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ウィルバーと私(その5):ウィルバーの世界的評価

■ウィルバーの世界的評価

ケン・ウィルバーは現存する最も特筆すべき傑出した、世界最高峰の思想家と言い切って間違いないだろう。それはすでに、ウィルバーに対する世界的な評価として定着している。いや、おそらく過去数百年を振り返っても、これほどの人は見当たらないだろう。
何がそんなにすごいかと言えば、23歳のときにはすでに、主に心理学の分野で、それまで望まれていながらも誰も成し遂げられなかった西洋思想と東洋思想の統合を、いわば「意識学」というかたちで成し遂げてしまった、ということだ。
それを皮切りに、宗教学、科学、物理学、社会学、そして神智学という具合に、あらゆる知の領域を横断して、それらを統一されたひとつの理論的枠組みの中に位置づけ、そしてついに「万物の理論」にまで到達してしまった人なのだ。

そんなウィルバーを、こんなふうに評する人もいるらしい。
「二十一世紀にはまさに三つの選択肢がある。アリストテレス、ニーチェ、さもなければウィルバーだ」
まあ、この一言だけでも、ウィルバーの世界的評価を物語るに充分と言えば充分だが、あえて言うなら、ウィルバーはアリストテレスもニーチェもとっくの昔に「含んで超えて」いる、と私は思っている。
もちろん、アリストテレスからもニーチェからも、学ぶべきものはまだまだたくさんあるだろう。しかしウィルバーの出現によって、それぞれの時代を代表するこの二人の偉大な思想家も、すでに「古典(過去の存在)」になってしまった感がある。
つまり、アリストテレスを読むのもニーチェを読むのもいいのだが、今現在の「知の最先端」であり、なおかつ「最深層」を知りたければ、真っ先にウィルバーを読むべきなのだ。

ついでだが、ウィルバーを次のように例える人もいるようだ。
「意識研究におけるフロイト」
「心理学におけるアインシュタイン」
もちろん、これらはウィルバーのある一面を語っているにすぎない(しかも初期の)。
つまり、ウィルバーは知の最先端であると同時に知の「全体像」でもあるのだ。私たちは、ウィルバーを通して、自分たちが生きているこの世界(外面も内面も含む)の全体像を概観することができる。ウィルバー理論は常にもっとも大きな世界地図(ビッグ・ピクチャー)なのだ。この世界地図は、この先数百年は(細部のパーツ交換はするにしても)全体として更新する必要もなく通用するだろう。

ウィルバー思想の日本における紹介者の一人である岡野守也氏は、次のように言う。
「ケン・ウィルバーは、現代アメリカの、というよりは現代の世界の、もっともすぐれた思想家の一人であり、二十一世紀という海図なき嵐の海で漂流・遭難することなく航海し続けるための、今望みうる最善の羅針盤、最高の水先案内人であると思う。」
私もまったく同感。

■ウィルバーの私的評価

私も岡野氏に倣って、ウィルバーを評してみよう。
ウィルバーという人は、まるでエベレストのように屹立する「世界の屋根」である。つまり、知のもっとも高い位置にある「源流」である。中流域・下流域は、その源流の恩恵を受けつつ、海まで流れ着くだろう。
また、私たちが道に迷わないように打ち上げられ、私たちに常に正確な「位置情報」を提供してくれる「人工衛星」でもある。私たちがもしドライブ中に道に迷い、自分の今いる場所をなるべく正確に知りたいと思ったら、GPSを通して人工衛星にアクセスするのがいちばんのはずだ。まさにウィルバー理論は、私たちが人生の道に迷ったとき、あるいは世界の中での自分の立ち位置を測りかねたときに、自分の正確な「現在位置」を指し示してくれるだろう。それは個人の人生にとどまらない。全人類の「現在位置」をも示唆する。そして同時に、私たちが目指すべき最終的な目的地もだ。もちろんそれは、地理的な場所ではないし、過去・現在・未来というような単一方向の時間軸が示すものとも限らない。

たとえばあなたが、フロイト、ユング、ウィリアム・ジェームズといった先駆的心理学者たちの本を読む気があるなら、その前にウィルバーを読んでほしい。
もちろん、あなたがピアジェ、マズロー、エリクソン、アサジオリ、スタニスラフ・グロフなどに代表される、発達心理学、トランスパーソナル心理学、サイコシンセシス、ホリスティック思想といったものに興味があるなら、やはりウィルバーを避けて通ることはできない。
あるいは、たとえばあなたがフーコー、デリダ、レヴィ=ストロース、ドゥルーズ、ラカンといったポストモダンの旗手たちをかじってみたいと思うなら、その前にまずウィルバー理論に触れ、そもそもポストモダンとはどのような時代なのか、どのような課題を抱えているのかを認識するところから始めることをお薦めする。
観念論、現象学、記号論、構造主義、実存主義など、いかなるモダンおよびポストモダン思想学派をもってきても、ウィルバーがより本質的・包括的・統合的に語っていない分野はないだろう。
もしあなたが、仏教や禅、あるいはもっと源流に遡って古代インド哲学、もしくは東洋思想全般について勉強してみたいと思うなら、やはりウィルバーをその入り口にすることをお薦めしたい。
あるいはまた、シュタイナー、カスタネダ、クリシュナムルティ、アラン・ワッツ、グレゴリー・ベイトソン、アーサー・ケストラーなど、精神世界や神智学、ニューエイジ、ニューパラダイム、ニューサイエンスといった分野に興味があるなら、やはり道に迷わないようウィルバーを水先案内人にすることをお勧めする。
もっとジャンルを飛び越えて、物理学、医学、生物学、進化論、エコロジー、システム論、社会学、教育学、芸術論、あるいは資本論でもいい、文系・理系を問わず、とにかくあらゆる学問分野に関し、あなたが既存の理論に飽き足らず、むしろある種の疑問や問題意識をお持ちなら、ぜひウィルバーが示す統合的な方法論に注目していただきたい。

