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私が母に読ませた最後の本

先日、94歳で他界した母は、とにかく読書好きで、向学心のかたまりのような人だった。
私がブック・オフのビニール袋をぶら下げて買い物から戻ると、「どれ、見せてみろ」と、そのビニール袋を必ず要求するのだ。
一冊一冊にチェックを入れ、いちばん目に留まった一冊を、さっそく紐解いて読み始める。
最晩年には、すっかり視力が衰え、老眼鏡を二重にかけたうえに、本のページにルーペをあてて活字を追っていた。そのような不自由な視界の方が、かえって集中する、とでも言わんばかりで、その活字たちは、貪欲に水分を欲している母の乾いた畑にスーッと入っていくようだった。
「この人は、冥途の土産にいったい何を持っていこうとしているのだろう」と、私はいぶかったものだ。

私の本選びの観点に、いつしか「この本を母に読ませたらどうなるだろう」という基準が混ざり始める。
何の巡り合わせだろうか、そんなつもりもないまま、結果的に母に読ませる最後の一冊になってしまった本がある。
そのとき私は、講演会を間近に控えていた。「いじめ」に関する母との共著の出版記念講演会である。2020年の夏に出版された本だが、コロナの影響で、この手の講演会の開催が足掛け二年ずれ込んでしまった。
講演会の参考資料として役立ちそうな本を探してブック・オフ巡りをしていた私は、一冊の本に目が留まった。

島田妙子・著『虐待の淵を生き抜いて』(毎日新聞出版)

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著者は、実父と継母から激しい虐待を受け、二度死にかけたという。その後、同じ虐待の地獄を生き抜いた兄を失い、父親も自殺によって亡くす、という経験の持ち主だ。
その経験から、今は虐待の「加害者」の支援に奔走する毎日を送っているという。

講演会の準備を優先させなければならなかった私は、まず母にこの本を読ませて感想を聞こうと思った。買って帰って母に渡すと、さっそく読み始めた。
もちろん通読して、ということではないだろうが、翌日母は、こんな感想を漏らした。
まず、この本に書かれていることは、本当にあったことなのか、と母は私に確認する。そうだよ、と答えると、母は溜息交じりにこう呟いた。
「日本の男は、どうしてこんなに荒れてしまったんだろう・・・」

まるで、自分がすべての日本人男性の母親ででもあるかのような、いや、男女を問わず、日本人とも限らず、人間全体の心の荒廃を嘆くかのような一言だった。
母のその嘆息は、この難問に本気で自ら答えを出したいという意欲ともとれるし、私に最後の宿題を出した、ともとれる。

目の前の現象に対する母のこうした反応は、そのときに始まったことではない。
3.11東日本大震災のときのことだ。
当時母は、宇都宮で独り暮らしをしており、時間はたっぷりあったため、とくに原発事故の成り行きをテレビで熱心に追っていた。
私が母のもとを表敬訪問すると、母はさっそく私を相手に嘆いてみせるのだ。
これは、自然災害というよりは、むしろ人災ではないか。いわば、政治家による国民いじめである。今の日本の政治家は、私より若年者である。私から見ればどいつもこいつも青二才ばかりだ。そんなケツの青い人間が、けしからん。
嘆きはいつしか義憤に替わる。
そして、最後には「お前、この腐った世の中をどうにかできないものか?」ときた。

人の心の荒廃、政治の荒廃をどうにかする・・・重いタスキを渡された後進としては、とりあえず渡されたものはしっかり受け取りました、と言うしかない。

これまた何の巡り合わせだろうか、母が息を引き取ったまさにその日、まるで何かのスイッチが切り替わったかのように、ロシアがウクライナ侵攻を始めた。
私は思わず考えてしまう、母が生きていたら、プーチンに何と言っただろうと・・・。


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