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特別鼎談「ことばって何?」川添愛・川原繁人・三木那由他@ブックファースト新宿店


まえがき:なぜこの鼎談に参加したか?

 筆者の来歴、属性を記すことで一(端/旦)のアンサーとさせてもらう。
■京都の大学で哲学を学ぶ
┗言語哲学、分析哲学、科学哲学を専攻するゼミ
■幼いころから「ことば」に対する病的な偏執がある
┗誤字指摘は日課。言葉遊びを当記事にも散りばめている
■声優オタクであり、ヒプノシスマイクが大好き
┗推しは新宿division。ドヒフLOVE
┗大正教養主義にずっとコンプレックスがあるので、
 サブカルオタクとして哲学していきたいなーと思っている今日この頃
  ┗cf.竹内洋『教養主義の没落』中公新書、
    村上陽一郎『あらためて教養とは』新潮文庫 etc…
さて、鼎談の流れをなめながら、自分ごとの問いとして筆の乗るまま書いていこう。

学問を社会に還元する、役に立てるということ

 いきなりクリティカルな問いだな、と感じるとともに、答えは明確だった。
お三方とも、積極的に還元・紐づけを行っていくという姿勢だった。例えば、三木さんの専攻である、分析哲学、言語哲学。哲学というものは一見「社会的有用性・実用性に直結しない」と思う反面、SierにてSEをしていると「すぐに役立つものはすぐ役に立たなくなる」と常々感じている。即興で作ったExcel関数、プログラムにハードコーディングしてある定数、テスターとして育てられたプログラマー、とか。
 三木さんのおっしゃった通り、哲学は「現実世界の概念を探究する」ので、いわば思考の「フレームワーク」を問いという形で提供する。古代でいえば「助産術」、中世なら「否定神学」、近代なら「止揚(aufheben)」などが好例であるが、こういった思考の鋳型を、現代でも意識的にしろ無意識にしろ適用しながら我々は思索を巡らせている。

学問に誠実であるということ

語りえぬものについては、沈黙しなければならない。

ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』

 学問に誠実であれば誠実であろうとするほど、そこには沈黙しか残らない。上記、ウィトゲンシュタインの結論は私にとって大きな倫理的抑圧となった。というのも、規範意識の強い私には「言わぬが花」「沈黙は金なり」といった格言同様、沈黙を美徳とし、内在化したその道徳に則るよう聞こえて仕方がなかったからだ。※上記結論は通例、「理性の限界は言語(表現)の限界である」という綜合的言明(synthetic statement)と解釈される。はず。※道徳/倫理の使い分けは遵法精神/立法精神という区分に従っている。
 ウィトゲンシュタインを原典講読していたのは2014年。6月にちょうど「文学部不要論」が興った。哲学の「なぜ?」と問い続ける姿勢を失ってしまっていた私は、何も言うことができなかった。
 同様の事態が三木さんの活動中でも起こった。ある差別的言説が流布し、それに対する倫理的反論に関して確信・確証が持てないため、結果的に、その言説に一石を投じるであろうと思われた学者たちは沈黙を選んだ。
 このように、学問または科学としての妥当性を担保すればするほど、現実世界で発生している出来事に対する発言ができなくなる。
 果たして、学問に誠実であることは、沈黙は、そんなに美徳なのであろうか。大学院を「修道院のような場所」と言ってのけたフランス哲学の教授は、学問のドメスティック化に加担しているだけではないのか。たとえ、学問的に正しくない方法でも、論理的な飛躍があったとしても現実世界への諫言/還元を辞めてはならない。そんな力強い姿勢を私は鼎談から感じ取っていた。

言語学の知見は?

主張することに対するハードル
分析から実践的提言に至る
メソッド化しない←一般化しないということ?
口頭的多義性
言語学のテーマは「事実」だと書かれる⇒「正しさ」を伴う
「事実」⇔「規範」(帰納と演繹ってことでしょ
観察と分析というbelief(信念)
言語の流動性を担保する
哲学⇒「事実」の記述(description)は少ない
三木さん「結果的に自分ごととしての哲学」

プロレスを切り口にした川添愛『言語学バーリトゥード』
カラーを控えた、具体例の豊富さ
川原さん「切り口は見つけるの!」
┗「せーので跳べって言ってんの!」
語彙とコミュニケーションの話題が依頼されがち

コミュニケーション論としてのグライスは間違っていた
⇒マニュピレーション
鈴木孝夫『言葉と社会』中公新書か岩波新書⇒名づけが世界を認識・成立させる

⇒⇒「大胆なことは一般書の方が書きやすい」「essayという形式」

ChatGPT

会話の背後に人間がいることを忘れない
人間同士の交流⇒CGと区別する点
言語モデル→人間のリテラル・バーバル
5000億words
背後に「細切れ」「ぶつ切り」な人間がいる
プラグマティズム:意味により、行為が変わる
┗コミュニケーション
CGが行為してくれるか?発話が行為になるか?
→まだ一部。AIに社会的権限と義務を付与する
しまじろうbotに子育てを任せられるか?
TVで子供は学ばないというデータ
生の、人間同士のインタラクティブなコミュニケーションが必須
川村さん「子供に対するリスクを考慮するとコンサバにならざるをえない」
共同チュウイ?

声の性別イメージについて

高さが決定的
ピッチと口道の長さ(響き)
社会的要因、摺り込み
日本語の方が音声学的に高い
→ジェンダーフリーの意識が作用して低くなっている
身体レベルの口伝:メラニン法、ささやき法、裏声法
⇒surviveの方法として必要
ささやき法:メスの排卵期に声帯の粘液分泌

言語学・哲学って「役に立つ」?

個人の体験から役に立つ
教育(言語教育)への貢献
→realに分断
外国語学習に演繹できる

自然言語と人工言語の対比から人間とは何か?

「共有」人間の方が大きな頭脳
→言語はシナプス 
#集合無意識、集合知の話?
┗西垣通『集合知とは何か?』中公新書

三木さんの哲学との出会い

高校生のころ、西田幾多郎やデカルト『方法序説』に出会った
→「役に立たない」学問をやってやろうとして哲学を専攻
→2回生の時、トマス・アクィナスとの出会いで転機
#『神学大全』ですかね?
#私は高校1年生のとき、世界史の恩師に「文系と理系どっちがえらい?」という問いに「政治・文化・社会を司るのは文系」という答えを持ち、そこから歴史好き、ことばへの偏執から文学部に行くことを決めました。周囲が関東圏の大学へ行く反発精神と、恩師の縁で「東京以外で学びたい」と関西の大学に進みました。哲学との出会いは日本史の滅法思想とか世界史のギリシャ哲学(特にプラトン)だった気がします。真剣に哲学しようとした転機は2回生で講読したマルクス・アウレリウス・アントニヌス『自省録』でした。

私の結論

子曰、辭達而已矣。

衛靈公第十五、仮名論語244頁






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