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決定的な存在の不在ーデ・キリコのメタフィジカルな旅

To live in the world as if in an immense museum of strangeness, full of curious multicolored toys…         

パリ手稿1911-14『Giorgio De Chirico: Metaphysical Journey』in 東京都美術館

◼︎イタリア広場シリーズ

《バラ色の塔のあるイタリア広場》
1934年頃、油彩・カンヴァス
トレント・エ・ロヴェレート近現代美術館(L.F.コレクションより長期貸与)
© Archivio Fotografico e Mediateca Mart
© Giorgio de Chirico, by SIAE 2024

まずは、一番印象的だったイタリア広場シリーズに注目したいと思います。記載している絵は、すべてデ・キリコ展公式HPからの引用になります。

1910年にフィレンツェに移ったデ・キリコは、ある日、見慣れたはずの街の広場が、初めて見る景色であるかのような感覚に襲われます。これが形而上絵画誕生の「啓示」となりました。「イタリア広場」のシリーズはその原体験と密接に関連しており、柱廊のある建物、長くのびた影、不自然な遠近法により、不安や空虚さ、憂愁、謎めいた感覚を生じさせます。

https://dechirico.exhibit.jp/gallery.html
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂 Piazza del Duomo, 50122 Firenze FI, イタリア
フィレンツェの街並み

フィレンツェにある、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂や街並みを見てみると絵本の中にいるような、建物がはりぼてのような印象を受けます。
線形で幾何学的な建物の重なり、その建物の影が織りなす陰影。キリコにもおそらく、背景の空と一体化した空間ではなく、フィレンツェの街が背景から浮き出た異邦的な世界(不自然な遠近法)として見えたのでしょう。

◼︎粘着する影と問い

イタリア広場シリーズを見ながら「柱廊のある建物、長くのびた影、不自然な遠近法により、不安や空虚さ、憂愁、謎めいた感覚が生じ」るのはなぜか?という問いが生まれました。

先ほどフィレンツェの街並みを例に考えましたが、「長くのびた影」について深掘りをしてみたいと思います。デ・キリコの作品における影は、かなりはっきりと濃く描かれている印象があります。

《イタリア広場(詩人の記念碑)》
1969年、油彩・カンヴァス ジョルジョ・エ・イーザ・デ・キリコ財団
© Fondazione Giorgio e Isa de Chirico, Roma
© Giorgio de Chirico, by SIAE 2024
《不安を与えるミューズたち》
1950年頃、油彩・カンヴァス マチェラータ県銀行財団 パラッツォ・リッチ美術館
© Giorgio de Chirico, by SIAE 2024

◼︎「秋の午後」の感覚

地面にべったりと粘着するように描かれた影にはどんな意味があるのでしょうか。ニーチェから影響を受けた「秋の午後」という感覚について見ていきましょう。

デ・ キリコは「ある澄んだ秋の午後」に啓示を受け、そこで着想した絵 に《ある秋の午後の謎》という題を付した。この「秋の午後」という設定は、先にも述べたように、『ツァラトゥストラ』の「至福の島々で」の設定と重なる。

市川直子著 ニーチェの芸術論の余波 : (2)ジョルジョ・デ・キリコとミケランジェロ p.33
https://www.google.com/url?sa=t&source=web&rct=j&opi=89978449&url=https://omu.repo.nii.ac.jp/record/4532/files/2009200471.pdf&ved=2ahUKEwi0houJjryGAxUaePUHHXOBCJ0QFnoECCAQAQ&usg=AOvVaw2Y0Co07hFnpaaUmtYYlfMy

デ・キリコ展の中でも、ニーチェからの影響について言及されていて、おそらく、キリコがフィレンツェで受けた〈啓示〉の感覚を、ニーチェの「秋の午後」にも感じたのでしょう。

この方のブログでは、粟津則雄著の『思考する眼』を引用してキリコについて触れています。粟津則雄は、「秋の午後」に影が長くのびることを太陽の位置関係から説明しており非常にわかりやすかったので引用しました。

