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[前編] Boris Groys(ボリス・グロイス)『Philosophy of Care(ケアの哲学)』

近日邦訳が発行されるボリス・グロイスのPhilosophy of Careについて、英語版を読んだ際の読書メモをまとめて公開しておきます。12章構成、前編はイントロと1〜6章までをまとめました。

イントロダクション(ケアとセルフケア)では、ケアは現在最も普及した「労働」と「制度」として、狭い意味の医学を超えたものであるという書き出しから始まる。グロイスが注目するのは「物理的な身体」は、そこから拡張された「象徴的な身体」=モノや記録、文書、画像、映像、録音、書籍、その他のデータのアーカイブに媒介されてケアの対象として統合され監視とケアのシステムに管理されているという。

医療制度はサービスを提供する機関として私たちを主体化し、選択の機会を与えるという点でセルフケアはケアに先んじるのである。「物理的な身体」と「象徴的な身体」は対立項ではなく、「私」はこれら2つの身体の番人(caretaker)である。この2つの組み合わせが「自己」である。このように主体という番人は、自己に対して外的な立場をとる。主体は中心的な存在ではなく、それは「脱中心的(eccentric)」な存在なのである。

医療は、経済にとって機会のような道具として、機能しなくなった身体も治すように促すため、この時主体はその身体を所有することなく、財産や道具として使用することができる。セルフケアの主体が医療、政治、行政に積極的に参加するには、知識(ex. 医学的知識)を非知識の立場から判断する能力を前提としており、非知識は弱さを感じさせるものであるが、実践されることによってのみ力を発揮する点で強さでもあるのである。

こうしたグロイスの主張は、1章から12章まで、クロニクルに哲学者をケア(依存)/セルフケア(自律)という側面から再解釈していく。

1 ケアからセルフ・ケアへ

この章で登場するのはソクラテスとプラトン。有名な洞窟の比喩を用いて「真理のケア」というテーマが論じられる。

ソクラテスは非知識の立場をとっていたが、自身を真理の助産師になぞらえて居た。真理=準生理学的なもので、「真理は彼方にあるのではなく、むしろ我々の中にある」。そして、真理に至るには「外圧」を受けなくてはならないとも言っている。

洞窟の光と影の喩えは社会空間の喩えであり、影の起源を発見する衝動は外部からもたらされなければならず、人は自分の身体の位置を変えることを強いられる。

最初、彼らのうちの誰かが解放されて、突然立ち上がり、首を回して歩き、光の方を見ることを強いられると、彼は鋭い痛みに苦しみ、まぶしさに苦痛を受けて、以前の状態では影を見ていた現実を見ることができなくなるだろう。

Plato, The Republic, trans. Benjamin Jowett, New York: Vintage, 1991, p. 254.

これをグロイスはマルクス主義で言えば(上部構造のレベルではなく)物質レベルで身体の位置が変化するからだと述べており、真理の光で哲学者は盲目になると、真理の永遠の中で哲学者は魂が永遠と発見し、自身の身体/社会的身体に脱中心的立場が保証される。つまり、ここで哲学者はケアの客体からケアとセルフ・ケアの主体へと変化するのである。

主観から脱するためには助産師(ケアテイカー)が必要であり、それは歴史的には教会であり、デカルト以後は科学に据え変わった。しかし、この文脈ではセルフケアは制度的ケアの効果であり、セルフケアの脱中心性はケアという制度に従属したままになってしまう。真に脱中心的になるためには、セルフケアの対象者は、教会や科学界の判断に反してでも、自分の個人的な証拠の有効性を主張しなければならないのである。

真理の光は、魂が肉体に幽閉されることによって不明瞭になることはあっても、模倣されたり、偽られたりすることはない。例えば、キリスト教の光でさえ悪魔的なものである可能性もあるのである。間違った光を選ぶという決断は、たとえそのような選択が危険を伴い、永遠の破滅につながるとしても、セルフケアの主体の自由の勝利として容易に理解することができる。

ロマン主義時代に、個人の選択、制度化されたキリスト教の保護抑圧から自由になるために、メフィストフェレス、悪魔、サタン、つまりあらゆる否定や反抗の形態と自分を同一視するという用意は、人は神から自由へと転じる準備だった。

肉体を通した不自由な主体の真実は、脱中心化し反抗をもいとわないセルフケアの主体によって発見されるのである。

2 セルフケアからケアへ

2章ではヘーゲルの思想からフーコーの生政治の話に至り、ポスト歴史社会の「完全なケアの社会」としての制度的管理社会が論じられている。ヘーゲルの思想に沿うと、歴史とは人間の主観性の本質としての自由を明らかにする過程であり、私たちは内的倫理に従っている。哲学者はこの運動の観衆である。哲学者は客観的に、歴史という否定の否定という弁証法を通じて、否定として現れた自由を見るのである。フランス革命の恐怖の中に主観性の究極の自己顕示を見い出し、それは人間の主観性の究極の歴史的啓示となり、同時に「歴史」は終わりを迎えた。革命後には、階級ではなく普遍的恐怖が残った。

