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ウィルバーと私(その2):ウィルバー理論の不備

この「ウィルバーと私」というシリーズを続けるにあたり、全体の「地図」代わりに、ウィルバー理論の不備な点、いわばインテグラル理論の必ずしもインテグラル(統合的)ではない部分を、まず最初に概観しておきたいと思う。

●「タイプ論」の不備


ウィルバーが提唱するインテグラル理論(特に人間学としての統合理論)のもっとも基本的な概念として「AQAL」というのがある。これは、All Quadrants(全ての象限)とAll Levels(全てのレベル)の略だが、私はこの「L」の部分に「Line(ライン)」を加える必要があると思っている。「All Quadrants, All Levels, All Lines」ということだ。
それだけではない。実はウィルバーが描いている人間学をより統合的にとらえるなら、ここにさらに「All Types」を加える必要がある。つまり、人間の「タイプ論」ということであり、人間の性格や個性は、いったいどこからやってきて、どのように形成されるのか、というテーマを掘り下げる作業になってくる。このテーマだけでも分厚い書物一冊分になるような内容のはずだが、このタイプ論に関し、ウィルバーは「人間の性格類型としては、たとえばエニアグラムといったものがある」という程度の深め方にとどめている。
人間の性格や個性を語るのに、ひとつの例としてエニアグラムを出して終わりとは、それはいくら何でも手抜きだろう。
ついでに申し上げておこう。エニアグラムは大変興味深い性格類型だが、私たちが人間関係においてもっとも興味があるはずの「相性」の問題に関していえば、エニアグラムだけでは何もわからない。
ちなみに私は、人間同士の「相性」(ただし恋愛関係上の相性ではない)を測る独自の「類型」を考案している。私はこれを「循環型人間関係論」と呼んでいる。これに関しても、いずれ詳しく語りたい。

●「魂理論」の不備


ウィルバーにとって、様々な世界宗教が共通に提唱している「存在の大いなる連鎖(入れ子)」すなわち「物質(身体)-心-魂-霊」という階層構造(ホロン)の概念は、極めて重要な概念のはずであり、この4つの連鎖について、それぞれ独立して取り上げてもいいくらいだ。つまり「身体から心へ」のプロセス、「心から魂へ」のプロセス、「魂から霊へ」のプロセスについて、それぞれ個別に段階を踏んだ説明があってもよいはずなのだ。
ところが、特に「魂」の段階について、ウィルバーはまとまったかたちではほとんど語っていない。
そもそも「魂」とは何かに関し、ウィルバーはかっちりとしたかたちで定義していない。せいぜい、「アートマン・プロジェクト」において、進化の逆方向としての「内化」というプロセス(つまり死後の内的プロセス)の「主体」として「魂」という言葉を用いているにすぎない。あとは、曖昧なかたちでこの言葉を用いている印象だ。
どうやらウィルバーにとって「魂」の段階とは、「心」の段階から「霊」の段階に至る過渡的な段階に過ぎないようだ。
しかし、私の経験からすると、「心」の段階を「含んで超え」ようとする人は、「霊」の段階に至る前に、かなり長い期間「魂」の段階を経験するのではないかと考えている。この段階で一生を終える人も多いはずだ。つまり、「魂理論」は「インテグラル人間学」の中で、もっとも大きく取り上げられてしかるべきものだと、私は考えている。
おそらく「魂理論」についてもっとも多くを語っているのは、ユング派心理学者のジェイムズ・ヒルマンだろう。私は、ウィルバー理論とヒルマン理論を統合することが、ひとつのライフテーマだと思っている。

