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個別な物語をいかにして認めるかーハンナ・アーレントから考える多様性のあり方

▫️ハンナ・アーレントからみるアイヒマン

制収容所でユダヤ人虐殺に当たった執行官吏たちは必ずしも、ユダヤ人に対する狂信的な憎しみに駆られて熱狂的に殺害を実行したわけではない。何も感じていないかのように、上から与えられる命令に黙々と従って、ユダヤ人を収容し、強制労働に従事させながら管理し、死へと至らしめた。

仲正昌樹『今こそアーレントを読み直す』現代講談社新書(2009) p.60-61

前回の投稿からだいぶ時間が経ってしまいました。今回は、フランス現代思想の流れから興味を持った、ハンナ・アーレントを引用しながら「多様性」について考えていきます。読んだ本はこちら。

ドイツ出身のユダヤ系政治思想家であるハンナ・アーレントは、アドルフ・アイヒマン(元親衛隊(SS)中佐、ユダヤ人移送の責任者)のイェルサレムにおける裁判を傍聴し、”陳腐な悪”もしくは”凡庸な悪”と表現しました。

彼(アイヒマン)は自分のしていることがどういうことか全然わかっていなかった。完全な無思想性ーそれが彼があの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だったのだ。

『イェルサレムのアイヒマン』みすず書房(1994) p.221

アイヒマンは、最初からナチ党への入党を希望していたわけではなく、石油会社で販売員として勤めており、世界恐慌の影響で失業。その後弁護士のアドバイスを受けてナチ党に入党しています。
アーレントから見たアドルフ・アイヒマンは、熱狂的使命感からユダヤを強制収容所に送り込んでいたわけでもなく、自分の命が危ないから仕方なく命令にしたがっていたわけでなく、「与えられた職務を淡々とこなす、陳腐な役人であった」のです。

言い換えれば、「私」自身も『アイヒマン』になり得る、ということだ。

仲正昌樹『今こそアーレントを読み直す』現代講談社新書(2009) p.66

私たちが仕事をしているとき、無批判に流れ作業をしている瞬間が多かれ少なかれ、消費者にとって不利益が生まれるものを作っている可能性がありませんか。誰のハピネスにつながっているのか不透明だが、やれと言われた事なら仕方ないのか。「良い」と思ってやっていることは、誰にとっての「良さ」なのか。
アーレントからすれば、誰もが「アイヒマン」である可能性があるということです。

▫️多様性となんでもありの大きな勘違い

各人が自分なりの世界観を持ってしまうのは不可避であることを自覚したうえで、それが「現実」に対する唯一の説明ではないことを認めることである。他の物語も成立し得ることを最低限認めていれば、アーレントの書き出す「全体主義化」の図式に完全に取り込まれることはないだろう。

仲正昌樹『今こそアーレントを読み直す』現代講談社新書(2009) p.57-58

「世界観」は、本文の中で「方向性」という言葉でも表現されています。フォン・ユクスキュルのいう環世界と解釈して問題ないかと思います。自分の物語が存在するなら、他者の物語も存在する。当然ですが、人の上に立つ立場の人が部下に対してであったり、身近な人であったりする場合、この他者の物語は忘れられがちと感じます。

ここで問題になってくるのが、身近な相対主義である、どこまで人の多様性を認めればいいのかという点です。例えば、「私は寝るのが好きだから、働きません。」と言っているのは尊重すべき意見でしょうか。じゃあ、自分の子供が「Youtuberになりたい。」というのはどうでしょうか。
我々は、何が許容できる他者の物語で、何が許容できない他者の物語なのかを判断する基準を持ち合わせていません。少なくとも、私は日々悩みます。アイヒマンはなぜダメで、私が無批判に行った仕事のせいで、誰かに迷惑をかけるのは仕方ないことなのか?

▫️全体主義に陥らないための「人格」
アーレントは、上記の問題に対しても答えを用意しているように思います。

大事なのは、その人の振る舞いが、人間の”自然本性”に適っているか否かではなく、「公的領域」における「現れ=登場=見せかけ=仮象 appearance」として一貫性があり、それが他の市民たちに認められているか否かである。心底から”善人”であるかどうかではなく、「良き市民」という役割を、公衆の面前で演じきれているかどうかが問題なのである。

仲正昌樹『今こそアーレントを読み直す』現代講談社新書(2009) p.142

アーレントにおける「公的領域」は何かという話を始めると、終わらないので、「社会活動をする場所」くらいに考えておいていただきたいです。(本当は、「労働」「仕事」「活動」という言葉を、アーレントは区別して定義しています。)

ルソー的な”自然本性”をアーレントは批判しています。とにかく見せかけでも、他の人に認められるように善人を演じなさいということですね。前提として「複数性」という概念があることを忘れてはいけません。

複数性とは、単に複数の人間が一緒にいることではありません。人々が異なる見方や考え方を表明し、交換し合えるような状態が、アーレントのいう複数性という概念です。

斎藤哲也『入試に出る現代思想』NHK出版新書(2022) p.199

簡単にまとめると、「社会活動をする中で、自分が人々と異なる意見を交換し合える関係性を構築しながら、嘘でもいいから善人でありなさい。」と言った感じでしょうか。他者には他者の世界観があり、それは誰にも否定できない。ただ、一緒に社会活動を行なっていく中で、意見の不一致があれば交換を行う。そこで新たな世界観(方向性)が生まれる。このようにして、人格を失った機械でなく「人格」を持って働くことができます。

▫️「見せかけ」という希望
「現れ=登場=見せかけ=仮象 appearance」とアーレントが述べている言葉は決して、「本当の自分」を殺すようなネガティヴな意味ではありません。(そもそもアーレントは、生まれながらの「人間性」に懐疑的です。)「本当の自分」なんて自分にも分かりませんし、誰にも定義できません。

現れ=見せかけ=仮象」などを意味する英語の〈appearance〉に対応するドイツ語〈Schein〉には、「輝き」という意味もある。各人が、生のままのヒトとして振る舞う私的領域ではなく、「人格」という「仮面」を被って自らの「役割」を演じる「公的領域=現れの世界」においてこそ、「人間性」が「輝く」のである。

仲正昌樹『今こそアーレントを読み直す』現代講談社新書(2009) p.142

「偽りの自分」「仕方なくやっている」「好きでもないことをやっている」とか言わずに、仮面を被って、「自分の」意見を持ってみる。そして、他者と交換してみる。思考を均一化するのでなく、私が持つ差異から生まれるものを、公的領域に少し組み込んでみる。これが、ヨーゼフ・ボイスのいう社会彫刻で、多様性なんだと私は考えます。やらない善よりやる偽善でいいってことで。

▫️最後に
言いたいことが中々整理がつかず、最初想定していた内容とはどんどんずれて行ってしまいました。本当は、大きな物語と個別な物語をどのように両立させるかということが書きたかったです。
ジャン=フランソワ・リオタールの『ポスト・モダンの条件』において、大きな物語の解体が宣言されたことは有名ですが、以前として大きな物語は存在しているように思います。その説得力は無くなっていますが。その中で個人の物語をどのように位置付けていくのかが、両立につながると考えているのですが…。
まあこの文書も、微々たる社会彫刻で、やらない善よりやる偽善ということでいいかなと思います。

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