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人生とは、因果論から目的論へ向かう旅である

私たちは、「因果論」にあまりにも強く囚われている。
「過去→現在→未来」という一方通行の時間の流れを、あまりにも絶対視しすぎているのだ。
「私が今現在ここにいるのは、両親が過去に行なった行為の結果である。私の親が存在するのは、そのまた親が過去に行った行為の結果である」
そのように次から次へ遡られる時間の連鎖・・・その行きつく先に存在するのは世界最古の人類。それを仮に「アダムとイヴ」と呼ぶなら、アダムとイヴが行なった行為が、その後の人類の運命を決めたと・・・そして、その延長線上に人類の未来があると・・・。「原罪」の上に成り立つ未来? 「加害者・犯罪者が人類の未来を作る」だって? では、その犯罪の被害者とは誰か?

因果論はさらに言う。
「あなたが今現在そういうあなたであるのは、両親という運命だけでなく、育ってきた環境という運命、生まれた時代や国という運命による結果である。この原因と結果は変えられない」
対立概念として扱われているはずの「氏(遺伝子)」と「育ち(環境)」という二つの「運命」は、結局のところ、このようにして手を結び、ともに「因果論」に加担する。
そこで因果論は畳みかける。
「あなたの未来は、あなたが背負っているすべての運命の当然の帰結としてあるのだ」
こうして因果論は、あなたの人生に、自分のではない誰か他の人の(あるいは集団的な)人生の「脇役」的感覚、場合によっては一種の「被害者意識」を巧みに忍び込ませる。
結局、因果論はこう言いたいのだ。
「それは、あなたの人生のように見えて、あなたの人生ではない。人生という文脈の中に、あなたが組み込まれているだけなのだ。あなたは運命という歯車のひとつにすぎないのだ」

一方、目的論はこう言う。
「あなたの運命が、未来からあなたを手招きしている、“こちらへいらっしゃい”と。もちろん運命の女神は、あなたがどこへ向かうべきかを知っている。そこには、隠された目的があるのだ」
あなたの魂が、この世に降り立つ前から携えてきたはずの、今生の人生の目的・・・。それは、両親や環境に対するあなたの態度、思考や行動のパターン、複数の選択肢の中からひとつを選ぶときの傾向といったものの中に見え隠れしている。
「人生とは、それを紐解く旅なのだ。人の数だけ目的がある。だからこそあらゆる人に生きる価値がある」
その価値とは、因果論が決して与えてくれないものだ。
目的論は、究極的にはこう言うのだ。
「あなたが背負っているすべての運命。親も環境も時代も国も、すべてはある目的のために、あなたが自分で選んだもの。あなたの目的は、あなたが選んだすべてのものの中に隠れている」
そう、もちろん運命の女神は、その隠された目的が何たるかまでは教えてくれない。ただ、あなたが運命の軌道に乗っているか、逸れているかで、「Yes」か「No」かを示してくれるだけだ。
言い換えるなら、目的論とは、因果論が道具にしている親や環境や時代や国といった運命すべてを内に含んで、なおかつそれらを超えたところに私たちを導くものである。
目的論は、あなたが担っているすべての運命を束ねて運ぶ紐のようなものなのだ。

因果論は、あなたを過去へと引き戻すかもしれないし、人生の推進力になったとしても、せいぜい後ろから背中を押すだけで、つま先を向ける方向までは示してくれない。その方向は「偶然」か、せいぜい「自由選択」だと言うだけだ。
目的論は、未来に待っているはずの人生の最終目的地へ向けて、私たちを方向づけようとする。
だから、人生とは、本質的に因果論から目的論へと向かう旅なのだ。
もちろん、人生の旅の究極的な目的は、旅が終わってみるまでわからない。
ただ、目的の「影」のようなものだけが、旅路を支えている。


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