普遍的な自由の唯一の仕事と行為は、したがって死であり、その「死」もまた、内的な意義や充満を持たない。

G. W. F. Hegel, Phenomenology of the Spirit, trans. A. V. Miller, Oxford: Oxford University Press, 1977, p. 357.

個人は今や死を外的な危険としてではなく、自らの自由の働きとして知っている。この意味で、自由の否定性は肯定的になる。今や個人は自分自身を知っており、この知識がその本質となるのである。

Ibid., pp. 363.

振り返ると、歴史とは否定の歴史として進んできたものであった。歴史的な人間は危険であり、歴史によって動員され、歴史的な年代記に記憶される。人間の歴史は、自由への欲求に突き動かされた否定の歴史であった。しかしながら、革命後の歴史的な存在は、動員されず、家畜化された存在になることを運命づけられているという。英雄はもういないのである。

しかし、解放の歴史に終わりはない。人間の自由の啓示としての歴史の終焉が達成されたとして、文明の唯一の目標は、法の支配によって確保された個々の人間の身体の保存にとどまるのかどうかである。戦争と革命の高度に動員された歴史的な身体は、そのとき、ケアのための復員した身体となるだろう。

ポスト歴史社会は、数として健康を管理される社会であり、国家は繁栄のために真理の思索ではなく国民の健康を目的に据える。君主に支配されるのではなく、革命後の国家の絶対的な主人は「死」なのである。国家は法律や様々な方法で個人が生きながらえるよう予防線を張っているのだ。ポスト歴史社会は完全なケアの社会である。

国家が管理する「私」の身体は、ドキュメント(マイナンバー、カルテや乾坤診断のデータなど様々なデータ)の身体=象徴的な身体である。プラトンは身体に魂を幽閉し、ヘーゲルは象徴的な身体に魂を幽閉したが、現代は私たちの精神的自由ではなく、むしろ私たちの健康、私たちの純粋な生命エネルギーが、私たちを象徴的身体の境界線に押しやり、近代的、牧歌的、生政治的国家とその保護機構(ケア)を否定(セルフケアへ)しているのである。

3 大いなる健康

3章はタイトルからも想像できるように、ニーチェと健康がテーマとなっている。ニーチェによると、健康であることは攻撃性の現れである。既存の秩序の否定という意味ではヘーゲルの自由の概念との類似もうかがえる。自由は弁証法的であるが、健康はそうではない。自由は、歴史の終わりに、自己を否定するとき、自己肯定的になる。しかし、健康は初めから自己肯定的である。純粋な自由の本質は無であり、ニーチェは自由への闘争をニヒリズムと退廃の現れと見た。

攻撃的な健康は、無秩序のために戦うのではなく、新しい秩序を押しつけるために戦う。ジョルジュ・カンギレムは次にように言っている。

健康とは,自分が所有者や担い手であるだけでなく,必要であれば価値の創造者であり,生命的規範の確立者であると感じながら,存在に取り組む方法である。

Georges Canguilhem, The Normal and the Pathological, New York: Zone Books, 1991, p. 201.

力への意思が弱まると、人は病気になることがある。ニーチェは健康であるために栄養と気候について正しい選択をする必要性を主張し、腸の動きの重要性にも注目している(『この人を見よ』)。そして、精神そのものも有機的機能の一形態に過ぎないとも書いている。康であるということは、強く、エネルギーに満ちているということであり、そのエネルギーは、対立や戦争に現れるのだ。ニーチェは自分自身をダイナマイトに例え、攻撃を弱さとルサンチマンからの攻撃と、エネルギーの余剰としての攻撃の2つに区別し、ニーチェ自身、攻撃することは好意の証であると言っている。

ニーチェは未来の「名声」を期待し、大いなる健康を受け入れた。ここで大いなる健康とは、創造的であり、死のリスクを冒すことである。未来をデザインするという意思は、自分の死をデザインすることでもある。ニーチェにとって歴史とは「記念碑的歴史」であり、大いなる闘いをした偉大な人間の連鎖だった。創造物は生き続け、私たちは、誰かが建てた建物に住み、誰かが発明し、作った機械を使って、誰かが作った芸術作品を見ており、これらは創作者の名前の無いエネルギーによって作られるが、創作者自身は名前を持っている。後世の人々がそれなしには生きていけないというようなものに変化した「名声」を求めたのである。なぜなら、ニーチェ自身は体が弱く、しばしば病気であり、身体をテクストや本の身体として拡張すべく、ソクラテスと同じ出産のイメージを使って『ツァラトゥストラ』を18ヶ月間妊娠していたと書いている。そして超人が死の危険を冒して生まれたものは超人の姿をしている。

