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「今目の前にいる人を助ける」インドの佐々井秀嶺と日本の高岡和尚に見た共通点

先日、インド仏教のトップに君臨する日本人僧侶・佐々井秀嶺さんについての本レビューを書いた。

その1週間後、私は取材で愛知県名古屋市にある徳林寺を取材した。

徳林寺の活動については記事を読んでいただきたいが、徳林寺の高岡和尚のお話を聞きながら「ああ、この人と佐々井秀嶺は一緒だ」と感じた。取材中に、胸が熱くなってしまった。

今日はそんなお話を書きます。

徳林寺の高岡和尚

佐々井秀嶺は、インド仏教の復興を目指し、インドの最貧層(多くはカースト外にいる人々)のために活動している。損得も省みず、困った人が尋ねて来たら必ず話を聞き、なんとかして助けてあげようとする。毎日佐々井氏を尋ねる人は後を絶えず、80歳以上と高齢でありながら、日々多忙に駆け回っている。

一方、徳林寺の高岡和尚は、以前から難民や生活困窮者を受け入れて来た。そして、新型コロナウイルスで帰国できなくなったベトナム人を大量に受け入れた。その数は総勢180人におよぶ。

チベット仏教の旗「タルチョ」がかかる徳林寺

高岡和尚は何も偉ぶった素振りは見せず、「私は何もしていませんよ。私はただ空いている部屋を貸しただけで、実際は多くの人が来て手伝ってくれました」と語る。

取材当日も高岡和尚は忙しそうだった。法要が突然入ったこともあるが、相談に来た人の話を聞いていた。やっと用事が終わり、取材が始まったのは14時を過ぎていたが、まだ昼食も取っていなかった。

私は「先にお食事を」と申し出たが、「大丈夫」と言い、小さなパンをかじりながら取材に応じてくれた。

そして、取材の最後に高岡和尚は言った。

「葬式や法要をしているだけでは、今の日本仏教はジリ貧になります。今社会では、多文化や貧困、戦争など様々な問題がある。これらはみんなのテーマです。お寺もそういったテーマや社会が求めていることをしていかないといけない。お寺としてできることをやる。すると自然と協力してくれる人も現れます」

佐々井秀嶺と高岡和尚に見た共通点

高岡和尚の言葉を聞いて、私は佐々井氏を思い出した。本の中で、佐々井氏は日本仏教に対して疑問を持っている場面が度々あった。「僧侶はただお経を唱えていれば、それでいいのか?今困っている人々のために何かをするべきではないのか?」と。

今の日本では、ある意味形骸化した仏教が「葬式仏教」として揶揄されることも多く、私も疑問を感じることはあった。

しかし、佐々井氏と高岡和尚は、そうではなかった。住んでいる場所も、やっていることもまるで違うが、私は二人から共通したものを感じた。二人とも「今目の前にいる困った人のために」自分にできることをしていた。

高岡和尚と佐々井氏の姿が重なったとき、私は胸が熱くなった。佐々井氏は、インドに渡りインド仏教のトップにまで上りつめた人。本を読み、私は佐々井氏に尊敬の念を抱いたが、その存在は遠い。

しかし、佐々井氏と同じ気持ちを持つ高岡和尚は、今私の目の前にいる。その存在をリアルに感じられる。

なんとありがたいことだろうかと思った。

徳林寺を取材したときに行われていた花まつり(お釈迦様の生誕を祝うお祭り)

1週間前に佐々井氏の本を読み終え、取材という形で高岡和尚のお話を聞くことができた。めぐり合わせを感じずにはいられない。

佐々井秀嶺と高岡和尚に出会えたことに、深く感謝する。


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