上記のような広範な「知」のジャンルに関し、あなたが包括的に把握すべく、任意の100冊を選んで読む気がおありなら、ウィルバーの著作から任意の10冊を選び、それをそれぞれ10回ずつ読むことをお薦めする。もちろん私がそれをすでにやり終わっているわけではないが。

今まで私たちは、地球の地図を描いてきた。おそらく宇宙の地図もかなり詳しく描き始めているだろう。歴史という名の時間地図もだ。生命進化の系統樹という地図、そして私たち自身の生物学的設計図であるゲノムという地図まで。
私たちは、すでにかなり正確に、この世界の森羅万象の地図を描いているだろう。しかし、その地図には今までほとんど「手つかず」だった部分がある。そこを埋めなければならないし、同時に、欠落も含め、すでに描かれた地図をも含めた、より包括的・統合的な「万物の地図」を描く必要もあるだろう。
ウィルバーがやろうとしたことはそれだ。しかもすでにやり終えた感さえある。
ウィルバーが描いてみせたものは、この世界の最も包括的・網羅的な「地図」であり、おそらくその地図の中での私たちの寄って立つ「居場所」なのだろう。しかし、それでもウィルバーはこう言うだろうが、「地図はあくまで地図であり、現地と混同してはいけない」と。

実際にウィルバーはこんなことも言っている。

『いつかわたしの墓に、誰かがこう刻んでくれたら、本望である。「彼は正しかった。しかし、あくまで部分的であった」と』

■ウィルバーへの反論への反論

ウィルバーが描こうと試み、すでに描き終えた感さえあるその「万物の地図」は、あまりにも遠大であるゆえ、おそらく、アメリカのアカデミズムの世界でも、その「地図」の欠点・問題点を必死にあげつらい、何とか論破しようとしたり、ある意味寄ってたかって非難しようとするような動きもあるようなのだが、どんな反論も「部分」なのだ。その地図の全体像は、どのような部分的論破の試みをもってしても、びくともしない。そのような無謀な挑戦をしようとする輩は、木っ端微塵に(文字通り細かい断片に)打ち砕かれる。
それはまるで、「象」という巨大な生き物を描写するのに、ある人はその尻尾だけをあげつらい、「これは象ではない」と言い、またある人はその鼻だけを指差して「これは象ではない」と言って非難しているように聞こえる。それは、極めて不毛で空虚な議論だ。そういう人に、「じゃあ、象の全体像を語ってみろ」と言っても、できないのだ。ウィルバーも言うように、どれだけ「地図」の噂話をしても、それは「現地」ではない。逆に言えば、「現地」に到達した人には、もはや「地図」など必要ない。

ではなぜ人は「部分」にばかり気を取られるのか、それには理由がある。
今までの(今でもだろうが)科学がやってきたことは、全体を細部に分解し、分類し、ジャンル分けし、それぞれのジャンルのそれぞれの細部だけを取り出して、それを顕微鏡で眺め、見えるものをツギハギしたものを「全体」と呼ぶようなことだった(いや、ツギハギさえしてこなかったかもしれない)。しかも、その全体的地図世界からは、地図作成者本人が決定的に欠落していた。もちろんそれは本当の「全体」とは呼び難い。
一方ウィルバーは、地図作成者本人も含めた(主観も客観も含めた)全体地図を常に描こうとしてきた。細部も重要だが、まずは全体。各論にいく前に概論が間違っているのでは話にならない、といったところだろうか。
おそらくその単純明快な「真理」を、ウィルバーは繰り返し語っているが、人はなかなかそれを信じようとはしないようだ。これは実に困った現象だ。

■日本でのウィルバーの読まれ方

さて、そんなウィルバーは、日本でどれだけの知名度があり、その著書はどれだけ広く深く読まれているのだろうか。
ちなみに本家アメリカで見ると、彼の代表作の一つ『万物の歴史』は刊行直後、全米の人文書のベストセラー第一位になったという。また、有名なところでは、米国元副大統領アル・ゴアが、ウィルバーの著作を読んで絶賛し、特に『科学と宗教の統合』に推薦文を寄せている。
一方、日本の副首相あたりがウィルバーの本を読んで絶賛するといったことは、逆立ちしても起きないだろう。
日本でウィルバーの何らかの著作(邦訳)が、人文書のベストセラー第一位になったという話も聞かない。
すでに20冊ぐらいは出ているはずの邦訳も、そのほとんどが絶版状態のようで、大手書店の棚にずらりと揃って並んでいる頼もしい光景など見たことがない。せいぜい古書店で一冊・二冊見かけるのが関の山。アマゾンを覗いてみると、ウィルバーの古本が軒並みプレミア価格になってしまっている。つまり、すでに流通在庫がない稀少本扱い、ということだ。
どうやら、ごく一部の専門家、研究者か、さもなくばよっぽどの物好き(好事家)ぐらいしか読まない、というのが実情のようだ。これが日本の知的レベルなのだ。
最近かろうじて若い翻訳者が出てきて、ウィルバーの著作を新訳再版し始めたようなので、期待するばかりだ。

さて、かくいう私のようなウィルバーの個人的研究者の役割とは、難解でやや取っつきにくいウィルバー理論を、どれだけわかりやすく噛み砕いて、多くの人に伝えるか、ということだろう。それを今までもやってきたし、これからも続けるだけだ。

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