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自分の基盤を作りたいという思いを行動で表す人

はじめに


自分の基盤を作りたいという思いを行動で表す人には、目標を達成していくために、自分が立てた計画を着々と構築していく安定感がみられる。①ではそうしたキャラクターを2人抜粋して、比較してみた。②では、その比較の最中に発見した「看取り」の概念について、とある作品を例にとって詳しく述べている。


①INTJ二者の比較

鬼舞辻無惨

無惨という男(鬼滅の刃)は
「私は弱そうに見えるか」
「黙れ。何も違わない、私は何も間違えない。全ての決定権は私に有り、私の言うことは絶対である。お前に拒否する権利はない。私が『正しい』と言った事が『正しい』のだ」
という台詞によって描写されている。

これに対して、景清という怨霊(fate/Grand Order)は
「諸行無常、盛者必衰」
「源氏死に候え」
という台詞によって描写されている。

復讐者そして怨霊という性質を持ち、これは京都市に多く伝わる御霊伝説を思い起こさせる。果たしてこの怨霊という性質は、自分の基盤を作りたいという思いを行動に移しているものであるといえるのだろうか。

祟道天皇や崇徳上皇、橋姫、清姫(和歌山)などにみられる御霊伝説の類型的パターンとは、
「遺恨を持った相手に、眼前
(顔の見えない相手に対する誹謗中傷などの間接的な手法でなく、最もシンプルな形式で互いの命を脅かすことのできる位置)
にいる自分を脅威として認識されないとき、己の存在すべてを無視されたように感じて、内から外に怒りを噴き出す」というもの。
これは、被復讐者の破壊に自己の存在証明を見いだすということであり、つまり他者の破壊によって存在証明を行うということである。
もし、そうして示した自分の在り方を、その後も持ち続けてしまったならば、他人と繋がらないその心は、陰惨で救いがたいものであるだろう。
そこに一つの救いをもたらすのは、第三者による手段を選ばない復讐の阻止である。
復讐者にとって、これは看取りであり、鎮魂であるということができる。
かつては、権力者の周囲にさぶらう警護の兵士がその役目を担うことも多かった。向かってくる復讐者を血も涙もなく切り捨てるのであっても、彼の思いに対して何の斟酌もしないのではなかった。
また、看取りと鎮魂は、祭りという形で現代に受け継がれている。
現代に生きる我々は、情念に身を焦がした人のやるせなさを感じとり、昔そういった人々がいたことに思いを馳せることによって、自らの苦しみを癒すのだ。

この看取りと鎮魂は、ゲーム作品『零』シリーズのメインテーマである。次に、このゲームシリーズにおける敵対怨霊への看取りについて触れる。

②看取り

zero-
ラスボス:霧絵
死因:裂き縄の儀式をするも心残り(恋人)があり失敗。
黄泉の門が開き怨霊化。



〜紅い蝶〜
縄の男(真壁清次郎)
死因:村にマレビトとして招かれるも、村の儀式(陰祭)にて楔(贄)にされ、虚へ落とされる。
その後オオツグナイにて怨霊化。
場所:虚
黒澤紗重
死因:村の紅贄祭(陰祭)の巫女として首を吊るされ死亡。
オオツグナイが起き怨霊化。
場所:虚

〜刺青ノ聲〜
久世霊華
死因:四肢を穿たれた後、目の前で思い人を殺され、破戒が引き起こされ怨霊化。
場所:終ノ淵と涯の間(あいだ)

〜月蝕の仮面〜
四方月宗也
死因:咲いた朔夜によって自身も咲いてしまった。
場所:地下の仕事場所
灰原朔夜
死因:帰来迎が失敗し、咲いてしまった。
場所:不明

〜濡鴉ノ巫女〜
黒澤逢世
死因:死んではいない。
夜泉の中を、最後の感情達を抱えたまま、1人で落ち続けている。
場所:黒キ澤、匪の中、夜泉の中

おわりに

気が向いたら続きを書きます。

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