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差し伸べられる手 あなたの孤独に水をくれるのは誰ですか?

今回取り上げたのは、こんな記事から…。
(※今回もかなりの長文になりましたので、気楽になが~い目でお読みください)

◎動き出した孤独・孤立対策(7月14日 中日新聞社・サンデー版より)記事抜粋

 社会とのつながりが薄い人、持つことができない人を社会ぐるみで支援することなどを掲げた「孤独・孤立対策推進法」が今年4月に施行されました。
 悩みや不安を抱え込み、頼れる存在もいない人々は今も昔もいますが、個人の問題と考えられていました。
 なぜ今、社会の問題としてとらえ、支援の強化に動き出したのでしょうか。

「孤独・孤立対策推進法」とは?

・趣旨…他人との関わりが希薄になる中、孤独感や社会的孤立によって、
    心身に悪影響がある人を社会で支える。

・基本理念…孤独・孤立の状態は、人生のあらゆる段階で、誰にでも生じう   る。だからこそ、社会で対策を進める必要がある。支援は当事者やその家族などの立場に立って継続的に。当事者の意向に沿いながら、孤独・孤立から脱して生活を円滑に営めるように。

・何をする?…首相や関係省庁の大臣でつくる対策推進本部を置き、重点計画をつくる。自治体は関係機関でつくる「地域協議会」の設置に努め、情報交換や支援内容を協議する。

・なお、重点計画では、対策の対象は「本人や家族が望まない孤独・孤立」

・他には、「孤独・孤立対策官民連携プラットフォーム」があります。問題に取り組むNPOや支援組織、関係省庁、自治体の連携を強め、協力して対策を進めていこうと政府が2022年に設立。支援を広げ、課題や取り組みの情報共有などを図る。会員は計578団体(2024年6月1日現在)
 テーマごとに分科会を設け、対応策を議論するほか、シンポジウム開催などをしている。
 また、孤独・孤立状態n人に気づき、支援機関につなぐ役割の「つながりサポーター」を各地で養成し、普及する。

―以下、アンケート調査

 政府が2023年に調査。対象は全国の16歳以上の2万人、有効回答11,141人
 (※四捨五入のため合計は100%にはならない)

Q:孤独を感じますか?
  
A:しばしば、常にある 4.8%
  時々ある 14.8%
  たまにある 19.7%
  ほとんどない 41.4%
  決してない 17.9%
  無回答 1.5%

約4割が孤独を感じるという結果に。これまでの3回の調査は4割のまま横ばい。

Q:孤独感を抱くきっかけになったできごとは?

A:家族との死別 23.3%
  1人暮らし 19.5%
  病気やけがなどの心身の重大なトラブル 15.5%
  転校、転職、離職、退職 14.0%
  いじめやハラスメントなど人間関係の重大なトラブル 12.9%

Q:孤独を感じる人、年代別では?
 
 〈男性〉
 ・30代 46.6%・40代 45.4%・50代 44.3% ―男性全体 38.9%
 〈女性〉
 ・20代 47.5%・30代 45.5%・50代 44.3% ―女性全体 39.2%

性別で大きな差はないが、年代では現役世代が目立つ。
他には「年収100万円未満」に多く、年収が上がるとともに減る傾向にある。
仕事の状況別では「失業中」に次いで「正社員」が多い。

Q:誰に頼っていますか?

A:家族・親族 95.8%
  友人・知人 55.8%
  同僚、学校の先生など 21.1%
 
以下、病院の医師、自治会や近所の人と続き、
行政機関やNPOと回答した人は少なかった。

Q:困ったときに頼れる人は?

A:いる 92.1%
  いない 7.6%
  無回答 0.3%

Q:孤独感がある人のうち、頼れる人がいるのは?

A:頼れる人がいない 72.0%

実に7割が「いない」と回答。
半面、頼る相手がいるのに孤独感がある人も…。

Q:行政機関やNPOなどの支援は?
A:結果、孤独感がある人でも8割強の人が支援を受けていない。

Q:では、受けない理由は?(複数回答)

A:受け方がわからない 38.1%
  我慢できる程度だから 35.5%
  状況は変わらないと思うから 28.1%
  手続きが面倒 20.3%
  支援を受けるのが恥ずかしい 8.4%