この詩情は、私に言わせれば、秋の午後の情調にもとづいている。その頃には、空はきよらかで、かげは、夏のあいだよりも長くのびるようになっている。太陽が低くなりはじめているからだ。この異常な感覚は、イタリアの町々や、ジェノヴァやニースなどという地中海沿岸の町々で味わうことが出来る。

https://www.johf.com/log/20180612b.html

絵の中で描かれている影は、ニーチェの「秋の午後」の感覚を示していることは分かりましたが、キリコを語る上では当たり前の事実ですし、結論として少し物足りない気がします。ここからは、私が何を考えたかについて書いていきます。

◼︎時間という決定的な存在の欠如

Art is a timekeeper; it endows breath into materials. It is a traveling message between humans across centuries. —Sarah Sze

https://gagosian.com/artists/sarah-sze/

さて、突然ですが、影はどうやってできるのでしょうか。Wikipediaによれば「物体や人などが、光の進行を遮る結果、壁や地面にできる暗い領域である。」と述べられています。光源は基本的に太陽ですよね。

キリコの絵には、影があるのに太陽が描かれていません。そして、長くのびる影は、その場から動き出す気配がありません。さらに、イタリア広場シリーズや形而上的室内、マヌカンシリーズにおける空は、緑色(濃い青)で時間を失っています。
キリコの絵は、「秋の午後」で時間が固定されてしまっているのです。

《予言者》
1914-15年、油彩・カンヴァス ニューヨーク近代美術館(James Thrall Soby Bequest)
© Digital image, The Museum of Modern Art, New York / Scala, Firenze
© Giorgio de Chirico, by SIAE 2024

マヌカン(マネキン)が「理性的な意識を奪われた人間の姿」(デ・キリコ展ではこのような説明がありました。)だとすれば、風景は、時間の経過を失った街の姿と言えそうです。

◼︎問いに戻って

「柱廊のある建物、長くのびた影、不自然な遠近法により、不安や空虚さ、憂愁、謎めいた感覚が生じ」るのはなぜか?という最初の問いに戻りましょう。

個人的な結論は、建物や不自然な遠近法、長くのびた影は、「秋の午後」で時間が切り取られていることを表しており、見慣れた世界が全く別のものに見えた瞬間(=キリコが受けた〈啓示〉の瞬間)を切り取っているから、不安や空虚さ、憂愁、謎めいた感覚が生じるのではないか、というものです。

フィレンツェの街並みで見たように、それは私たちにも訪れる可能性があります。キリコの絵では、マヌカン(マネキン)たちからは理性的な意識、街(風景)からは時間の経過と、決定的なものが抜け落ちています。
理性や時間という存在が、抜け落ちることを表現したキリコの絵は、不安や空虚さはもちろん、いつものようでいつものようでない憂愁や謎めいた感覚を呼び起こしてくれるのだと思います。

◼︎あとがき

自分としては、少し考えが足りない(全く足りないことは前提で)気がして、不完全燃焼でこの記事を書き終えることになりました。ニーチェを読んだり、別の芸術や哲学の本を読んだりして共通点を見出していければ良かったですが、読書量が足りないですね。

太陽は結局、《イーゼルの上の太陽》という作品で、展示的には初めて描かれるのですが、充電式の太陽というかケーブルで繋がっている感じで、時間経過というよりは、パッとついてパッと消えるような太陽をイメージしているのかなと感じました。いずれにせよ、突然そこに現れたような感覚がシュールレアリスムと繋がっているんでしょう。

展示の中で、キリコにちなんだヨーロッパの街並みを映像で見ることができまして、かなり幾何学的で規則的な(少なくとも当時の日本では想像ができない)建築が、ギリシャやルネサンスの時代から受け継がれてきた装飾で飾られていると、確かに〈啓示〉を受けてもおかしくないと感じさせられました。
キリコにとっては、世界がおかしなものの連続(an immense museum of strangeness, full of curious multicolored toys…)であり、もしかしたら私たちにとっても世界はそうなのかもしれません。それを見る眼がないだけで。

是非、デ・キリコ展行ってみてください。


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