●「自我論」の不備


「自我」とは何かに関するウィルバーの見解も曖昧だ。
ウィルバーは「進化の構造Ⅰ」(春秋社)の中でこう述べている。
「私が自我(エゴ)という言葉を使うときは、フロイト、ピアジェ、ハーバーマスの用語に近い、狭い意味で使っている。外界から、社会的役割から、内的な衝動(イド)から差異化された合理的で個別の自己の意味である」
しかし、この定義は、必ずしも「狭い意味」ではなく、むしろ「自己」のかなりの範囲を「自我」がカバーしてしまうことになる。
ところが、ウィルバーにとって、人間の意識が成長・発達するとは、段階を踏んで「純粋な自己」へ接近することによって、「自我中心性」が少なくなっていくプロセスである。それがウィルバー発達論のもっとも基本的な考え方だ。
ただ、ウィルバーはその一方で、「一貫性が保てるなら、自我をどのように定義してもかまわない」というようなことも言っているので、私はお言葉に甘えて、自我を「成長・発達の各段階において、自己防衛的反作用を引き起こす自己システムの要素」と定義している。これによって、「意識=自己」とは何か、あるいは「無意識」とは何かに関して、「ウィルバー・モデル」から「AKモデル」へのモデルチェンジを行なっている。

●「夢学」の不備


ウィルバーは、「夢とは何か」について、ほとんど語っていない。
夢学の専門家として、これは極めて残念なことだ。なぜなら、私自身の「夢学」の集大成として「インテグラル夢学」を体系化してみて、つくづく実感するのは、ウィルバー理論と夢学の「親和性」の高さだからだ。
ウィルバーは「夢に関しては、自分はユング派だ」といったことを言っているようだが、そもそもインテグラル理論は、「無意識論」の部分だけを取り出してみても、「ポスト・ユング」あるいは、もっとはっきり「超ユング」の性格が強い。なぜウィルバーは「夢論」の部分だけユングに甘んじるのか。これは、「夢とは何か」に関してだけ「ポスト・モダン」になっていないことを意味する。
はっきり言っておくが、夢学に関するウィルバー理論の不備を、私が埋めて見せている感がある。

●「時間論」の不備


人間が経験し得るもっともトータルな心的(あるいは内的)プロセスとして、ウィルバーは「進化」と「内化」のプロセスを描いてみせている。ごく簡単に言うと、人はこの世で生きている間は「進化」の道を辿り、死んだ後は進化のまったく逆のプロセスである「内化」の道を辿ることで、再び次の生の出発点へと戻る。これがいわば「魂のサイクル」である。こうした「円環性」「回帰性」を見るなら、ウィルバーにとって、時間は円環を成すもののようだ。もちろんウィルバーは、円環を成す時間性からの「解脱」も描いてはいる。
ウィルバーは、「アートマン・プロジェクト」の中で、「チベットの死者の書」を背景に、きわめて高い進化を果たした存在が、輪廻やカルマといった現象を完全に免れる(解脱する)ことについて触れている。つまり、解脱した魂は、「時間」の外に出る、というわけだ。そのことをウィルバーは、別の場所で、「ビッグ・バンから始まる時間の流れの外にある自己」といった言い方でも述べている。
しかし、私たちは生と死のサイクルから、いきなり「時間」の枠を取り払われた何の手掛かりもない遠大な「空(くう)」の世界に放り出されてしまうような印象だ。
これはあまりにも突き放し過ぎではないか。
アインシュタインの一般相対性理論ではないが、時空の歪みの最たるものであるブラックホールの中に、いきなり放り込まれるような感覚を覚える。
私は個人的には「時間論」もホロン階層構造としてとらえるべきだろうと考えている。

●心理学面での不備


これはウィルバー理論に限らず、いかなる既存の心理学理論をもってしても太刀打ちできない相手がいる。いわゆる「サイコパス」と呼ばれる人たちだ。ウィルバーの心理学理論は、明らかに発達論であり、ウィルバー自身はトランスパーソナル心理学に端を発している。ところが、発達論をもってしても、超越論をもってしても、とらえ切れないのが「サイコパス」と呼ばれる人たちの心理だ。しかし、御存じの通り、サイコパスたちは一定の人口比で存在し続け、彼ら・彼女らによる深刻な被害は後を絶たない。
私もこれに関してはお手上げだ。今はただ、実情を知るしかない。将来、サイコパスをも「含んで超える」新しい心理学が登場することを切望する。

以上、ウィルバー理論の不備な部分を、思いつく限り、ざっと挙げてみた。また思いつくかもしれないが、今回はこの辺で。

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