実際に自分は痛くない。それは、実際に自分は触られていないという無効信号が出ているからだ。だそうだ。
 なら、幻肢患者(※10)ならどうか。
 この患者に同じように他人の反応を見せる。するとミラーニューロンが感覚をコピーする。でも腕がないから無効信号が出ていない。ので、痛みを感じた。
 この実験から、ラマチャンドランは「あなたの意識と誰かの意識を隔てているのはあなたの皮膚かもしれない」と述べているようだ。
 心というものや他人との共感というものは、いともたやすく行われるえげつない行為なのではないか。皮膚があるから違うものだと身体は判断して自己と他者を分けている。エヴァンゲリオンとかガンダムとかで他者とわかりあおうとするのに肉体からの脱却を図るのと同じ構図だ。でも我々は今のところ肉体を持って存在している。だからそれを利用しなければならない。だから「数学する身体」なのだ。数学によって世界を明らかにしようとする、心を探ろうとする行為に肉体が携わってきてしまう。肉体の呪縛から逃れられないなら肉体を道具として利用する。やがて人類は自らの肉体から機械へその役割を渡して、人間にはできない演算能力をもったコンピュータを開発した。でも物理世界の空間的な広がりを排除するには至っていない。ということだと解釈した。僕は。

零の場所

 第4章こそが本書の本題である。それはつまり著者の岡潔に対する評伝であり推しを語る章である。
 著者にとって岡潔という数学者との出会いが人生を変えることになる。ある日、古書店で『日本のこころ』という岡潔のエッセイ集を見つけて何気なく手に取った。当時文系の学部だった著者は数学の世界にのめり込み、最終的に理学部数学科を卒業している(そんなことある?)。という経緯が3章から語られていて、岡潔を語りたい思いが4章で形づくられていく。

 著者は岡潔の歴史を語るわけだが、その口調がよい。
 例えば、

岡は数学を客観視するよりも身体化すること、数学を対象化することよりもそれと一つになることへと向かっていく。

p.151

 とか、

脇道に逸れるのでなく、小道に逃げ込むのでもなく、岡は大道のさらにその先を切り開いていく覚悟である。

p.153

 というように。「岡は~していく」と確かに出来事を書いてはいるんだけれど、この書き方はまるで自分が書いている小説の主人公のようであったりその人物そのものになりきっているように感じてしまう。「こうして~したのであった」とか「~と考えた(に違いない)」とかならより客観的にその人物を描写しているように感じるけれども。

 そして芭蕉の話が始まる。

 なんで?
 というのは著者も思ったはずだ。岡潔のことを調べていて松尾芭蕉と出くわすなんて思わなかっただろうし、その驚きを、意外性を読者に伝えたいから書きたいだろうし、読者を驚かせたかっただろう。そしてそれが数学研究と繋がると気づき感じたそのカタルシスを書かずにはいられなかったのだ。きっと僕も同じようにオモシロイと思ったから書いているのだ。

どんな優れたアルゴリズムよりも、芭蕉が句境を把握する速度は迅速だ。

p.163

 なるほど?
 五・七・五の文字の羅列にすぎない芭蕉の句ではあるが、自然の中から句としてこれ以上ない文字列を選び取るのは至難の業で、そこには膨大な演算が必要なはずである。が、芭蕉はその読み取る能力がとても速かったから、的確に、最適なそして最良な五・七・五を生み出すことができた。
 岡はその境地には「自他の別」「時空の框」というふたつの峠を超えているからだと考えた。
 自他や時空などにこだわっていては生きた自然をそのまま描き出すことはできない。

 この他にも多彩なキーワードが出てくる。
 数学者の仕事は百姓のそれに近い。
「ないもの」から「あるもの」を作る。
「情」と「情緒」
「無心」から「有心」に還る。その刹那に「わかる」
 等である。

生成する風景

 終章は数ページのまとめである。そらそうです。
 チューリングの話、岡の話、そして数学する身体。
 僕はそれ以上語らない。
 きれいな言葉できれいにまとめられていていい本を読んだ、と思う瞬間である。ありがとうございました。

あとがき

 ミミズや星雲に感謝する言葉で締めくくられるあとがきが最後にある。
 僕の身体は数学するより読書する方が向いている。しかし、読書しているあいだ、僕の頭は多くの演算処理をしていて身体は数学しているのかもしれない。僕は数学のことなんてなんにも知らなかった。知りたくもなかった。本書を読んで少しだけ僕と数学の距離が縮まった。あんなに毛嫌いしていた数学なのに。この本に出会わなければ数学に対する感情はそのままであっただろう。その程度の感情はたった230ページの文庫にもかない(※11)。
 普遍的な物たちが本書を作り上げているからあらゆる物に感謝をする著者であるが、数学することを疑っている僕は、さほど数学していないと感じている僕はそういう物にまだ感謝できる生き物ではない。
 だから僕は会津若松に感謝する。

註(※12

(※1)

 各地の書店のブックカバーを蒐集している僕は旅先でブックカバーをもらうために見知らぬ書店で文庫本をなにか一冊買うという奇妙な趣味がある。会津若松に行ったのは2020年の2月だったように思う。

(※2)

ゆる言語学ラジオとは、いま一番熱いコンテンツである。この先も多々、ゆる言語学ラジオに言及する。視聴していない? 母語話者なのに?

(※3)

姉妹チャンネル。大泉洋の話があまりにも面白い。

(※4)

兵庫県の人も言います。そしてググったらけっこう日本各地で言うみたいである。ついでにゴミステーション関連で言うと、神奈川県西部で「燃えるゴミ」が「燃せるゴミ」と表記されているのを観測(2019.10)。

(※5)

ιの上に曲アクセント

(※6)

ηの上にアクセント記号。「マテーマタ」はそうルビが振ってあった。

(※7)

フランソワ・ヴィエト(仏1540-1603)が生まれた頃は未知数は記号(x等)で表していた。9x^2+6x+1=0というように。しかし、既知数(9、1、6)を記号で表すことはなかった。既知数を記号に置き換えたのがヴィエトである。ヴィエトは、未知数を大文字の母音、既知数を大文字の子音を使って表していたそうだが。

(※8)

チューリングテストを題材にした『エクス・マキナ』という名作SF映画が名作なのは周知のとおりである。

(※9)

えも言われぬ感興、という感じの方が個人的にはしっくりくる。エモーショナルとは少し違う意味で個人的には捉えている。

(※10)

腕がないのにあるかのように錯覚してしまうあれだ。ファントムペインとかいうあれだ。

(※11)

芥川龍之介『或阿呆の一生』の名フレーズ、「人生は一行のボオドレエルにも若かない」より。『或阿呆の一生』と『歯車』は何度読んだかわからない。つまり、(瞬時に認識できないということは)4回以上は読んでいるということだ。

(※12)

本書ではあとがきの後ろに註がまとめて書いてあって究極の出典や語の解説が載っていて、そういう本は好感度が高い。その反面、文庫本の後ろの方をいちいち行き来しないといけないのがめんどくさくもある。それにならって註をまとめている。物理的な紙の本よりスクロールするのがめんどくさいでしょう?


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