前のめりにならないこと
以下はネットで目にした「絶望エクソダス」の「安保法案 成立」から。
もちろん初めて運動に参加した人や、多くの反対の輪が広がってるし、SEALDsだけにこの間の反対運動の動向を見てとるのも誤りだと思う。だけど、facebookとかツイッターでの私の周りの人々ーーおそらく何十年も運動を続けてきた古参の方々が、あっさりとSEALDsをもちあげて、賛同してしまうのが信じられないし、中堅の研究者で過去現在の積み上げられてきた議論をチャラにして何も批判しない、できない状態に陥っていることも危機的な状況だと思う。新たに芽生えてきた運動に期待を持ち、自らも鼓舞して盛り上げ役に回らないといけないというのもあるのだろう。だけど自分の運動への目覚めを美化しながら、全体状況も好転しているというようにはとらないでほしい。一種の高揚状態によって、国会前で如何に規制があるかとか、だれがどのように運動の中で排除されてきたかをみる方が、ことの本質が見えるように思う。
この文章に励まされる。このかんつくられてきた路上での抵抗運動の現場には、ここで指摘されているような、賛同や美化を通じた排除や忘却がある。単純な反対や批判を通じての排除や忘却だけでないことがやっかいだと思う。
しかし、一方で、次のような文章に接した。
「復興」や「民主主義」という言葉に対してでさせ嫌悪感を持つようになった。自分の力ではどうしようもない何か、それが私にとっての「社会」のイメージである。原発の実態で露わになった、無力感と恐怖感と絶望と怒りを生み出してきた「社会」。東北にいけばせっせと防波堤の工事が進んでいるし、沖縄の辺野古ではオスプレイを仰いで座り込みを続けている人々がいる。(芝田万奈「絶望の国で闘う」『現代思想』2015年10月臨時増刊号「安保法案を問う」)
芝田さんはSEALDsのメンバーとして活動をされている。SEALDsのなかに、「平和国家としての歴史」を前提する現状認識ではなく、日常において感じる厳しい日本社会の暴力が感受されている。マスメディアで流布されているSEALDsとその実態の多様さとのあいだに、ズレがあるようにも思う。「絶望の国」という言葉の重さ。だからこそ、SEALDs賛同の声が「平和国家・日本」言説へと収斂しがちな現状への違和感がつのる。
前のめりにならず、歩むこと。前のめりにならず、情報を受け取り、読み、考えること。それが今、求められている。