【今回の記事から「ああだこうだ」】

「無人島にたったひとつ持っていくとすれば何を持っていく?」
 なんて、質問がよくありますよね。
「え? ひとりで無人島? そうじゃなかったら、100人で100違う物を持って行けば十分暮らせるし、もうちっちゃな国じゃね?」
 なんて、ひねくれた回答を私はしたことがあります。
(というか幼少期に「♪~友達100人できるかな?」の歌に、昔、タモリさんが話されていたのと同じく「めんどくさっ! そんなにいらねえよ!」とツッコんでた私)
 そもそも、この質問が意図するものは何なのでしょう?
 その人の生活観・価値観を問うもの?
 究極の選択的な?
 でも、本当に無人島にひとりでひとつしか持っていけず、そのまま置き去りにされたなら、何を持っていっても…なはず。

 戦争もない今の日本であろうとも、世間というのは乾いた砂漠。オアシスを求めて、ひとり彷徨い続ける人がたくさんいるのも事実。
 大都市の人の洪水にひとり呑み込まれてしまう人がいれば、過疎の町や村でひとりあてもなく彷徨い苦しむ人もいる。
 約4年前、新型コロナウィルスの流行で、さらに「孤独・孤立」に拍車がかかった。

 しかし、いい捉え方の表現として「おひとりさま」という言葉もある。
 だがその言葉が似合う人は、充実した生活を送り、人間関係も良好なうえで、ちょっとひとりを楽しもうとチョイスするのである。
 いわゆる「健全なひとり」
 自身に「余裕」というオアシスがなければ成立はしません。

 身内や家族にも頼れない。頼る人がいないが7割以上。
 そして、支援を受けないの回答の理由が「我慢できる」や「恥ずかしい」と後ろめたい気持ちがある方が4割を超える。
 「頼る人がいない」イコール「頼るのが恥ずかしい」「孤独な人だと思われたくない」という人の目を気にする気持ち。
 社会的孤立・経済的孤立を味わう方は、自分のいたたまれない部分を見せることに抵抗がある。当然ですよね。
 でも、それこそ「望まない孤独・孤立」を生む気持ちの大半ではないでしょうか?
 「恥の文化」と言われる日本独特なものでしょうか?
 人様を気にしなさい、迷惑をかけてはいけないと思えば思うほど、人間関係というものは孤独・孤立を深めていく。
 ハッキリ言ってしまえば「上っ面」や「体(てい)」の関係のみに。いっこうに深まらない絆。
 SNSでつながる人もいくら友達の数が多いとはいえ、それが全員ホントの友達かは疑わしい。

 ここで、私が東京から戻ってからできた友人のことをちょっと。

 ちょうど3年前の夏。世はコロナ禍。猛暑の中、マスクしていたころ。
 日が傾く午後6時過ぎ。
 仕事帰りにちょっと立ち寄った立ち飲み屋。
 コロナ禍のため、営業も夜9時まで。
 仕事でいろいろあって大変な時。
 こんなとこで飲んでる場合ではなかったけど、自然と店に足が向いた。
 サクッと飲んで「明日も仕事頑張るか」と思っていると、今現在では顔なじみの野球好きの店員さんがいきなり、
「ダルビッシュに似てますよね」と私に。
「あんなカッコよくはないですよ。たしかに顔の味は濃いですけど(言われたことはあるけど、おべんちゃらでもうれしい)」
 すると、隣にいた男の子が
「似てる似てる。キャップかぶってユニフォーム着たら似てますよ」
 で、さらにたきつけて店員さんが
「じゃあ、あだ名はダルさんで決定!」
 それから、店での私の呼び名はダルさんに。
 店に入って、ものの数分。呼び名もキャラもあっという間に決まった。
 そんなこんなが決まっていくと、人は胸襟を開いて話せていける。
 それから男の子と話していくと、彼もこんなとこで飲んでる場合ではないと分かる。
 彼は学校と仕事が忙しくて…。特に勉強で気持ちが押しつぶされそうな毎日。でも、なんか消化不良のまま家に帰るのはなあ…だった。
 私も当時働いていた会社や仕事にどこか悶々としたやりきれないものを抱えていた。
 そんなこんなをぶっちゃけまくったふたり。
 そこから閉店の9時までお互いしゃべりまくった。
(9時閉店じゃなかったら、たぶん11時過ぎまで飲んでたであろう)
「時間すぎるの、早いなあ…」と彼。
「あっという間だね」と私。
 店を出て、駅の中へ。すると彼が…。
「連絡先、交換しません?」
 私は初めて会った人から連絡先交換しませんか?と言われると「また会えれば」と逃げてしまう。
 だが、何かを感じた私。
「ああ、いいよ。でも俺、ガラケーだ。それでも大丈夫?」
「かまいませんよ。交換しましょ」
 