健康状態はエネルギーの永久的な流れであるため、真の健康には到達することはできないが、エネルギーはさらに流れ、『ツァラトゥストラ』のような超健康的で爆発的な人格を通して、常に新しい否定/創造を生み出す。『ツァラトゥストラ』とは書物としての身体であり、制度的なケアの対象として象徴的な身体を獲得する。社会が大いなる健康を求めたとしても、超人は、国民を患者の塊にして病気にする生政治的な国家に対する闘争としてセルフケアを実践しているように見える。しかし、現実には、超人たちは依然として象徴的な身体の制度的ケアに頼っている。健康の余剰、すなわち超健康は、超生存を約束するものであり、書物、芸術作品、並外れた歴史的行為の記憶としての死後を約束するものである。ニーチェの偉大な健康は、認識と名声への欲求であり、それゆえヘーゲル的な歴史物語に再び刻み込まれることができるのだ。

4 ケアテイカーとしての賢者

4章にはコジェーヴが登場する。グロイスは、コジェーヴの哲学的アプローチは、ヘーゲル的というよりもニーチェ的なものであると述べる。コジェーヴの関心は政治史であるが、歴史は理性によってではなく、自由を求める人間性によってでもなく、公に認められたいという個人の欲望によって動かされるという。

通常、欲望はこの世のものへの執着につながると解釈されるが、欲望は人を思索から行動へと向かわせる。この行動は常に「否定」である。欲望の私は、「外的なもの」「与えられたもの」すべてを消費し、否定し、破壊する空虚である。

第一の欲求は他者の欲望を欲する「人間的」欲求である。例えば男女の関係において、身体ではなく他者の欲望を欲する場合にのみ、欲望は人間的なものとなる。欲望は弁証法だ。人間の欲望は動物の欲望の否定であり、否定の否定である(自己の欲望を否定+動物の欲望の否定)。

コジェーヴはヘーゲルの書いた自己意識の最初の戦いに言及し、(1)死ぬか、(2)生き残って勝者の欲望を満たすために働くかという2つの選択肢のみを用意した。人間には「主人」(欲望の主体)と「奴隷」(欲望を叶える)の2つのタイプが生まれるのだ。歴史は、表面的には、主人たちの歴史であるが、主人は奴隷の仕事によって生命維持を支えられている。それでますます奴隷に依存するようになる。つまり主人は他人の仕事、奴隷の仕事に支配された世界の虜なのだ。

ここで「奴隷」は、上流階級の幸福のために働くという「ケア」の仕事として理解される。君主としての哲学者の活動は、欲望の欲望によって、つまり承認の約束によって動かされる。コジェーヴにとってソクラテスもまた、主に承認欲求に突き動かされている(人々が「合理的な」言説によって説得されるとは考えていない)。狂気じみた、前代未聞の、「創造的」に聞こえる哲学的思想に誘惑されると考えている。歴史の終わりは、働く主人の姿の出現によって示される。

ポスト歴史的な集団は主人の集団であり、言い換えれば、仕事によって消費することができる限りにおいてのみ働く消費者の集団である。賢者は創造的な天才ではなく、普遍的なケアテイカーなのだ。賢者の出現は、ケアとセルフケアの対立の超克を示唆する。

健康という話に戻ると、精神と身体の対立は、機械としての人間と動物としての人間との対立になる。したがって、健康という概念も両義的なものになる。機械としての人間は、働いているとき、機能的であるときに健康であるとみなされる。ケアのシステムは、人々が働き続けられるように健康を維持することを目的とするのだ。これは、人間が機械であり、代替可能であることを示している。代替可能だということは、労働者は潜在的に不死身だということである。

しかし、動物としての人間であるとすると話は変わってくる。家畜化され、働く動物にさえ欲望がある。欲望を持つことは、ケアのシステムにとっては都合が悪く不健全である。ケアのシステムは、労働者としての人間をケアするのであって、動物としての人間をケアするのではない。欲望は(個々のものなので)再現不可能であり、健康は欲望の強さとして理解され始める。健康は、欲望する人間がケアのシステムから抜け出し、自分の欲望を満たすために最後まで闘う能力である。ニーチェ的な未来の認識という欲望は、匿名の同じことの繰り返しという欲望によって超越されうるのである。人間の中の生命力の爆発は、歴史的でない別の秩序に属し、歴史化することはできない。賢者が労働者になったとすれば、人間の中の動物が主人となるのである。

5 主権的な動物

5章は主にバタイユが取り上げられる。バタイユは第2次世界大戦後に書かれたテクストの中で理性ではなく労働の支配に対して抗議し、欲望を思索や労働のプロセスの中断として捉えた。コジェーヴ的に言うなら、食欲など動物的欲求は労働プロセスから自分の身体へ注意を向けさせるからだ。

