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大原御幸・おつう伝説の悲憤

はじめに

御霊伝説の類型的パターンとは、
「遺恨を持った相手に、眼前
(顔の見えない相手に対する誹謗中傷などの間接的な手法でなく、最もシンプルな形式で互いの命を脅かすことのできる位置)
にいる自分を脅威として認識されないとき、己の存在すべてを無視されたように感じて、内から外に怒りを噴き出す」というものであると、noteで述べた。

これを鑑みたとき、平家物語の大原御幸のくだりと、京都大原のおつう伝説との間に、奇妙な共通点がみられることに気づく。

大原御幸

おつう伝説


『寂光院残照』の大原御幸

永井路子は『寂光院残照』内で、後白河法王に対する※建礼門院平徳子の心情を鋭く推察している。


「私たちをここへ追いやったのは、いったい誰なのか」
「それ(檀ノ浦入水)以来_生きることが、死よりもずっと苦しいということを刻々に味わいながら、ここまで来られたのだ。」
「_それだけの苦しみを与えたのはどなたです。そしてまた、ここまでおいでになって、何をいまさら女院におたずねになりたいのです」_阿波内侍_

※阿波内侍に語らせた建礼門院の無念な情況とは、本人の心情はかけ離れていた
(ぞっとするほどの無関心と無感覚さだけがこのお方を支えていた)
という様に描写されている。

二つの出来事の比較

大原御幸
自分たちをここに追いやった当人の法王が、そのことについて心の痛み、心の翳りというようなものを、ひとつも感じてはいらっしゃらないように、無邪気に山奥へ訪ねてこられるという状況。

おつう伝説
自分を捨て、元いたこの里に返した後、当の殿様が(鯖街道にある)この里を通って京に上るという状況。

これらの状況に共通する心情とは、男方への「どの面下げて」という憤りである。

未達成の復讐

しかし、おつうの報復が、本懐を遂げることはなかった。若狭の殿様のお付きの武士だった○某が、殿様に向かってきた彼女を討ち果たした。
なぜおつうは討ち果たされたのだろう。
僕の所見では、怨恨を晴らしてしまった復讐者というのは救いようがない。その心は陰惨で孤独なものとなる。
これが阻止された要因は、おつうと○某にある。

おつうの側に、激情の中でも一片の優しさ、強さ、理性、自らを踏みとどまらせる逡巡があり、
○某の側に、現実主義、義侠心、配慮、敵前に立ちはだかる勇気があった。
このような両者の人格の関係によって、未達成の復讐という、殺害なき清廉さを残した状況が生み出されたのである。

おわりに

村娘の感じた悲憤。このように大名に対してひとりの人間として激発することは、当時かなり異端であっただろう。
男性からの侮辱に対する、個人として、一女性としての自らの尊厳の主張。
論理的でなく、想いひとつで成された行動は、おとぎ話として語りやすかった。

僕は最後に、上記の共通点から一つの仮説を提唱する。
「おつう伝説は、子を亡くした建礼門院を慰めるために、里人が即興で『これは昔からこの里に伝わる話なのですが~』とでっち上げて語り聞かせたものなのではないだろうか」
という可能性である。

この仮説を実証するためには、おつう伝説がいつ頃から語られ始めたのか、
大原御幸よりも以前からあった話なのか、以後に作られた話なのかを調べねばならないが、なにしろ京都には昔から似た伝説が沢山あったので、その伝聞の時代を正しく把握することは難しいだろう。

乙が森の伝承

似た伝説:『鉄輪』

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