 そこから、毎日、生存確認メール。(たまに誰も傷つけない下ネタをはさんだり)
 
 すると、出会って4か月経ったころ、こんなメールが。
「ウチの母が事故に遭って。なんか、不安で。ダルさん、今、電話できますか?」
 その時、電話に出るのが難しかった私は
「昼頃、こっちからかけるよ。待てる?」
「はい。待ってます」
 電話するまで彼の不安な心を案じながら仕事。
 そして、電話した。
 彼の声は、不安から声が宙に浮いて彷徨う。
 それをキャッチして、声で応える私。
 通話時間、約50分。
 切る間際、彼から
「落ち着きました。誰に電話していいか? 迷いなくパッとでてきたのがダルさんでした」
 彼のこの言葉、正直、うれしかった。
 まだ4か月しか経っていないのに、学校の友達とかにも話は聞いてもらえるだろうに、私を思い出し電話してくれた。
「話すこと(中身はなんでもいいから)」は大事だと。

 今で丸3年。
 お互いに心地いい距離感を保ちつつ、でも何かあったときは話を聴ける関係は続いている。
 たまに飲んだり、銭湯入りに行ったり。
 もう彼の前では、恥ずかしいも何もありません。

 今の彼やもっと昔に出会った戦友。会えなくても、連絡がなくても、ふと共に過ごしたことやうれしかったことを思い出せば、ひとりではないと思える。
 どんなに共に気持ちよく仲良く時間を過ごしていようと、会社なり、学校なり、人はひとりで戦地に向かう。戦っている。
 そんなときに負った傷を癒すのは、そういう大切な瞬間や人たち。戦っているのは、自分ひとりではないのです。大切な人も戦っています。

 それがわかっていると、こんなふうに思います。
「な~んだ。孤独って、もしかしたら、自分の手で生み出してしまっているものかもしれない」
「ダメな自分を見せたくなくて、望まないのに孤独を選んでしまっているだけかもしれない」
「孤独って、ガッチガチに鎧を全身に身に着けているから、気分もなんだか重たいしくたばりそうになるんだな。誰も近寄ってこないんだな」

 今の彼との関係や今でも連絡を取り合う友人と出会えたときに特に大切なのは「人」と「場所」と「自分の足」でした。
 会いたければ「会いたい!」と叫ばなくてもそっと伝えてみては?
 
 もし、そんな人がいないなら、ぜひ「自分の足」を信じて、いろんな場所へ「自分の足」を向けてほしいのです。
 そして、いろんな人と顔を向き合わせてみてほしいのです。

 私自身、無防備もいいとこ。あけすけ。誰でも来い!になってきてます。40歳を超えると。
 昨日、コンビニにタバコを買いに行くと、アジア系の男性が私と目が合うなり、私が買うタバコに手をかけて「これ?」とアイコンタクト。「それ2つ」と私。
 憶えてもらえていることのうれしさと「このやりとりなんかいいなあ、素晴らしいなあ、彼は」と感心。心の中で「時給あがれ時給あがれ!」と祈って。

 自分の話ができるのは、誰かでいいんです。親とか恋人とかじゃなくてもいいんです。100人いなくても大丈夫です。実際そんなにいりません。
 私の今も続く家族以外で密接な人との関係は、人に言うときはわかりやすく伝えるために「友達」とか「親友」とか言いますが、自分の心の中では「そんな簡単にカテゴライズなんてできっこないよ!」な関係なのです。
 あなたが言葉に詰まらず一言二言で関係や魅力を言い表せられない人がいたら、その人は間違いなく大切な人です。逆もしかり。
 そんな人とは鯛焼きをちょうど半分こできなくても、もめないはず。

 そんな方がいる方は、これからもその人を大切に。
 そんな方に出会えていない方には、これからそんな誰かに出会えますように…。

 孤独は自分のみで生んで水をあげなくても勝手に育つ、砂漠に立つ仙人掌(サボテン)のようなもの。
 誰かとの無邪気な関係は自分と大切な人とで生んで互いに水をあげて育てた、まるで我が子のようにいとおしく大切なもの。

 さあ、どちらを生んで育てたいですか?

【執筆:OnenessA 年がら年中IceCoffee】