機械は自分の生存を心配しない。しかし、動物や人間はそうだ。

バタイユは私たちを完全に脱機能させるような欲望に興味がある。ニーチェは、大いなる健康に寄与する体であれば余剰のエネルギーは自分の体の中から出てこなければならないと考えたが、バタイユによればその余剰エネルギーは外から、つまり地表を循環する宇宙エネルギーから来るのである。余剰エネルギー、バタイユが言うところの「呪われた部分」は、労働過程だけでなく、むしろ破壊や自己破壊を通じて使うことができる。

バタイユはモース『贈与論』に依拠し、「一般経済」、つまり、労働、生産、蓄積だけでなく、消費、贅沢、浪費も考慮に入れた経済理論についての言説を展開する。『贈与論』で展開した象徴的交換は現代でも作用し続けていることを示すために、労働や蓄積だけでなく、損失や破壊によって生み出される価値も含めて、経済の領域を拡大しようとした。

贈与は受け手に対する一種の攻撃でもある(贈り物にはお返しをしなくてはならないというふうに)。贈与の価値と贈られた人にとっての有用性とは無関係であり、贈与という行為にはそれ自身の象徴的な価値があり、それは義務的な形で社会から認められている。特に北米のインディアンの間で行われていたポトラッチという習慣が、世界各地で行われていること、またポトラッチとは、自らの富の破壊を競うもので、競う部族は家や畑を燃やし、家畜や奴隷を殺すといった過激なものであるが、こうした象徴的な贈与の交換の法則から人間は逃れられないとバタイユは解釈している。

人間は太陽から得た過剰なエネルギー(=贈り物)のバランスをとるために、(自己)破壊を実践している。人間は太陽とのポトラッチの主体になりたいのだ。

ブルジョワ社会は封建制を主権的な過去の影の中ししまい込み、より大きな富とより高い社会的地位を得るために従事する労働と努力を尊重している。ゆえにブルジョア的主体は、半分動物で半分機械なのだ。一方で共産主義の主権は、機械になることを決意した人間の主権であり、人間の本性の半分である動物性を拒絶する。

対して、バタイユの主権は労働を拒否し機械であることをやめた動物的主権であり、共産主義の主権を否定的主権であるとした。封建的な領主を首のないものとして、匿名の、「名前のない」生命的な超能力を発現するアセファルと想像した。死は無に帰すことではなく身体機能を伴った有機的なものであり、死は腐敗していく。主権への欲望は、受動的な死を能動的な殺戮へと転化する。主権者は無法者の殺人者なのだ。

ここでグロイスは、この著作が書かれることになったCOVID-19から影響を受けてか、創造性を発揮するためには、感染しなければならないとしている。仕事のプロセスと動物の欲望の両方が不健康にするため、我々が感染症にかかる可能性が大きくなる。感染が刺激として破壊的なエネルギーの流入させ、創造性を授けるのである。

ケアの社会は、古代の習慣、儀式、風習を記憶しているものであり、バタイユは混乱状態を作り出し、過去の復活や再演しようとしていたのだ。

6 感染する聖なるもの

カイヨワは聖なるものと感染するものを同義とし、俗と聖の間の無秩序な接触は、その両方を不浄にすると考えた。聖なるものは魅力的であり、同時に危険である。伝統的な文化では、力の関係は一般に自明だが、崩壊は、保護のメカニズムを弱め、社会に聖なるエネルギーを大量に流入させる。そうすると、仕事は止まり、エクスタシーが始まるのである…。こうして0になると、伝統的な文化にはあまり関心を示さず、自らの文化、とりわけ、一方で規則正しい仕事、他方で祭り、暴力、戦争との間の選択に関心を示すようになる。啓蒙主義と科学的思考の近代社会への支配は、深い不満を通じて聖なるものをこれらの社会に感染させたのだ。

現代人は自然死を待つだけの人生を送ることができなくなった。したがって、聖なる炎と俗なる腐敗のどちらかを選ぶ状況に置かれると、炎を選ぶのだ。退屈な生活に不満を持つ個人によって内面化されるだけでなく集団的な選択が、近代戦争という現象へと導く。

カイヨワは来るべき全面戦争によって生命というものが終焉を迎える可能性を論じている。バタイユが腐敗した死体として現れる究極の他者との出会いを求めるのに対し、カイヨワはこの出会いを一定の保護措置に委ねるよう助言しているーー完全な感染と生けるものの死を回避するために。

(前編:了)

後編へ:以下7〜12章

7 ケアテイカーとしての民衆

8 民衆とは誰か?

9 現存在としてのケア

10 日雇い清掃人女性のまなざしの下で

11 仕事と労働

12 革命的なケア


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