見出し画像

2022年2月11日

我がホームライブハウスつくばPARKDINERが今年で27周年を迎える。
厳密に言えば最初の店舗のオープンは3月12日。
そして2004年に移転したのが4月1日。周年として本月間は4月に統一にすることになってから早15年以上が経つ。

そんなわけで2022年4月でパークダイナーは27周年を迎える。ご存じの方もいるかと思うが、昨年に二度目の移転をしたので現在三店舗目になるわけである。そして毎年大概この時期は最初の店舗"二の宮"を思い出す。

時折この話はしているが、1997年秋の始め頃に当時のパークダイナーを訪れた。いわゆるショットバーであり、前オーナーがいかにも"ママ"といった佇まいでいて、更にパリッとスーツとヘアースタイルを決め込んだバーテンダーである当時の店長の二人に迎えられた。ステージらしきスペースはあり、基本生音のシステム。当時はその環境にそれほど違和感はなかった。むしろライブ出来る場所があることが喜ばしく、すぐさまライブを決めた。勿論ブッキングなど存在してないので、持ち込み企画である。

当時一緒にエントリーしにいった年下の仲間バンドとのツーマンライブ。そしてオープニングに後輩のコピーバンドを迎え3バンドでの初パークでのライブが1997年の冬の始まりだったと記憶している。

初ライブは100人近く動員した。あの頃の20歳前後の若者たちはライブハウスが遊び場になっていた。勿論クラブも存在していたが。携帯も本当に数人程度が持ってる程度で、ネットもまだ普及し始めたばかりの頃。

パークダイナーのライブのシステム(会場代や今でいうチケットシステム等)もまだできていなく、その集客に大変驚かれた。前オーナーから後日"またライブやりませんか?バンドを集めてもらえないか?"という電話が続いた。その当時は共にエントリーした仲間のバンドと更に大きなキャパであるつくば市内のクラブで共同企画のイベントを計画していたため、それが大きな目的ではあったが、その後パークダイナーでも定期的にライブをすることになる。そして店にも頻繁に呑みに行くようになり自然とバーテンダーとしてスタッフ活動がスタートする。

スタッフになったとは言え、その当時は"ライブハウスのスタッフ"という自覚はまったくなく、自分も22,23歳だったので遊び半分だったと振り返れる。今だから言えるが、ライブハウススタッフとして地元を盛り上げるなどという気もなかったと思う。単にライブが出来るだけで良かった。

その後パークダイナーは出演するバンドも増え、共に入った仲間のスタッフの尽力もあり、いわゆるライブハウスへと少しづつ変わっていった。数年後自分は一時期スタッフとしては店を離れた。そして2003年に戻ったタイミングの際に一度目の移転の話が具体化されていた。※実は移転は2001年に計画されていたが、諸事情で2004年となった経緯もある。

移転した際に自分は店長に就任。責任は大きい。とは言えど移転してからはジェットコースターのような日々。当時はまだ20代であったが、まだ地元を盛り上げるという気持ちは浅かったと言える。というより店を維持するのに必死でその気持ちを持つ余裕すらなかった。自分のバンドを活動するのが何よりも最大のモチベーションであったのもある。

自分の世代は10代の頃バンドをやるには上京しなきゃ、という風潮がまだあった時代。成功する(いわゆるメジャー)目的もなく、地元で音楽活動をするというのは主流でなかったと思う。勿論その当時も地元にはアンダーグラウンドなバンドやミュージシャンは存在していたには違いないが。自分のスタンスとしては、もともと上京の夢もなく、かといって地元で有名になりたい、というものもなく。本当に楽観的に音楽活動を楽しんでいた。それを中地半端に思われていたかもしれないし、その当時はもったいないと声をかけてくれる人も数人いた。

あれから20年以上が経ち、紆余曲折ありながらも自分はハコと共にバンドを続けている。あの頃を一ミリも後悔していないし、いわゆるブレがあったらハコもバンドも続けられなかっただろう。今でもある意味活動には楽観的である。それでもあの頃と大きく違うのは地元とは何か。自分がやってること、やれることは何なのかがわかったこと。それは経験でしかない。積み重ねであり、特定のこの出来事が大きく変えたということでもない。とにかく日常の生活と共に"やりたいことを続けた"としか言えることがない。やりたいことを叶えるために避けることより、乗り越えたことのが多かった。決していわゆる成功など出来たわけでもないし、自慢できる活動でもない。だがしかし、自分がやりたいことはほぼ叶えている。叶えられたのもたくさんの心ある人たちの協力や支えも大きくあった。それはすべて地元にライブハウスがあったから。そこに自分がいられたからである。そしてその大小やいわゆる成功した人と比べるのは愚問である。

もし自分のような音楽人、が少しでもいたならやっぱり地元にライブハウスは必要だ。勿論自分のような人間だけじゃない。人の数だけ音があり、夢があり、スタイルがあり、スタンスがある。一定のルールがある中で、そんな数多くの異なる音楽活動家が擦れ合い、刺激し合い、基本自由にいられるのが自分の理想のライブハウス。

そしていまだに成功に向かい、都内へ全国へチャレンジし続ける人間もいる。見事成功した仲間もいる。そんな彼らが各地でツアーをする際には必ずその土地土地にライブハウスがあり、更に地方には自分のような境遇のローカルミュージシャンも多い。逆に彼らを地元に迎えるときこそ自分のような存在は大きくアイデンティティを感じる瞬間がある。

つまりこのライブハウスで活動していたことがすべて周囲を巻き込むことであり、活性化することであり、数々の人たちと出会えたことでもあり、地域を盛り立てることであり、後進を育てていくということであった。

慈善事業でないため、経営も然り決して思いだけでは店は維持できない。が、時代に揉まれながらも、音楽活動の元来持つ熱量や創作意欲、そしてそれを表現する空間や瞬間が消えることのないように、その場所を大切に維持するのが今までもこれからもそれがすべて。あくまでも"やりたい人間がやれる"ために。どんな時代も演者もスタッフも切磋琢磨で。

店がオープンして27年が経とうとしている。ショットバーだったパークダイナーはいっちょ前にライブハウスとなった。まだまだこれからである。あの頃の自分のような人間や、方法はわからないが何かやりたいと思う人間がこの時代にも必ずいるはず。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?