我々には譲り渡すことのできない直接的な権利がある

1966年、ベ平連は米国からハワード・ジンとラルフ・フェザーストーンを招き、約2週間にわたって、日本各地(当時米国施政権下にあった沖縄をふくめて)でティーチインをひらいた。以下のテクストは、オーガナイザーの一人でもあった鶴見俊輔による回顧である。タイトルからしてすばらしい。「ヤミ市と市民的不服従――アメリカの平和運動から何を学ぶか」(1967年1月)。

鶴見がこのテクストで強調しているのは、次の二点。

一つは戦争を考えるにあたって代案主義に陥ることの罠。代案主義はあらかじめ「押し負けてゆくばかり」の政治になってしまうこと。

もう一つは、それゆえ、代案主義の装置として機能する代議制度――「幻想」――から距離をとること。その根拠として「政府のいうとおり合法的にやっていたらば、死んでしまう」という戦後のヤミ市の経験が述べられている。

読んでいて古びていないと感じる。「沖縄だけが違っている」というのは、いまも同じかもしれないし、代案主義やベターな選択にのめりこんでいく学生や学者の姿を、現在、私たちはよく目にするのではないか。

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 彼らが繰り返し言いながら、日本の学生たちにたいへん解りにくかったという問題があるのです。それは、代議制度の欠陥というふうな問題なのですけれども、こういうことを言っています。アメリカでは、代案を出せということを繰り返し言うような、そういう反抗運動がある。

 しかし、ベトナムでどういうふうなことが代案として通用するか、ということですね。それについて、平和運動側が、実現できる代案を出せないじゃないかというふうに言うと、ぎゅっとつまるわけです。こういうふうな代案主義で闘えば、被圧迫階級は、必ず損な立場になります。権力を持っている人は、代案についていろいろな手を加えることができます。それは、情報組織をもっておるし、そして、自分の権力の操作というものに慣れていますからね。権力というのも、自転車や自動車と同じように一種のメカニズムをもっているわけです。普通の市民が、政府の政策が危険だと思って、それに反対する場合には、代案主義に陥ったら押し負けてゆくばかりなのです。

 ところが、日本の学生の中にはやはりこの代案主義が非常に強くありまして、何が実現可能かという問題を考え易い。というのは、実は日本の大学生というのは既に莫大な数に達していて、明治時代と違う今、彼らが支配者の列に上がるということは不可能です。にもかかわらず、彼らが明治時代と同じように、非常な、こう、エリートであって、未来の日本の支配者になれるのだという幻想を、政府の側は作り出すし、大学の学長なんかもそういうような仕方で学生の自尊心をくすぐっていると思います。そこに幻想があるわけです。したがって、大学生というのは、未来において日本の支配者になれないのにもかかわらず、支配者の立場に立って、ベトナムにおける代案は何かと、つまりアメリカの大統領であり、また、日本の総理大臣であるかの如くものを考えたがる。ここに一種の落とし穴があると思うのです。代案主義で考えている以上、ベトナムの問題というのは絶望的な問題であって、これは、平和運動なんてやったって意味ないな、というふうにだんだんなって、押し負けてゆくわけです。

 我々がしなければいけないのは、ここに正しくないことがある、政府が悪いことをやっているという時には、それを良くないと言って、繰り返し、徹底的に押しつめてゆく、そのことによって、政府部内においても、より良い代案主義者が少しは力をもつように、そういう仕方で働きかけなければいけない。したがって、自らが代案主義だけで考える立場に陥るということは、危険なことです。

 これは議会制度の擁護という問題ともぶつかるわけですが、我々は議会制度を認める時に、全部を議員に任したりするわけではないわけです。で、多数党がいいとしたことに、必ず、あらゆる面で従わなければならないという哲学に立つならば、またここで我々は押し負けてゆく立場に立つほかはないのです。ジン氏たちが代表する哲学は、「我々には譲り渡すことのできない、何らかの直接的な権利がある。だからこそ我々は、直接行動の権利を自分に保有しなければならない。どうしても良くないことというものは、政府が何と言おうとも、批判する、最後まで批判し続ける、そういうエネルギーを自分の中に育てなければいけない」という考え方なのです。これは非常に大切なことだと思います。

 我々は、敗戦直後にはそのことを知っていました。なぜかというと、ヤミ経済がありまして、そのヤミをして米の買い出しにいかなければ、食えないわけですからね。政府のいうとおり合法的にやっていたらば、死んでしまうわけですから、今、日本には人間は一人もいないはずです。我々は買い出しに行ったりなんかして、法律を犯してやるわけで、これはある種の直接行動なのですから、したがって我々は、直接行動の権利をみずから保有し、それを公使してきたわけです。ところが二十年経って、だんだんに安定経済になってきますと、そういうふうな直接行動の意味、その意義という価値観念が、だんだん日本人の中に薄れてきて、議会で多数をとったものは、悪いことでも、決めたことだからやらなきゃいけないんじゃないか、何とかより良い代案を考えてくれ、ということになれば、こりゃもう、高等官僚が一番それに適しているわけで、どんどん、どんどん、押し負けていくわけです。

 ですから我々は、徹底的に政府の戦争政策に反対するためには、非常に悪いことに対してはもう最後まで自分の権利を守って、直接行動に訴えて、それに最後まで反対するというエネルギーを作っていかなければならないのです。これは一つの哲学上の立場であって、我々は敗戦後にそれを会得していた。にもかかわらず、急速に我々の体の外から皮膚感覚が消えているわけです。それをもう一度取り戻さなければならないということを、彼らは教えてくれていると思います。こういうことは、札幌から福岡までの日本の学生、学者たちには、たいへん解りにくかった一つの肉体的な哲学だったと思います。沖縄ではちょっと状況が違います。彼らによると、沖縄だけが違うところだったということを言っています。(小田実編『市民運動とは何か』徳間書店、1968年)