Anti-War Collective

戦争と軍事化をめぐる社会運動論、エスノグラフィー、社会学、音楽、文学・・・その他雑多な。

Anti-War Collective

戦争と軍事化をめぐる社会運動論、エスノグラフィー、社会学、音楽、文学・・・その他雑多な。

最近の記事

コロナウイルスと社会の軍事化

新型コロナウイルスの感染拡大は現在進行形の政治・社会・経済の変化を加速させているだろう。 たとえば、この事態を「戦争」にたとえる言葉が目につくようになった。ウイルスは海外から、国境を越えてやってくるテロリストと変わらない。日本社会は純粋で除菌された美しい空間で、それを犯す「奴ら」が外側から入り込んできた、と。国民国家とは一つの身体として想像される。 そして、いま、国内での感染拡大が急速に進むなか、恐怖や不安が広がり、感染者を糾弾したり、批判する言葉が広がっている。「感染者

    • 我々には譲り渡すことのできない直接的な権利がある

      1966年、ベ平連は米国からハワード・ジンとラルフ・フェザーストーンを招き、約2週間にわたって、日本各地(当時米国施政権下にあった沖縄をふくめて)でティーチインをひらいた。以下のテクストは、オーガナイザーの一人でもあった鶴見俊輔による回顧である。タイトルからしてすばらしい。「ヤミ市と市民的不服従――アメリカの平和運動から何を学ぶか」(1967年1月)。 鶴見がこのテクストで強調しているのは、次の二点。 一つは戦争を考えるにあたって代案主義に陥ることの罠。代案主義はあらかじ

      • 社会運動の語り方

        安保法制反対運動をめぐってたくさんの言葉が生まれている。追いきれないほどである。 顕著な傾向は次のような点にあるのではないだろうか。 (1)現在の運動の可能性を高く評価すればするほど、過去の運動とその歴史を単純化、過小評価してしまう。60年代〜70年代の暴力イメージが強固なものとなる。 (2)現在の運動の中心に設定されているSEALDs(的なもの)――これ自体があるまとまりをもって論じられがちだが、丁寧にみていけば、多様であるし、さまざまな志向性が混じり合っているとも思

        • 前のめりにならないこと

          以下はネットで目にした「絶望エクソダス」の「安保法案 成立」から。 もちろん初めて運動に参加した人や、多くの反対の輪が広がってるし、SEALDsだけにこの間の反対運動の動向を見てとるのも誤りだと思う。だけど、facebookとかツイッターでの私の周りの人々ーーおそらく何十年も運動を続けてきた古参の方々が、あっさりとSEALDsをもちあげて、賛同してしまうのが信じられないし、中堅の研究者で過去現在の積み上げられてきた議論をチャラにして何も批判しない、できない状態に陥ってい

        コロナウイルスと社会の軍事化

          メモ 2015年9月18-19日 国会前

           夕方5時半頃に国会前に到着。国会のなかでは、内閣不信任案がとりあげられていたはずだ。まだ、法案自体の投票は行われていない。国会の外の抗議の声に押されるように、野党の国会議員がそれなりの――しかし遅く、不十分すぎる――抵抗をみせ、法案の審議はずるずると遅れていた。国会前の空間は昨日と同様だった。車道は一車線ずつ「開放」されており、中央部分はがっちりと警察・機動隊車両が並べられたままだ。  国会に向かって右側の車道から国会前に向かって入っていく。入ったところで、小さなドラムサ

          メモ 2015年9月18-19日 国会前

          メモ 2015年9月17日 国会前抗議行動

           9月17日、安保法案抗議のための国会包囲行動に参加した。現場に到着したのは15時くらいだったと思う。  電車を降りて、国会前に向かう道でまず気になったのは「ブース」がどうのこうの、「ブースの左側を通行するようお願いします」といったアナウンスや看板設置が警察によってなされていたことだった。最初、「ブース」が一体何なのかさっぱりわからなかった。警察に問うてみると、警察が設置したコーンのなか、抗議する人たちが押し込められている場所を「ブース」というのだと説明してきた。意味がまった

          メモ 2015年9月17日 国会前抗議行動